友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

明日、朝を迎えられるか

2011年12月14日 19時02分53秒 | Weblog

 穏やかな夕焼けだった。何事も無く一日が暮れていく。十数時間も経てば、今度は東の空が明るくなる。何億年か何兆年か知らないけれど、そうやって繰り返されてきた。けれども、私たちは過ぎ去った1分1秒も取り返すことが出来ない。明日、朝日を見ることの確証も無い。人には今しかないし、つくっていくことが出来るかもしれないものは、これからの時間でしかない。

 

 新聞広告に五木寛之氏の『下山の思想』が載っていた。「グローバルな下山の時代が始まった。もう、知らないフリはできない」とある。「どんな深い絶望からも、人は立ちあがらざるを得ない。(略)敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き明日への『下山』を思い描くべきではないか」。「法然、親鸞、日蓮、道元など、すべての人々は山を下りた」「成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す」。

 

 さらに、国文学者の中西進氏は「“山は下りるためにある”―野なる者の沈思者の言葉が胸に響く。この言葉はかつてないのではないか」。作家の瀬戸内寂聴さんは「小さな低い声で大切なことをささやかれているような気分になる本だ。この最悪の災害をどう乗り越えていくのか。山頂を極めた登山者が下山するような慎重さと細心の気配りと無欲こそが秘策だと教えられた」。また作家の重松清氏は「そうか!新たなる夜明けを迎えるには、まず夕暮れの空の美しさを愛さなくては―。“下山”はリタイアの思想にあらず。僕たち現役最前線の世代にこそ必要なものだ」と添えていた。

 

 恋する人にもう一度会いたいとか、愛する人の肌のぬくもりを得たいとか、人はささやかな欲望を抱くけれど、それは明日があると思うからだ。今は、すぐに過去のものになってしまうけれど、明日や明後日ならまだ充分な時間がある。1年先や2年先ならなおさらである。だからきっと夢が持てるのだろう。今度こそ失敗しないようにしようとか、ぜひ行ってみようとか思う。年寄りはどうなのだろう。夢を抱くことは次第になくなり、現実的に日々が暮らしていけるならそれでいいと言う人が多いのだろうか。

 

 今日の朝日新聞に「若者論は不毛だと主張する26歳の大学院生」へのインタビュー記事が載っていた。今の20代の若者は年金や医療などで高齢者よりも1億円も損をすると言われている。誰が何を基準に弾き出したのか知らないが、そんなことを問題にするなら、私たち年金生活者でも上の人と下の人とでは差があるし、このままなら50代の人はもっと低くなりそうだ。大学院生は「不遇の世代と言われれば、その通りです。けれど、そのことと20代が不幸というのは別の話です」と正確に答えている。

 

 内閣府の世論調査では20代の70%が今の生活に満足と答えているそうで、どの世代よりも高く、過去40年で最高の数字だそうだ。しかし「悩みや不安がある」という答えは、30年前は40%を切っていたのに、今では63%にもなっている。「若者論は大人の自分探しだと思います。(略)若者をおとしこめて世の中が変わるんですか?」「若者よ頑張れと呼びかけられるのにも違和感があります。年配の方がやりたいことを、都合良く若者にけしかけて社会を動かしたいという願望が見えるからです」という彼の指摘は正しい。

 

 明日、朝を迎えられるか、その可能性が低くなってきたらじっとしていた方がいい。それでも日暮れれば朝は来る。

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