友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

子は親の血を受け継いでいる

2018年11月18日 17時15分49秒 | Weblog

  仙台の4歳の孫娘はひとりっ子で、両親の愛情をいっぱい受けて育っている。今年から幼稚園に通うようになって、外の世界を知るようになったが、家庭での生活を基準に行動するので、時々思わぬことが起きるようだ。先日も、読み聞かせの時間に先生がポストの話をしていたら、「郵便受け」と言って驚かしたようだ。そう言えば、先生が「ハンガー」と言った時も、「衣文かけ」と言ったそうだ。

 典型的なことが給食の時間だった。「周りの子の世話ばかりしてなかなか給食が食べられない」と先生がこぼしていたという。母親である次女は社会性を帯びてきた娘に手を焼いているようだが、実は、孫娘は母親にそっくりなのだ。次女も小さい時から世話好きで、自分のことが後回しになることが多かったし、母親に叱られて、「本当のことを言ったのに」とよく泣いていた。まあ、そのうち狡さも覚えていくだろうが、私としては天然なところを叱らずに誉めてやって欲しいと思う。

 私の母の口癖は、「ジェントルマンになりなさい」だった。明治生まれの母が女学校へ進んだのは大正末か昭和の初めだから、明治とは違う新しい風潮が生まれてきた頃だと思う。「ジェントルマンって?」と聞き直すと、「女の人に荷物を持たせない。女の人の前のドアを開ける」など、要はレディーファーストを心がけなさいということだった。私は洋画好きだったから、母親の言うことはこういうことかと理解した。

 けれど、本当はもっと違うことだったのかも知れない。父は小学校の校長だったが、日記には「私の机の上の花を活けてくれたのはあなたですね。あなたの爽やかな声が運動場から聞こえてきます」と書いてあった。若い女教師に恋していたのだ。いつまでも夢を追い続ける父を母は黙って見ていたのだろう。息子である私には「お父さんのようにならないで」と思っていたはずだ。けれども私には父と同じ、夢追い人の血が流れていた。

 長女一家がこれから来ると言う。小3の孫娘が好きな料理を作ってやろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の教えが子を育てる

2018年11月17日 17時22分02秒 | Weblog

  姜尚中さんの『母の教え』は、高原での生活の日々を綴ったもので、『心の力』や『悪の力』とは違ってスラスラと読める。高原の情景は、私の友だち夫婦の山荘を思い出させる。おふたりの長女と私の次女が保育園で一緒だったことから、付き合いが始まったから、もう40年以上になる。山荘の春夏秋は都会では味合えない趣がある。

 現実から逃避したような別世界だが、暮らしてみればそこが着実に現実である。春夏秋の花たちや木々の変化が克明に記されていて、そのことも友だちの山荘での生活と結びつく。もちろん、山荘の生活を綴っただけの随筆ではなく、折々の思い出やそこから思考していく世界に言及し、共感を呼ぶ。

 姜尚中さんが早稲田大学の学生になった時は、学園紛争の嵐が吹きまくっていたはずだ。けれども彼は学生運動から身を引いていた。「政治オンチ」であったのは、やはり生まれ育ちが大きく影響していたことが分かる。それがかえって、彼を「国際政治学者」に押し上げた。学生運動に身を置き、そこで男女差に注目した上野千鶴子さんの生き方に通じるところもある。

 「偉か人も、そうでない人も、金持ちも、貧乏人も、みんな口から入れて尻から出すと。そげんせんと生きていけんとだけん」。「人はね、裸で生まれて、裸で死んでいくと」。姜尚中さんの母親の言葉は率直だ。人は生まれながらに平等と教えている。「ここで一生懸命生きてきたとだけん。ここが故郷たい」。どこで生まれたとか、どこで育ったなんてどうでもいい、今、生きているところが「故郷」という訳だ。

 「今の世の中、ほんなこつ、情のない人が多かけんね。(略)ばってん、世の中にはよか人もおっとよ。情のある人もいるとたい。捨てたもんじゃなかけんね」。お母さんは「情のある人」と「情のない人」に分け、「情のある人」を尊い人と教えたのだろう。お母さんの苦労と踏ん張りが目に見える。母親の教えが子を育てる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ボジョレーヌーヴォー」

