「ママって、小学校1年の時から料理作っていたんだってね」と小3の孫娘が得意そうな顔で言う。「ああ、よくお手伝いしてくれたよ」と私は答えたが、そうだったかと思い出そうとするが確信がない。我が家は共働きなので、子どもたちが家事を手伝うのは当たり前になっていた。お米を研ぐことは教えたような気がするが、料理作りまではやらせていなかったような気がする。
子どもの頃の記憶は小さなことでも大きくなるし、なんでもないことが大事なことのように、その人の思い入れによって脚色されることがある。私と妹は2歳違いだが、私の記憶の中では、縁側のたらいで生まれたばかりの妹が沐浴されている光景が鮮明にあるが、果たして2歳の子どもが覚えているのか疑問だ。そんな光景の話を聞いて、いつの間にか自分の記憶に刷り込まれたのではないだろうか。
子どもたちには食後の食器洗いをさせていたが、テレビが見たいのでなかなかやらない。今日は「姉の当番」とか、いや「妹が当番」とか、言い合って押し付け合う。食器洗いが面倒ならと、奮発して食洗器を購入したが、食洗器に食器を並べる「係り」でまた揉めた。けれど、今、子どもたちに当時のことを聞けば、「毎日お手伝いしていた」記憶しかないだろう。
私の2歳下の妹に、母親が勉強のために名古屋へ出かけると、「いつも泣いて追いかけて行って困らせていたよね」と話すと、「何も覚えていない」と言うので、「子どもの頃のことでよく思い出すことは?」と尋ねると、「何も記憶にない」と言う。中学2年の夏に母親を亡くしてから、妹には楽しいことが一度もなかったのかも知れない。
嫌なことは出来るだけ記憶から消してしまいたいのが人情だろう。楽しかったり嬉しかったりしたことは事実以上に大きく記憶されるし、誇らしく思えるようなことも記憶に残る。自分に都合のよいように記憶が編纂されなければ、人は重荷で潰されてしまうだろう。振り返ってみると、「まあまあの人生だったね」と言えるように。
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