私が地域新聞の第1号を発行したのは1985年10月12日だった。第1号の1面の広告は、この町の出世頭と思われる元町長が創立した会社から頂いた。最後の4面は私が食らいついて、何とか出してもらった隣り市のホテルの結婚会場の広告だった。
中の2面と3面は、子どもが通っていた塾と音楽教室、私が通っていた理容店、それと同じマンションで友だちになった人の会社の広告で、言わば泣き落としで頂いたものだった。けれど、第1号を見た人たちの好感度はよかった。
1面に広告を出して頂いた会社に行くと、社長が「親父が勝手なことを言ったようだが、1面広告はこれで終わりだ」と言われる。地域の新聞なのに、その会社名は絶対に欲しい。「題字横に月1でいかがでしょうか」と頼み、了解をもらう。
第2号の1面は、ポッカで広告を担当している大学の友だちに広告掲載を依頼した。この町にポッカは工場を持っていたから、地元への協力ということでOKが出た。次の課題は目につきやすい4面の広告を探しだ。出来上がった第1号を持って、これはと思う企業を回った。
木造建築を謳っていた会社の事務所に飛び込んだ時は、辺りがすっかり暗くなっていた。何の面識も無い、どこの馬の骨とも分からない者が、いきなり「広告を出しませんか」と言うので、事務所の人たちは「帰れ」といった目で私を見た。
その時、奥から身体のがっちりした男が、「広告くらい出してやれ」と担当者に言った。10月27日発行の第2号から、毎号の広告掲載となった。社長と親しくなって、「毎回出して頂きありがとうございます」と礼を言うと、「たいしたことないさ。ワシんとこもあんたとこのおかげで、助かっとるで心配いらん」と笑った。
今日、その社長の葬儀に参列させてもらった。地域新聞の現編集長が知らせてくれて、一緒に連れて行ってもらった。遺影を見たら、「オーイ、頑張っとるかねえ」と声をかけられた。ありがとうございました。
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