2018年11月16日 17時34分06秒 | Weblog

  「ボジョレーヌーヴォー」が日本に定着したのはいつごろからだったのだろう。私が地域新聞を発行していた頃、洋風の創作料理の店主が私と同じ歳ということもあって親しかった。しかし、私が日常的に利用できるような大衆店ではなかった。それが当時としてはよかったのだと思う。店主はなかなかの企画マンで、「ボジョレーヌーヴォー」祭りをやっていた。

 その頃の私はビール一辺倒で、「ボジョレーヌーヴォー」を試飲しても、「軽い」とか「フルーティというより酸っぱい」程度の味オンチだった。子どもの頃、祖父は食事の前に日本酒の熱燗を飲んでいたが、その匂いが嫌いだった。「日本酒は臭い」と思っていたし、ワインも「酸っぱい」と思っていた。

 マンションで大勢の友だちが出来た。全国から集まって来ていて、どういう訳か年上の人が多かったので、宴会となると最初はビールでも、そのうち自分の好みのものに変わっていく。「日本酒はどうも」と断っていたが、「1杯だけでも飲んでみたら」と勧められ、飲んでみたら美味しかった。今では日本酒も焼酎も飲める。

 ワインを「味が深い」と感じられるようになったのも友だちのおかげである。醸造酒は日本酒もワインも、材料のコメやブドウによって、あるいは水や地域の温度の違いで、微妙に味が違う。同じ地域でも蔵元によっても差がある。それが面白い。とうとう通販でワインを買うようになってしまったが、送られてくるワインを飲む時はどんな味かと楽しみである。

 我が家だけで「ボジョレーヌーヴォー」を楽しんでいては申し訳ないと、親族にも届けるようにしている。以前は2本セットがあったので直接送ってもらっていたが、今は我が家に届けてもらったものを、2本セットにして宅配業の事務所に持ち込み、送っている。なかなか手間だが、「楽しみ」と言われて止める訳にはいかない。楽しみは多いほどいいのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

儲け話

2018年11月15日 17時31分09秒 | Weblog

  「必ず3100万円をお渡ししますし、どうか受け取ってください」と主婦の人からメールが来る。「一生に一度のお願いです。毎月1200万円を保証します。助けてください」と癌患者の彩子さんからもメールが来る。私は、お金が無くて困っていると、私のことを心配してくるのはありがたいが、そんな莫大なお金や不動産をいただいても、哀しいかな使い方を知らない。

 ソフトバンクが上場するとテレビでCMを見た。早速、「ソフトバンクの株を買いませんか」と電話が入った。自由経済では1企業だけが強いよりも、多極化していた方がサービスがよい。いくつかの企業が生き残れる仕組みの方が競争になる。互いが骨身を削らなくてはならないから、大変だがそこに創意工夫が生まれ更なる進化にもなる。

 私は経済オンチで、金儲けしたいと思ったことがない。そういう能力に長けているとは思えない。聖書に利子の話が出てくるから、金を貸したら利子を取ることは昔から行われていたようだ。でも、なぜ利子が生まれたのだろう。利子が公に認められなければ、資本主義も生まれなかっただろうから、利子が自然に発生したものなら、資本主義も必然の社会と言える。

 「株を売買して儲けましょう」とは、株が売買の対象になったからだが、私が歴史で学んだ株はそうではなかった。株は16世紀にイギリスで生まれた。当初は小口の資金を集めて大きな投資を可能にする、会社を応援するための合理的な資金調達であった。企業をあるいは事業を応援するための株が、安い時に買って高くなって売る、「儲け」が目的になってきた。

 実体の伴わない「経済は破綻する」と言われてきたが、今や仮想通貨のような数字だけが動く社会に移行しつつある。これも必然であるならきっと、より良い社会に向かっているのだろう。でもひょっとしたら、「ハルマゲドン」が突如やってくるのだろうか。私にメールをくれる女性たちと仲良くした方がよいのかも知れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バラ園造り

