7月28日の大和塾市民講座で講演してくれる講師の大野さんが、講演会場を見たいというので案内し、その後で塾生の仲間と昼食を一緒にした。中国では1日2食の生活をしているので、「こんな時間(正午)に食べたことがない」と、彼女は戸惑っていた。「一ヶ月で生活費はどのくらいかかるのですか?」との質問に、「よく考えてみたら、村から出なければ、ほとんどかからないでしょうね」と答える。みんなが驚くと、「野菜は畑で作っているし、村の皆さんがいろいろ持ってきてくれますし」と言う。「何しろ、向こうの村の人たちの身なりよりも私の方が貧しい身なりなので」と付け加える。
確かに彼女の靴は破れていたし、靴下も左右とも穴が空いていた。「村の人よりもいい生活をしていたのでは、心を開いて話してはくれなかったでしょう」。彼女が住んでいる村は、かつての日本軍が共産ゲリラと戦うために、殲滅作戦を展開したところ。日本人に対する恨みが強く残っているのではないかと聞くと、「はじめの1年はなかなか打ち解けてはくれなかったけれど、恨みを言われたことはなかった」と言う。世界中どこへ行っても、結局は人柄が、人と人とをつなげるかか否かを決めるようだ。
たまたま彼女が中国を旅行中、土砂崩れのために迂回したところが黄河流域の貧しい村だった。村人から「どこから来た?」と声をかけられたのが運命の出逢いだった。再び村を訪れた彼女はそこに住み着き、村人と話し、村人の写真を撮るようになる。「運命の出会いというものがあるんだと思う」と彼女は言う。なぜ、住み着くようになったのか、それもまた興味深いけれど、全てを受け入れていく(実際はそうではないのかも知れないが)、そんな彼女の生き様が面白いと思った。話を聞くうちに、アメリカにも2年ほど滞在したことがあったそうだが、「アメリカ人にはなれなかった」と言う。
中国に住み着いて7年余となると、もう立派な中国人である。自分勝手で、他人に手を差し出す余裕などないと言われている中国人だが、彼女が住み着いた村はまだまだ物々交換が通用するくらい、人と人とが助け合って生きている。そんな村も今、変わりつつあるそうだ。若者は現金を求めて村を出て行く。村には電気はあるが電気冷蔵庫はない。テレビはあるが電気洗濯機はない。必要ないからだが、これからは変わって行くだろうと彼女も予想している。
北名古屋市の文化勤労会館のエントランスホールで、彼女が写した130人の老人の写真を展示している。昔、私たちがまだ子どもの頃に出会った老人たちによく似ている。今、こんな豊かな顔をした老人は見なくなった。写真展は7月28日まで。講演は7月28日の午後2時から、同館の小ホールで行なう。入場は無料、誰でも自由に参加できる。
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