友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

制服とアルマーニ製の標準服

2018年02月17日 17時50分31秒 | Weblog

  午後3時半ごろ、外から砂をぶつけたような音がしたので、何事が起きたのかとカーテンを開けると雹が強い風に煽られてガラス窓を叩きつけていた。急に冷えてきたのはこのためだったのか。運動場にいた子どもたちが「ヒヤァー」と叫びながら校舎の影に逃げて行った。気温が低いだけなら身体を動かせば暖かくなる。けれど、雹を運んでくる冷たい風は防ぎようがない。

 私の子どもの頃は伊吹下ろしがもっと寒かった記憶だが、それは今のような暖房がなく、着ているものも粗末だったからだろう。寒い時は母が作ってくれた綿入れの「でんちこ」を着ていたが、友だちの中にはセーターを着ていない子もいた。母子家庭で子どもの服まで回すお金がなかったのだろう。背も低く、いつも一番前の席だった。夏は何を着ていてもそんなに変わらないが、冬の寒さでは差があった気がする。

 私の高校は、父も兄も通った伝統校で、夏は木綿の霜降りが制服だった。真夏になればワイシャツで通学できたが、ズボンは霜降りのままだった。木綿のズボンはすぐヨタヨタになってしまう。電車通学の男子が中心になって、ナイロン製のズボンを許可するようにと運動が起き、黒色または鼠色のズボンの着用が認められた。制服はあくまで学校が決めたもので、違反者を通学させないのは「人権侵害」に当たる。

 東京都中央区立の泰明小学校が4月から、アルマーニデザインの標準服にする。泰明小学校は銀座にあって140年を迎える伝統校で、通学区域の子どもが減少し区内全域から児童を受け入れている特認校でもある。独断でアルマーニ製と決めた校長は、「子どもたちのアイデンティティを育成するため」と言う。現在の標準服は2万円を割るのに、アルマーニ製で全てを揃えると9万円近くになる。大人の背広でも2万円で買えるのに途方もなく高い。

 いくら特別な地域にある小学校でも公立なのだから、悲しい思いをする児童が出るなら、もうそれは「教育の場」ではない。私の子どもの頃のような貧富の差は無くなっているかも知れないが、公立小学校の意味を考えて欲しいと思う。

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やっぱり、羽生結弦選手は凄い。

2018年02月16日 18時12分07秒 | Weblog

  平昌五輪の男子ショートプログラム(SP)で演技する羽生結弦=韓国・江陵

 やっぱり、羽生結弦選手は凄い。ケガからの復帰を1位で成し遂げた。「金メダルに対して誰よりも強い気持ちがある」と聞いた時は自信過剰に思えたが、実現してしまうのだから凄いとしか言いようがない。アナウンサーも「なんという精神力、なんという技術力」と表現し、「異次元の強さ」と評していた。彼には挫折とか、恐怖心というマイナス思考はないのだろうか。

 ショパンのピアノ曲と彼のスケートは見事に一致していて、美しい演技だった。以前は何か太々しい印象があって好きになれなかったが、今日は力を見せつける演技ではなく、全てにおいて美しかった。滑り終えて観客席に向かって深々と頭を下げた時、口の動きから「ありがとうございました」と言ったと思う。

 誰の助けもない個人の競技は、まさに自分との闘いなのかも知れない。私は個人競技をしたことがないので、その緊張感や達成感は分からないが、成し遂げた人の精神力には頭が下がる。高校の時、生徒会長の選挙で全校生徒の前で演説した。首長選挙や議員選挙で、誰もいない道端でも演説した。ひとりでも多くの人に私を届けるためだが、何度経験しても緊張感から抜け出すことはできなかった。

 新聞部で記事を書いたのも、記事に織り込んだ私の思いを続けるためだが、誰もいないところの演説と似ているのに、文章を書く緊張感は演説ほどではなかった。しかし、緊張感なしに書いたことは一度もない気がする。他への呼びかけはそういうものだろう。絵を描くことも、ラブレターでも、一生懸命さがなければ自分を伝えることはできない。羽生選手のような堂々とした自信が欲しいと思うが、残念ながら私には永遠に辿り着けない気がする。