2018年11月14日 17時43分59秒 | Weblog

  随分と陽が傾くのが早くなった。我が家からほぼ真西に、養老山脈の北の縁と伊吹山との谷間が見える。関ケ原である。この前まで、太陽はこの辺りに沈んでいたのに、今はもう養老山脈の南の端へ移動している。カミさんのお父さんが我が家に来た時、「あの辺りが関ケ原ですよ」と説明すると、大地をにらみつけ、「高いところに立つと、天下を取った気分になるな」と感無量の趣だった。

 私はこの西向きのバルコニーに小さな庭園を造ろうと思った。洋画には、バルコニーに植木鉢を置き、お茶を飲んだりおしゃべりをしたり、時には恋をするそんな場面が出てくる。そこで1鉢また1鉢と植木鉢を持ち込み、土を買ってきて花を植えた。バルコニーの南半分を、春はチューリップ、夏から秋はサルビア、北半分はバラを主に、アジサイと金木犀と椿である。バラ園にしようと思ったのは、小学校からの帰り道で見たバラ園が見事だったからだ。

 私は校区外から通学していたので、ひとり気ままにあちらこちらと見ながら帰った。医院の庭にバラが何本も植わっていた。春と秋はこの庭を覗くのが楽しみだった。中学生になって、我が家の北側の崖下に、柿木が3本あるだけの荒れた畑があったので、父に頼んでそこを貸してもらい、バラ園造りを始めた。お金がなかったので何本も買えなかったし、肥料が要ることも知らなかったので見事な庭園にはならなかった。

 姜尚中さんの『母の教え』にはいくつもの花の話がある。彼はバラを「男たちを狂わせ、破滅させる美貌の女王」と感じ、「その意味で、世界の伝説的な美女をかき集めてくれば、バラの、虚実交々のイメージが出来上がるに違いない」と考えていた。ところが、「高原では有名なバラの名所、レイクガーデンで、私は、バラの魅力に籠絡されてしまった」。「できれば、イングリッシュガーデンを造ってみたい」と、早速ツルバラを垣根に植え込み、今では見事に成長しているようだ。

 我が家ではツルバラも冬には短く選定する。冬の強烈な北風に倒れないためで、バラの土の入れ替えもしている。手間暇かけなければ応えてくれない。かなり世話をしているつもりでも、寿命なのか、枯れそうなバラが1本ある。春に芽が出てこなければ諦めるしかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7人の新任教師

2018年11月13日 17時08分15秒 | Weblog

  朝、ルーフバルコニーで作業をしていると携帯が鳴った。けれど、手にした時は鳴り止んでしまった。電話の主はおよそ見当が付いた。私が高校の教員となった時、新任の仲間が7人いた。私と英語の教師だけが同じ歳で、残りの5人は年上だった。会社勤めや私学の教員だった人もいて、年齢の幅も広かったが、どういう訳か仲良しだった。

 昨年、この職場の「7人の会」を再び開催したところ、「今年もやろう」とみんなが言うので、来週の火曜日の20日に開くことにした。今回は私たちを可愛がってくれた先輩教師が参加してくれることになった旨のハガキを送ったが、ひとりまだ返事が来なかった。彼から返事が来るまで、こちらから電話するのはよそうと決めていたので、電話がかかってすぐ彼からだと思った。

 「悪い。やっぱり行けんわ。ボクの方が倒れそうだわ」と、昔と変わらない声質で言う。彼が退職してから、彼のカミさんは心を病んでしまった。新任の頃、みんなで黒姫高原へ遊びに行った。その時から彼女は私たちと一緒に行動していた。学校の前で先生たちを相手に昼飯を食べさせてくれる店をお母さんとふたりでやっていた。多分、結婚相手によい人を探していたのだろう。

 彼の方は朗らかで真面目で不器用だった。保健部の担当となり、先輩たちから「女子生徒の胸囲の測定をしてくれる。生徒は下着をつけずに来るから」とからかわれたのに、本気にして「ボクでいいんですか?」と聞き直して大爆笑だった。真面目というより一般常識に欠けるのではないかとさえ心配した。歳を重ねても子どもっぽいところがあって、マイペースだったと思う。

 普通高校への勤務を希望したのに、どう教えていいのか分からず、ノイローゼになって何年か休職した。強面なのに小心でクヨクヨする夫をよく支えてきたカミさんだったが、退職してやれやれと思ったのか病気になってしまった。彼は朝から晩まで、カミさんの世話に明け暮れているから、「ボクの方が倒れそうだ」と言うのも分かる。歳を取ると、「夫源病」やら「妻源病」やらに陥る夫婦は多いと聞く。然も有りなん。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

