友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

地域新聞と共にあった10年間

2024年05月29日 19時04分42秒 | Weblog

 6月で廃刊となる地域新聞の現編集長と、創刊の苦労や楽しかったことなどをいっぱい話した。私が地域新聞の発行を思い立ったのは1985年で、創刊号の趣意書に、「この街に住み、この街を愛する人々の生活にスポットを当て、その素晴らしい生き方、生活の喜びを報道いたします」と記した。

 さらに、「地域住民の討論の広場として、あるいは作品発表の場として、地域の人々に奉仕します」と宣言した。「ゴロツキ新聞にするな」との発起人の言葉を守り、スーツに白いワイシャツとネクタイという、教員の時とは全く違う服装で地域を回った。「どこの銀行の人?」と言われたこともあった。

 それでも初めは警戒され、「おたくに話すことは何もない」と取材を拒否されたこともあった。第2号・第3号が出ると、広告を載せたいと電話が入り、広告蘭は増え続けた。「こんな人がいるよ」とか「こんなことをするから来て」との連絡も入り、創刊から5年間はとにかく忙しかった。広告主から「集金に来て」と言われているのに、その時間が無かった。これではダメだと思い、友だちに頼んで集金する人を雇った。

 また、広告会社に勤めていた女性も雇うことになった。彼女が現編集長で、彼女の入社で新聞の活動の幅が一気に広がった。名芸大と連携し大学公開講座を開き、世界チャンピオンの畑中清の祝勝会を開催し、バス旅行を企画し、地域雑誌を発行していった。相変わらず忙しかったが充実した期間だった。

 地域新聞の歴史を語るのか、発行の苦労話をするのか、編集長が何を期待していたのか分からないが、後は彼女の料理に任せる他ない。「お昼をどこかで」と言ってくれたが、今日は水曜日なのでデートの日。またいつか、「地域新聞に原稿を書いてくれた仲間の皆さんと打ち上げ会をやろう」と言って別れた。ご苦労様でした。

 午後、デートで可児市のローズガーデンへ行った。明日のブログは、その報告にします。


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