友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

先輩たちの嘆きをそっと聴く

2022年05月30日 17時49分30秒 | Weblog

 井戸掘りと悪天候のために、伸ばし伸ばしにしていたチューリップの球根を取り入れた。昨年は新しい球根を買っていないので、そんなに数がある分ではないし、見事な花を期待できるような球根は数えるほどしかない。それでも球根を取り出したのは、なぜかそうしないとチューリップに申し訳ない気がしたからだ。

 花は咲くことで子孫を残していく。だから必死になって花を咲かせる。種や球根にも運命があるのか、立派に育つものとそうならないものがある。純粋に生きているのに、不平等が生まれるのはどうしてなのだろう。私の手で助けてやれるものならそうして上げたいが、どうにもならないのが現実だ。

 天候だってそうだ。太陽が欲しい時に大雨になったり、花が咲いているのに強風が続いたり、全く気まぐれで手に負えない。せめて人間同士は愛し合い、協力し合って生きていけたらよいのに、それも出来ない。物知りの先輩が、「日本は古代よりおおらかな国だったが、明治政府が西洋化を進めたために、やたらと難しくなってしまった」と言う。

 『古事記』に、大地に降り立った神イザナギがイザナミに「君の身体はどうなっている?」と聞くと、イザナミは「なりあわぬところが1つある」と答える。イザナギは「我が身は余れるところが1つある。我が身の余れるところをもって、汝のなりあわぬところを刺して塞ぎて、国を産むのはどうか?」と聞くと、「それはいい」とイザナミは答えている。

 こんな風にして日本は誕生したのだから、性に関してはとてもおおらかだった。平安貴族は目星をつけた女性の宅に夜這いをしていし、身分制度が厳しかった江戸時代でも祭りは無礼講で、子どもが生まれたら村全体で育てていた。好きになれば、身分も家柄も飛び越えてしまう情熱があった。

 先輩が「年老いてきたせいか、女がやたらと恋しい」と言う。私は川端康成氏の『眠れる美女』を思い出した。薬で眠ったままの若い女性の身体を見つめるだけの小説だが、今になるとその心情がよく分かる。私の大学の先輩で有名な現代作家の山田彊一氏がブログに、女性の足を眺めて、天上から落ちた久米仙人を載せていたので、無断で転載させてもらう。

  

コメント
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