議会が論議の場になっていない

2018年11月12日 18時10分02秒 | Weblog

  2日間、ルーフバルコニーで作業ができなかったから、朝から鉢の土の入れ替え作業を行なった。鉢の土は全て出した。後は肥料などを混ぜて新しい土を作る。それでしばらく置いて、いよいよチューリップの球根を植えていく。その次はバラの剪定と土の入れ替えだが、この作業は寒くなってからになる。

 母親と同じ看護の道に進んだ孫娘が、昨日の明け法要の引き出物を届けてくれた。その時、ちょうど仙台の次女から4歳の孫娘の写真がラインで送られてきたので、カミさんはテレビ電話に切り替えた。画面に従弟が映ったので、仙台の孫娘も次女も驚いていた。次女は9月から働き始めていたが、日曜日が出勤だったので「振替休日」と言う。大人の女3人の会話に4歳の孫娘は置いてけぼりで、ふくれっ面になっていた。

 ふくれっ面と言えば、新閣僚の桜田五輪担当大臣だ。野党議員の質問に晒されて、恥の上塗り状態になっている。野党議員の質問も、ただ恥をかかせるためのものになっていて、誠に気分が悪い。「韓国で犬の肉を食べたか?」と質問した野党議員がいたが、「質問」を誤解しているとしか思えない。大臣の資質を問うとしても、相手に恥をかかせるような質問はすべきではない。

 私は国会議員の秘書の時、質問書を作るため議案の中身について職員からレクチャーを受けた。説明を聞いていれば、問題点も分かる。どういう方向へ論議が向かうことが実になる質問かを考えながら質問書を作った。町会議員の時は質問の項目だけでなく、全文を事前に提出しなければならなかった。そこで回答を予想し、再質問を用意して臨んだ。

 議会は、「当局と議員」との論議の場でなければならない。しかし、国会はじめ地方も、「論議の場」となっている議会はないと思う。まだまだ民主主義は定着できていない。おざなりの質問とおざなりの答弁、それで多数決で決める。これでは、民主主義は生きていない。時間制限や質問回数の制限、そういったものを一切なくして、「論議」できる議員がどこにいるのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忌明け法要

2018年11月11日 18時46分27秒 | Weblog

  長女のダンナのお父さんの忌明け法要に参列した。お父さんやお母さんの兄弟あるいは従弟に当たる人々が多い中、血のつながりのない婿や嫁や私たちは話題に欠ける。長女がダンナと結婚したことを契機に、お父さんたちとの付き合いが始まり、1年に何回か我が家まで足を運んでもらって酒宴を開いた。

 お父さんは私より年上だがそんなに歳の差がなかったこと、私もカミさんもそこそこにお酒が飲めたからお父さんの相手を務めることが出来た。「同じくらいの家柄でよかった」と口癖のように言われたが、そのためお父さんは気持ちよくお酒が飲めたのかも知れない。あの時代のヤンチャモンらしく、高校時代からジャズに熱を上げていたと聞いた。

 「家では勝手気ままな人」であったかも知れないが、葬儀の時、大勢の友人・知人が来て、私の知らない時代の話をされていた。お父さんと付き合いのあった人やお父さんに世話になった人は、子どもたちが想像していた以上に多かったのではないだろうか。ジャズバンドのコンクールにも出場するくらいの実力も備えていたのだから。

 大勢の親族の中で、小3の孫娘がただひとりの子どもだから、みんなが可愛がってくれる。孫娘の無礼な振る舞いを許してくれるから、あの子は無意識のうちに横柄になっている。小3だからまだ大人への意識が無いのだろう。小学校も高学年になっていけば、何をすることが恥ずかしいか理解するようになるだろう。人の美しさは内面の成長が欠かせない。

 私の周りを見ると、姉が最年長でその次は私で、どんどん年下になっていく。当然そういう歳回りになってきた訳で、私が子どもの頃や大人になってからも、70歳過ぎの大人は数少なかった。いつまでも子どものような気分ではいられないのに、子どもではないとしても、実感として年寄りにはなかなかなれない。困ったものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学習発表会

