友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

映画『みとりし』を観て思ったこと

2024年07月20日 17時38分36秒 | Weblog

 カミさんの友だちの紹介で、名古屋市公会堂で行われた映画『みとりし』を観に行って来た。暑かったので、カミさんは「車で行かない!」と提案する。地下鉄は涼しいが、駅までの道中で熱中症になってしまいそうと心配する。車で行けば時間はかかるが、この暑さだからその方がいいだろう。

 こんな暑さの中、人が来るのかと思ったが、意外に大勢の人が来ていた。映画は死を目前にした人が、自宅でその時を迎えるというものだった。死は誰にでも訪れる。その時、たとえ1%でも幸せに思えたなら、その人生は100%幸せだっただろうと語る。

 死に際に、抱きかかえられて旅立てば、人はぬくもりを感じて幸せな顔になる。その役割を果たすのが、「みとりし」という人の仕事だと映画は教える。確かに、病院にいては否応なしに延命治療をされてしまう。患者の意思を尊重して、延命治療を避ける医師もいるようだが、いろんなことを考えてそんな冒険はしない医師の方が多い。

 本人も家族も自宅での見送るを希望しても、誰かが付き添わなくてはならない。映画ではそれを「みとりし」が行っていたが、24時間付き添うのは無理だろう。それに無償という訳にはいかないから、報酬を支払うことになるが、かなりの金額になるだろう。また、自治体が行っている包括センターとは、どういう関係になるのだろう。

 私は延命治療は望まない。ポックリと死を迎えたいが、そもそも自宅で死を迎えることが出来るのだろうか。自宅で死んでいると、救急車では無くパトカーが来て、不審死ではないかと調べられる。「みとりし」も介護士も医療行為は出来ないし、そもそも死亡診断書は書けない。

 安らかに死を迎えられる施設は必要だと思うが、そんな場所は病院以外に無い。「みとりし」施設が出来て、安いホテル代くらいの料金なら、「みとりし」業も成り立つかも知れない。病院と自宅の中間的なそんな場所が必要だと思う。

 駐車場を出ようとしたら、「駐車券が無い」と言う。そんなことくらいでパニックになるようでは「みとりし」は務まらないだろう。雨が降ってきた。雷はどこだ?

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ドラマに夢を託している

2024年07月19日 17時56分28秒 | Weblog

 毎週木曜日の夜は、テレビ『プレバト』を観ている。夏井いつき先生の俳句の添削に、なるほどと納得したり、「が」でも「の」でもいいのではないかと、反発したりしている。梅沢冨美男さんの俳句がいつもボツにされて、ちょっと可哀想だが、夏井先生が「名人ならそのくらいの考察が必要」と指摘すると、そうだよねと思ってしまう。

 昨夜、「この後、観るもの無いから録画でもいいかな」と、カミさんがリモコンを操作する。フジテレビの月9『海のはじまり』だった。何ともまあ―、複雑なドラマである。娘を亡くし、その孫娘「海」と暮らしている祖母の役を大竹しのぶさんが演じていた。

 私はNHKのBSで、朝の7時15分から朝ドラの『オードリー』を観ているので、大竹しのぶさんが余りに老けているのが気になった。ドラマでは40歳の時に苦労して産んだ娘が、付き合っていた男の子を妊娠してしまい、男に中絶手術の同意書を書かせながら産むことを選ぶが、娘は逝去してしまう。生まれた女の子が「海」である。

 『オードリー』は2000年10月から翌年の3月までの放送だったが、私は観た記憶が無い。このドラマも複雑で、京都の老舗旅館の女将を大竹しのぶさんが演じ、主人公の美月ことオードリーを岡本綾さんが演じている。美月の両親は旅館の離れで暮らしているが、女将を「おかあちゃま」と呼び、実の母親を「ママ」と呼んでいる。

 舞台は京都太秦で、時代劇が華やかな頃から斜陽になっていく。美月の初恋の人を長嶋一茂が演じていてビックリした。一時でも映画界に身を置いていたのだろう。脇役が凄くて、堺雅人、佐々木蔵之介、林与一、舟木一夫、沢田研二などが登場している。

 老舗旅館を継ぐことに全てをかけてきた女将は、美月を養子に迎え跡取りにと育てきたが、美月は女優になる選択をする。「ママ」は自分の人生は自分で決めていいと言うが、「パパ」は自由を口にしながら夢を押し付ける。

