歯科医院の待合室に置かれたテレビで、旧統一教会の会長が謝罪しているのを見た。音量が小さくて、時間もチラッとしかなかったので自信は無いが、言っていることは間違っていないように思った。
教会の指導が行き届かず、高額な献金をさせてしまったことを詫びる一方で、信仰の自由から解散命令請求には応じられないといった趣旨を話していた。どんな宗教であっても、信ずるか否かは各自の権利だと私は思っている。
信仰を持った人は誰でもきっと、僅かな献金でも役に立って欲しいと思う。そのために家庭が崩壊してしまうのは、やはり信仰の仕方に問題があるように思うが、古今東西、宗教が抱えて来たことでもある。
暴走を止めるのは、内部の信者であることが望ましい。ただ、団体というのは内部討論が成立しないことが多い。この難問を克服できれば、その団体は確実に成長していくだろう。しかし、議会のように、本来はそのための機関なのに、激論を交わすことに欠けている。
私の青春時代は、創価学会や統一教会の活動が盛んだった。宗教に関心を持っていた私は、何度か集会に誘われた。結局は自分が納得出来ず、離れてしまった。共産党の学生組織に所属していた、高校の同級生からオルグも受けた。
ハンガリー動乱について、「なぜ、ソ連は市民に銃を向けるのか」と彼に訊いた。すると、「銃は誰が持つか、なのだ」と言う。「ソ連が持てば正義になるが、反共分子が持てば悪になる」と。私が「そんな理屈は納得できない」と言うと、彼は怒って、「革命が成功したら、銃殺刑だ」と言い放った。
彼は今頃、どうしているのだろう。共産党は今も、内部からの批判を受け付けていない。批判した市議を除名処分にしている。政治団体も宗教団体も、内部批判を封じ込めてしまう。この先もそうであれば、救いは無いように思う。
神体験で文鮮明のロボットになった人たちは、たとえば「人を殺せ」という指示があったらどうするのかと尋ねられると、こう答える。「文鮮明の指示だから、地上天国実現のためとか、原理的な意義とか位置づけをされたら、自分も葛藤はあったとしても、それを押し殺してやっていたと思います」
文鮮明はメシヤなのだから、人を殺せと言うはずはないと思わないかとの問いには、「むしろ、地上天国実現のためであるならば、それに反対する者は、イコール、サタンですから、そういうことはあり得るんじゃないかと思います」という答が返ってきて、その指示で殺されるサタンの人の立場はどうなるのかと突っ込むと、「結局、地上天国実現のために、メシヤの行く手を阻むようなことであったならば、生きているよりも、霊界に送り届けたほうがその人の救いになるというような教えですから」と、唖然とする信仰理論になる。
これでも宗教と言えるのか。