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金正恩委員長とトランプ大統領のそっくりさん

2018年02月15日 18時08分56秒 | Weblog

  先日の雪はそれほど積りはしなかったが、マイナス気温が続いたので陽の当たらないところが凍っていて転倒者が続出した。私の知り合いも左手の指を骨折した人、右足首を骨折した人がいた。足首を骨折した人は元気なのに動けないので、退屈なのか時々電話をかけてくる。「これからお見舞いに行くけど、何か欲しいものはないの?」と聞くと、「バナナが欲しい」と言うので、スパーで買って持って行く。

 「先生が退院していいと言うが、ここまで通院するのは大変だで、近くの病院を探してもらっている」と話す。総合病院は治療が済めば早めに退院させるが、病人を抱えた家族は大変だ。もう少し自分のことが出来るようになるまで、近くの病院で受け入れてくれるといいのだが、なかなかそういう病院は見つからないようだ。ベッドに空きがないため、新たな重病人を受け入れるには治療の終わった人から退院させるしかないのだろう。

 平昌オリンピックの会場に、北朝鮮の金正恩委員長のそっくりさんが現れ、美女応援団にエールを送っていた。美女応援団は無視していたが、中にはビックリしている女性もいた。トランプ大統領のそっくりさんもいて、2人が並んで歩いている報道もあったが、世の中には面白いことをする人がいるものだ。世界平和のためにぜひ2人が抱擁する姿を見せて欲しいのに、金委員長は警備員に会場から追い出されていたのはどうしてなのだろう。

 リンクの上で滑るのはいいが、口が滑ったり、凍り付いた路上で滑ったりして、取り返しのつかない事故だけは起こして欲しくない。北朝鮮と韓国が接近するのをアメリカは嫌うのは、世界が平和になって緊張が無くなることを恐れるからだろう。アメリカ経済を支えている軍需産業が衰退すれば経済危機が如実になる。そこで滑ったふりをして宣戦布告などして欲しくないと2人のそっくりさんを見ていて思った。

 

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運も不運もあるから公平だと思う

2018年02月14日 18時02分21秒 | Weblog

  久々に風のない穏やかな日だったので、ルーフバルコニーに出てバラの鉢の土を入れ替えた。寒さ対策にと首に毛糸のマフラーを巻き付けて作業をしていたが、午前11時を過ぎて陽が当たり始めると汗ばむくらい暑くなってきた。おかげで順調に作業は進んだのに、肥料が無くなってしまい、慌てて買い物に出かけたが、いつも行く店は水曜日休みなので、少々遠いが品物の良い苗を売る店まで出かけたら、ここも休みだった。

 屋外で行うオリンピック競技は風の影響を受けやすく、「練習を積んだだけ成果はついてくる」ということではないらしい。もう社会人になった孫娘は小さい時から水泳を習っていた。コーチに厳しく「努力すれば必ず報われる」と言われ、自分でも納得していた。しかし大きくなるにつれ、どんなに練習しても成果が出せない人と、練習の成果がしっかり出る人がいることに気付くが、だからと言って練習をさぼることなかった。

 人は練習すれば一定のレベルまではいく。けれど、それ以上にいく人は生まれ持った才能のある人だ。凡人なら人知れず努力することを惜しんではならない。けれどもやっぱり巡り合わせというものがある。世界一の技術と才能があっても、その時の風のせいで1位を逃すこともある。「不公平だ」と言う人もいるし、本人にとってこれほど悔しいことはないだろう。もう一度チャンスが欲しいと思うのも無理ないことだ。

 競技ばかりかいろんな意味で、人生には巡り合わせがつきものだ。確かに不公平だけれど、逆にそれが公平とも言える。人生を不運だと嘆く人もいるが、きっとそこかしこに幸運が隠れていたはずだ。「あんなに努力したのに」と嘆くよりも、努力できたことを誇りに思った方がい。「愛してくれない」と僻むよりも、「愛した」ことに満足した方がいい。今日はバレンタインなのに、「お通夜があるからしゃぶしゃぶね」ってどういうことなのだろう。