 人間は夢を追いながら、現実的な選択をしたり、自分は現実的なのに息子や娘には夢を求める。『オードリー』も『海のはじまり』も、どんな展開になるのかと気になる。自分の先は見えているから、ドラマに夢を託しているのだろう。

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もう海外旅行は無理だろう

2024年07月18日 17時09分01秒 | Weblog

 朝から陽射しが強かった。梅雨明けである。空を見上げ、部屋の壁に掲げられているヴェネツィアの水路を行く小舟の写真に目がいった。1992年8月のイタリア旅行の時、友だちが撮った写真だ。私には初めての海外旅行だった。

 その2年ほど前に、長女は母親に代わって、アメリカのユタに住むカミさんの友だちの家にひとりで出かけた。次女にも海外に行かせようとしたが、次女は怖がりで「ひとり旅は嫌」と言うので、友だちの好意に甘えて、次女と私たち夫婦で参加した。

 友だちの長女と次女は保育園から一緒で、その下の娘さんは地域新聞を作っている時、友だちが取材中は私が抱っこしていたから家族のようなものだった。しかも、日本語が話せる現地ガイド付きだからというのも安心だった。

 イタリアはダビンチやミケランジェロ、ルネッサンスが生まれた芸術の国、憧れで胸がいっぱいだった。出来れば画学生の時、留学したかった。そして、イタリアの男性はすぐ、女性に声をかけて来ると聞いていたので、5人の女性を守るナイトの気持ちだった。

 けれど、イタリア人は背が低く、人懐っこくて親切だった。どこだったか忘れたが、入館しようとしたらお昼寝タイムでダメだった。日本では考えられない、ナマケ者の国と思ったが、今に思うと、それくらいゆったりと暮らした方が幸せな気がする。

 レストランに入った時も、イタリア人はよく食べ、よく飲んでいた。初めにビールを飲み、ピザを食べ、それからワインを飲み、スパゲッティを食べ、まだまだ食事時間は続いていた。食べ物は豊富で、新鮮だった。路地は狭く、笑い声が響いていた。

 陽気なイタリア人が歌うカンツォーネが懐かしい。海外旅行の楽しさを知って、2年後に友だちのダンナがいる、アメリカのプルマンに3人で出かけた。友だちのダンナは大学の先生で、勉学のために単身でいるので、みんなで年末年始を楽しくという計画だった。

 彼女がいなければ、彼女が気さくに誘ってくれなければ、私が海外旅行へ出かけるのはもっと遅かっただろう。他国を知ることは大切なこと、大げさに言えば世界平和にもつながる。でも、もう海外旅行は無理だろう。

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外国人も大勢いる国際的な都市

2024年07月17日 18時16分23秒 | Weblog

 朝9時から、メジャーリーグのスターが集結する野球の祭宴を見た。もちろん目当ては、大谷翔平選手のホームランだ。第1打席はフルカウントからの6球目を見送り、四球を選んで出塁した。なかなか打てる球を投げてはくれないようだ。

 第2打席は、ノーアウト1塁2塁のチャンス。その3球目、打った瞬間にホームランと分かる当たりで、球は右中間スタンドへ一直線に飛んでいった。私は別に、熱狂的な大谷ファンという訳では無いが、思わず涙を流してしまった。

 よかった。これで、彼を応援する人々に恩返しが出来た。そう思ってしまった。第3打席もヒットを打ってくれと願ったが、残念ながら空振りの3振だった。そう都合よくいくものでは無いと思い、欲を出すとダメだと反省した。

 NHKテレビでの放送だったが、観終わってから、「どうして民放では無くてNHKなのか」と呟くと、「みんなの関心が高いからよ」とカミさんに教えられる。視聴率など無視して、国民のために情報提供するのが使命では無いのかと、もう一度呟く。

 昼食はカミさんが、「600円で食べられるランチがあるの」と案内してくれた。飲み物もついているのに、この値段でどうしてやっていけるのだろう。薄利多売かと思って入ると、広い店内に客は私たちふたりだけだ。

 サラダもフルーツもついていて、ランチとしては豪華なのに、一般客に知られていないようだ。腹いっぱいの昼食をいただき、続いて小牧市図書館へ行った。借りた本を返すためだが、ここはいつ来てもゆっくり出来る。

 3・4歳くらいの女の子が母親に絵本を読んでもらっていた。小さな子を連れた母親ばかりか父親もいた。外国の本が置いてあるコーナーで、若い母親が子どもに本を見せていた。英語では無く、ペルシャ文字のような絵本だった。