2018年11月10日 18時38分08秒 | Weblog

  小3の孫娘の学習発表会を見て来た。各学年がそれぞれに発表する形式で、学年の持ち時間は25分と同じである。残念ながら全学年を見ることが出来なかったけれど、どのように見せるかで先生たちは大変苦労しただろうと思った。全員が登場し、どの子もそれぞれに役割を担い、そして見ている保護者が納得いく、そして、それ以上に感動させる演出でなければならない。

 体育館の舞台の前は発表する学年の保護者席で、座布団持ち込みの特等席。その後ろのパイプ椅子の3列まではやはり発表学年の保護者席で、父親か母親が撮影に夢中の席だ。司会の先生からは「他の子が入る場合、SNSなどに投稿される場合は許可をいただいてください」と、注意まであった。

 小3の孫娘に「学習発表会では何やるの?」と聞いた時は、「秘密」と言うだけだったので、さてどんな役で出てくるのだろうと舞台を見つめる。出し物は国語の教科書にある『3年とうげ』だった。峠で転んだおじいさんは3年しか生きられないと、おばあさんにしがみついておろおろ泣く。声がとてもよく通り、このおじいさんは孫娘だとすぐ分かった。長女に言わせると、「全部の役をひとりで出来る」らしい。

 先日、孫娘が国語の教科書にある『ちいちゃんのかげおくり』を読んでくれたが、小学校で教えていたカミさんよりもうまかった。抑揚がきれいで、それでいて気取らず、心を込めた朗読だった。この子はこういう才能に優れている。本人は「デザイナーになる」意思が固いようだが、演劇や朗読に向いているような気がした。

 「『ちいちゃんのかげおくり』で、私が一番好きなところは」と孫娘が教えてくれたのは、「夏のはじめのある朝、こうして、小さな女の子の命が空に消えました」。ちいちゃん家族4人は戦争のために亡くなったと分かる部分だ。美しい光景の中に戦争の悲惨さが伝わってくる。私の孫娘はとてもいい感性を持っていると感心した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あいまいな記憶

2018年11月09日 17時09分27秒 | Weblog

  「ママって、小学校1年の時から料理作っていたんだってね」と小3の孫娘が得意そうな顔で言う。「ああ、よくお手伝いしてくれたよ」と私は答えたが、そうだったかと思い出そうとするが確信がない。我が家は共働きなので、子どもたちが家事を手伝うのは当たり前になっていた。お米を研ぐことは教えたような気がするが、料理作りまではやらせていなかったような気がする。

 子どもの頃の記憶は小さなことでも大きくなるし、なんでもないことが大事なことのように、その人の思い入れによって脚色されることがある。私と妹は2歳違いだが、私の記憶の中では、縁側のたらいで生まれたばかりの妹が沐浴されている光景が鮮明にあるが、果たして2歳の子どもが覚えているのか疑問だ。そんな光景の話を聞いて、いつの間にか自分の記憶に刷り込まれたのではないだろうか。

 子どもたちには食後の食器洗いをさせていたが、テレビが見たいのでなかなかやらない。今日は「姉の当番」とか、いや「妹が当番」とか、言い合って押し付け合う。食器洗いが面倒ならと、奮発して食洗器を購入したが、食洗器に食器を並べる「係り」でまた揉めた。けれど、今、子どもたちに当時のことを聞けば、「毎日お手伝いしていた」記憶しかないだろう。

 私の2歳下の妹に、母親が勉強のために名古屋へ出かけると、「いつも泣いて追いかけて行って困らせていたよね」と話すと、「何も覚えていない」と言うので、「子どもの頃のことでよく思い出すことは?」と尋ねると、「何も記憶にない」と言う。中学2年の夏に母親を亡くしてから、妹には楽しいことが一度もなかったのかも知れない。

 嫌なことは出来るだけ記憶から消してしまいたいのが人情だろう。楽しかったり嬉しかったりしたことは事実以上に大きく記憶されるし、誇らしく思えるようなことも記憶に残る。自分に都合のよいように記憶が編纂されなければ、人は重荷で潰されてしまうだろう。振り返ってみると、「まあまあの人生だったね」と言えるように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする