「天才か、反逆者か」と言われている正体不明のストリートアーチィスト・バンクシーの作品が今朝の中日新聞に掲載されていた。「全米で続いている黒人差別解消を求める抗議運動へ賛同する新作を公式インスタグラムに投稿した」とある。
「投稿は3枚の画像で、1枚目では、写真立ての中の黒い影のような人物と燃えるロウソクが描かれており」「2枚目ではそのロウソクが米国旗の端に火を付けている」と記事は続く。国旗を燃やすのは不敬罪に当たると騒ぎ出す人もいるだろう。
現代アートの祭典である「愛知トリアンナーレ『表現の不自由展・その後』」で、「天皇の肖像を燃やすものや韓国の少女像の展示は名古屋市民を屈辱する」と河村市長が言い出し、出資金を巡って裁判になったばかりか、高須クリニックの院長まで乗り出して、大村・愛知県知事のリコール運動にまでなっている。
「芸術は政治的なものを表現すべきでない」などと言う人は芸術を理解していない。芸術が社会とかけ離れて存在することは出来ない。むしろ、作品の中にどのように表現するかである。稚拙なら見向きもされないし、オヤッと思われれば高く評価される。
私が顧問をしていた美術クラブが文化祭で、校長が国旗を見上げているマンガを出展した。校長は「はずせ」と言う。私は「生徒の作品なのではずせない」と断った。朝礼で国旗を掲げている姿をマンガっぽく表現しただけなのに、なぜ気になったのだろう。
作品が気に入らなければ見なければいい。けれど、作品を撤去させたり、会場を封鎖したりすることは間違っている。ましてや愛知県と名古屋市が実行委員会形式で開催した展覧会を「気に入らないから金は出さない」と言い出すのはまるで子どもだ。
バンクシーの作品のように、芸術作品は常に社会に問いかける。それにどう答えるのか、一人ひとりの権利であって権力が抑え込むことではない。
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