 母国語を子どもに教えているのだろうか。母親は横顔しか見えなかったが、エキゾチックな顔立ちだったが、子どもは日本人の顔つきだったから、父親は日本人のようだ。小牧市は製造業が多く、外国人も大勢いる国際的な都市だと実感した。

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昼食はどこにするつもりだろう

2024年07月16日 18時00分58秒 | Weblog

 朝のうちは雨が降っていたが、午後からは陽が射して来た。学校から帰る小学生を見ると、長くつを履き傘を持っている。いくつかのグループになっているが、男女混合で楽しそうに歩いている。

 私たちの時代はどうだったのだろう。女の子と一緒に帰ることは無かったし、そんなことがあれば冷やかされただろう。中学生になって、好きな女の子ができ、帰る方向が一緒だったのに、一度も一緒に帰ることは無かった。

 高校生の時も、それは変わらなかった。ただ一度、街の花屋さんに頼んで、彼女の誕生日に花束を届けてもらった。月夜にひとり堤防の道を走っていて、宵待草の群生を見てとても感動した。この美しさは自分しか知らないと詩を書いた。

 彼女の美しさを知っているのは自分だけだと詩に書いたが、顧問の先生からは自己満足だと酷評だった。詩の才能が無いと思い知らされた。感性に訴えるよりも、理性に訴える新聞の方が自分には合っているのかも知れないと思った。

 しかし、論文だけだった毎日新聞は不合格だった。学者か弁護士を目指した友だちも一緒に受けたが不合格で、地元で行政書士になり、県会議員にもなった。夢は実現できなかったが、充分に生きてきたと彼も思っていることだろう。

 カミさんは朝早くからゴルフに出掛けた。雨で中止になるかと思っていたが、なかなか帰って来ない。そのうち陽が射して来たから、暑い中でのプレイになったことだろう。帰ってからの食事の用意は大変だから、一日中何にもしていない私が準備しておこう。

 さて明日は水曜日でデートの日だが、小牧市図書館に本の返却に行かなくてはならない。昼食はどこにするつもりだろう。それもまた、楽しみのひとつである。

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親と会話が出来る日は

2024年07月15日 17時04分45秒 | Weblog

 アメリカの東部、ペンシルベニア州バトラーで、演説中のトランプ前大統領が銃撃された。「こんなものじゃーないとトランプ撃つ青年にわが身写せり」。ダメだ、31文字になっていない。短い言葉の中に、情景や心境を表すのは難しい。

 この街も夏になれば、セミとカエルがやかまして寝られないくらいだった。「セミとカエルの大合唱 今聞こえるは電車と車の音のみ」。岸上大作をまねて、短歌に挑んでみたがうまくいかない。31文字でどうしてあんな表現が出来るのだろう。

 私の市にも、中日新聞と朝日新聞の歌壇に登場する歌人がいる。地域新聞の記者に尋ねても、「どこの人なのか分からない」と言う。市の短歌クラブに所属する人では無いようだ。その歌人、月岡龍二さんの作品が、11日の朝日新聞に掲載されていた。

 「今ならば父と酒飲み語り合うこともできたと蛍見て思う」。いつもいい歌を作るなと感心してしまう。この市には蛍が飛び交う場所があるが、蛍から父親と酒を酌み交わす発想が凄い。親子で酒飲みながらどんな話をしたのだろうか。

 親と子、とりわけ父親と息子は、子どもの時はほとんど会話が無いだろう。親としてはつい、勉強したかとか、何になるつもりだとか、そんなことでどうするんだとか、激励のつもりが叱言になってしまう。親を理解していないと非難し、親の心子知らずなどと嘆く。

 子は親の気持ちが分かっていても、どうしてそんなに圧力をかけるのかと嫌悪が先に立つ。それが打ち解け合って、話が出来るようになるにはやはり年月が要るのだ。私は高校生の時に両親を亡くしたので、親ともっと話がしたかった。

 結婚してカミさんの両親と話す機会を得た。自分の生い立ちや子どもの頃の夢、社会人としての苦労、家族の自慢やズレなど、全くとりとめのない話だが、きっと私の両親も、こんな風に私と話したかっただろうなと思った。