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資本主義の終焉とその次の社会

2018年02月13日 17時46分51秒 | Weblog

  中日文化センターで水野和夫さんの講演を聴いてきた。水野さんは法政大学の教授だが、以前は内閣官房審議官を務めた経済学者。私は著書の『資本主義の終焉と歴史の危機』を読んで、ぜひとも話を聞いてみたいと思っていた。講演の演題は「2018年度の経済・金融の展望」とあったが、内容は『資本主義の終焉と歴史の危機』にあることと同じで、使われた資料も本から抜粋したものだった。

 資本主義は頂点にあるという私の直感と教授の結論は同じだが、講演の後に質疑の時間は設けられていなかったので、質問することはできなかったから、私の考えが正しいのかは分からないが資本主義が終焉を迎えていることは確かだった。私は資本主義という言葉も後から定義づけたもので、システムを指すがイムズではない、歴史の中で自然発生的に生まれてきた経済活動だと思っている。

 物品をつくって売る、その過程で利益を追求する。だから資源を安く手に入れるか、労賃を安くすれば、資本家は利益を上げることができる。けれど、物品が行き渡ってしまえば売れなくなる。水野先生は「周辺」から「中心」に集めることが資本主義と説明され、今その「周辺」が無くなってしまったと指摘される。ゼロインフレ、ゼロ金利の打開策は見つからないと言う。資本主義の終焉の次にやってくるものは見えないと。

 資本主義が自然発生したように、人の世は変わっていくだろうと私は思っている。必要なことは、「こうあるべきではないか」と理想論を展開することだと思う。こういう社会、こういう仕組みが必要だと主張することで、新しい時代は切磋琢磨して築かれていくだろう。資本主義の終焉は、近代国家の形が変わることを示しているから、大いに主義・主張を唱えるべきだろう。

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子育ては愛情、それは信頼

2018年02月12日 18時30分58秒 | Weblog

  朝早く、仙台の次女が3歳の孫娘が作った小さな雪だるまをメールで送っていた。仙台は東北の中でも雪が少ない都市だが、今日は雪が積もっていて、孫娘は大喜びで雪だるまを作ったようだ。子どもは寒さよりも雪と遊べることがうれしいのに、大人になると寒さにはめっきり弱くなり、とても外に出かけていく気になれない。

 教育評論家が「3歳までの子育てが大事」という。それは親の保護の下で大事に育てられていることを子どもが肌で感じ取るからだろう。大事に育てることは、子どもの言いなりになることではないが、聴く耳を持っていなくてはならない。危険なことや人の身体や心を傷つける行為は「ダメ」と教えなくてはならない。けれど、教えるばかりでなく、褒めることがなければ愛情は育っていかない。

 子どもはやがて、「親はなくても子は育つ」という時期に移ってしまう。女の子なら「お父さん、入って来ないで」と父親の接近を拒むようになる。男の子なら母親と話もしなくなる。そうして子どもは次第に大人になり、親を手本か反面教師にして異性に近づき、やがて親元から離れていく。人間はそうして暮らしてきたのだから、受け止める以外にない。

 「子どもが結婚しないので困っている」とか、「結婚したのに離婚すると言い出して」とか、親はいつまで経っても子どものことで悩む。「何しているだろう」とか、「仕事はできているのだろうか」とか、もっとビックリしたのは「ちゃんとご飯食べているかしら」とまで心配している。20歳を過ぎて、いやもう50歳になろうとしているのに、まだ子ども扱いして考えている。

 北朝鮮がオリンピックを利用して韓国に接近していることを、「微笑み外交に騙されるな」と言う人がいる。いいじゃーないか、仲良くできるなら。圧力だけでは人の心は開かない。人と人とが心を許し合い、肌が接するまでになることが一番大事なことだ。大人と大人ならそれが出来るはずだ。

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非難するより救いの手を出す

2018年02月11日 18時13分06秒 | Weblog

  雪雲がせり出してきたから、北陸はまた大雪なのかも知れない。福井県で大雪のため60時間も車中生活を強いられた運転手がいたし、車に閉じ込められたために排気ガスが入り込み命を無くした人もいた。そんな大渋滞の車の列に沿道の人が、食事や飲み物を差し入れたり、トイレを使わせてあげたりと救いの手を差し伸べたという報道もあって、やはり日本人は助け合いの精神に満ちていると感激した。

 ところが、パソコンを開くと、自衛隊のヘリが墜落して家が燃えてしまった被害者が、「許せないです」と発言したことを非難する言葉が載っていた。「墜落して亡くなった隊員のことを考えないのか」とか、「わざと落ちた訳じゃないし、許せないの意味が分からん」とか、「死ななかっただけ、いいじゃーないか」とある。国会で沖縄の米軍ヘリの不時着を質問していた時も、「それで何人死んだ」とヤジった副大臣がいたが、福井の人々の思いやりの心を見習って欲しいと思う。

 今日はカミさんの母親の妹が入院している病院へ見舞いに行って来た。義弟が車で迎えに来てくれたので、義弟夫婦と義妹と私たちの5人で出かけた。運転手の義弟に隣に座った彼のカミさんが、「ナビで探すのなら電話番号の方が早い」とか、「そこを左に曲がる」とか「そっちじゃーないでしょう」とか、いろいろ指示を出すので義弟は、「運転手に任せてくれないか」と言う。その様子を見ていて、どこも同じだなーと思う。

 手助けのつもりで言うのだろうが、運転している方にすれば、喧しいだけでむしろ邪魔でしかない。判断ミスだって招きかねない。本当に手助けが欲しい時は眠っていて、起きている時は口喧しく指示してくる。非難するのは容易いが、運転する側にとっては一瞬でも目が離せない。ここは静かに任せて欲しい。義弟は「相手を非難しないことは守っている」と言う。なかなか見かけ以上の太っ腹だ。

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未来は明るいのか?

2018年02月10日 17時47分47秒 | Weblog

 韓国の平昌で行われている冬季オリンピックの開会式をテレビで見たが、電子技術は高いレベルにあり、それを駆使した素晴らしい演出だった。そして分断された祖国の統一への願いが、そこかしこにちりばめられていた。平昌オリンピックのテーマが「ひとつになる情熱」(?)ということのようだが、開会式を見ていて、そんな演出家の思いが伝わってきた。

 5色の上着の5人の子どもが登場し、過去から未来へと進んでいく。4獣神に守られた過去から、全ての人々が仲良く暮らす未来へ、きっとそうなっていくという願いが込められていた。「future」を「夢」とアナウンサーは言っていたが、「未来」の方が人々の思いが伝わってくる。2時間に及ぶ開会式はあまりにも長すぎて少々飽きるが、始まりと終わりの演出は大舞台を見るような感動的だった。

 今日は、市の国際交流協会が行った『アジア太平洋フェスティバル』の手伝いに駆り出された。午前中は缶バッチ作り、午後はアジア映画の鑑賞会が担当だった。韓国で撮影された映画『愛の黙示録』は、女優の石田えりさんが主演する日本・韓国合作であった。実話をもとに作られた、日本の統治下の時代から朝鮮戦争が終結後の何年間を、朝鮮の孤児のために生きた日本人女性の物語だ。

 孤児院を営むクリスチャンのもとに日本から同じクリスチャンの女性が嫁ぐ。彼女は夫との間に生まれた自分の子も孤児院に入れ、一切差別せずに育てる。子どもたちは「オモニ」と慕うのに、息子は母に捨てられたと思ってしまう。食糧援助を願いに行った夫はなぜか帰って来ない。それでも彼女はかわからないまま、子どもたちの「オモニ」として孤児院を守っていく。

 何度も何度も泣けてしまう映画だった。夫も彼女もただ孤児たちのためだけに生きているのに、占領下では日本のイヌと責められ、共産軍の支配下では資本主義の手先と裁判にかけられ、連合軍が進駐すると共産主義者と弾劾される。「future」を見ることなく夫は行方知れず、彼女は現実を受け入れて生きなければならない。人間が作った世界に人間が苦しむ不条理。未来は明るいのか?と叫びたくなる。

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懐の深い人になりたい

2018年02月09日 18時00分38秒 | Weblog

 卒業生が訪ねて来た。何年か前に脳卒中に罹り、元気になった今も身体が少し不自由なのに、わざわざ家まで来てくれた。「何歳になった?」と聞くと、「65ですよ。会社勤めの連中もいよいよ退職ですね。自営でやっている連中はまだまだ働かなぁーいかんですけどね」とクラスの仲間の消息を話してくれた。私の教え子たちもみんな還暦を超えたか、その手前くらいの年齢になっている。私が年取るはずだ。

 その時、電話が入り、24日の同年の親睦会に「参加するとハガキに書いたが、用事ができたので欠席させて欲しい」と言う。電話の内容を察して彼は、「そういうの、一番困りますよね。私もクラス会の幹事をしていて、欠席の連絡が来るのが一番怖かったです」と言う。それでも「誰にでも事情がありますからね」と寛容なところを示す。みんながクラス会幹事の彼を頼るのは、そんな懐の深さなのだろう。

 テレビはすでに、韓国での冬季オリンピック競技を放映している。雪不足と言われていたけれど、競技会場は何とか間にあったようだ。それにしても金正恩委員長の妹まで代表団に加わり、開会式に参列するという。北朝鮮は合同チームに参加するだけでなく、応援団や芸術団も送り込み、「北朝鮮がオリンピックを乗っ取った」とさえ言われている。妹の参加は人質として差し出したということなのかも知れない。

 オリンピック報道の中で、NHKテレビ『あさイチ』に作家の瀬戸内寂聴さんが出ていた。95歳というがすこぶる元気だ。「最近の週刊誌は不倫ばかりを取り上げていますが、私も真っ先に読むんですよ。小説の多くは不倫をテーマにしていますから、そんなに大騒ぎすることではありません。きっと、週刊誌の記者も不倫していると思いますね」と笑いを誘った。人はどんな状態でも、「恋愛する時は恋愛する」と言い切る。懐の深い寂聴さんの、最後の小説『いのち』を読んでみたくなった。

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意思疎通の難しさ

2018年02月08日 17時14分37秒 | Weblog

  この寒さで鋳物の胴に亀裂が入ってしまった手押しポンプを取り換えるために、昨日、製造元へ出かけて行き、新品を受け取ってきた。先輩は今日にでも取り換え作業をするつもりでいたから、「それで何人出られるのですか?」と聞くと、「私とあなたの二人で充分でしょう」と言われるので、「できるだけみんなが揃う時にしましょう」とお願いした。

 今朝、日差しがあり風もなかったが、二人ですることに引っ掛かりがあったので、「みんなが揃う日まで延期しましょう」と話すと、「私ひとりででもやります」と強い口調で言われる。私も語気を強めて「いや、そういう考え方は止めてください」と言ってしまう。先輩は気分を害した様子で「分かった」と。先輩が他の人に負担をかけさせないとの思いやりから言うのは分かるし、確かに二人でやれない作業ではないが、できる限りみんなでしないと問題意識が共有できなくなってしまう。

 「やれる人でやる」のはいいけれど、みんなが多く参加できる日にすれば、「ああだった、こうだった」と話もできる。私たちは井戸掘りで生活している訳ではなく、好きな者が集まって作業しているだけ。「そんな話は聞いていない」と言って離れていく人を食い止めて欲しい。労働を惜しむ訳ではないが、最近、本を読んでいても車を運転していても、左目はよく見えるのに右目がぼんやりしていて疲れ易い。

 寒さのせいだと思うが、骨折した左手首にも痛みがある。二人では作業していて、万が一相手に何かあっても対処するのが難しい。私たちも高齢であることを思うと、やはり作業は人数が多い方がいい。それにしても、相手の気持ちを汲んで意思を伝えることは難しい。腹を立てていることが手に取るように分かるから、私の気持ちも落ち込んでしまう。北朝鮮を受け入れた韓国の文大統領はどんな気持ちでいるのだろう。友だち同士でも意思疎通は難しいのに…。

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