 高校生の時、学校に逆らって自主新聞を発行したが、処分を受けるかも知れなかったのに父は黙って認めてくれた。送辞を読むことになって下書きを見せると、筆で清書してくれた。父の書棚にあった『美徳のよろめき』を隠れて読んでいても、何も言わなかった。

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生きて恥を晒せば何かに出逢えたかも

2024年07月14日 17時49分53秒 | Weblog

 もう4日間も、部屋の温度は26度か27度、湿度は70%ほどが続いている。エアコンは点けていないが蒸し暑くは無い。高校生の時、家にはエアコンは無かった。テレビは母屋の居間にあったが、祖父が見てる時しか見ることは出来無かった。

 『「恋と革命」の死 岸上大作』の主人公、岸上大作は私よりも5歳年上だから、もっと素朴な暮らしをしていたことだろう。小学校の頃から日記を書き、中学校では生徒会書記となって「生徒会報」を発行し、同級生の女子の名を日記に記している。

 彼が短歌に関心を持ったのは、高校の時の先生が見せてくれた短歌集にあったようだ。私も国語の古文で学んだが、こんな意味の分からない言葉使いの何が面白いのかと受け入れられなかった。古文が大学受験のための勉強でしかなかったからだろう。

 それでも高校生らしく、ロシア文学に親しみ、哲学書を読み、中原中也や萩原朔太郎の詩に憧れを抱いていた。ヘルマン・ヘッセやジイドや伊藤佐千夫に恋の原型を求めた。けれど、小説や詩を極めたいとは思わなかった。高校1年の同級生に、文芸部の部長を務めた友がいて、彼の作品を読む度にとてもかなわないと思った。

 それに私の関心は新聞作りにあり、中学から通っていたキリスト教にあった。私は高2の時、生徒会長になったので、東大総長の矢内原忠雄さんに文化祭で講演して欲しいと手紙を書いた。矢内原さんはキリスト教徒で、その著『政治と人間』を私は愛読していた。けれど、息子の伊作さんから断りの手紙が来た。

 私が高1の1960年、安保闘争は大きく盛り上がり、国会へのデモの中、東大生の樺美智子さんが亡くなった。岸上大作はこのデモに参加していた。国学院大学の短歌研究会は、吉本隆明の講演会を企画したが、大学から中止を命じられた。

 彼は中止を受け入れ、責任を取って短歌研究会を退会した。何だか日本人的な発想だ。革命の挫折に、「スバラシク聡明な女性」と思い込み、しつこく手紙を送り電話をかけた女性から、「おことわりします」と断言された。

 高校時代から追い求めて来た「恋と革命」が、怒涛のように崩れ去ったのだろう。彼は死への準備を始める。薬を買い、寿司屋に入って寿司を食べ(学生が寿司屋に入るなどあり得ないピチブルを行い)、絶筆「ぼくのためのノート」を書きながら死に向かっていく。

 この最後の瞬間は理解できる。なのに私は何十年も生きながらえてきた。岸上大作に、死んでも何も変わらない、生きて恥を晒せば何かに出逢えたかもと伝えたところで、どうしようも無い。

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よみがえる青春時代

2024年07月13日 18時18分20秒 | Weblog

 小牧市立図書館で、はからずも目にした本を読むにつれて、青春時代がよみがえってきた。本の題名は『「恋と革命」の死 岸上大作』で、著者は福島泰樹さん、出版社は晧星社である。私は、岸上大作も福島泰樹も晧星社も知らなかった。

 岸上大作は昭和14年生まれの歌人で、昭和35年12月5日「午前2時30分、服毒。すぐ意識がなくなるかとおもったら、なかなか。(略)散らばっていた薬を飲む。現在2時37分。顔にレーンコートでかくす。電気を消して真暗闇の中で書いている。デアラメダ!」と日記に書いて死んでしまった。

 なぜ、自殺したのか、さっぱり分からない。彼が小学校へ入学した年、父親は戦地から帰国したが、マラリアで戦病死している。26歳の母と4歳の妹それに、父の父親である66歳の祖父の3人暮らしとなり、生活は厳しく、祖父と母との間は険悪だったようだ。

 家族のために身を削って働く祖父と母、しかし母に好きな男ができ、家庭の関係はいっそう地獄の様になってしまう。それが嫌でなのか分からないが、彼は東京の大学へ進学する。貧しい母子家庭なのにと思ったが、兵庫県の制度で奨学金を得ることが出来たのだ。

 大学は早稲田大学が第一志望だったのに、国学院大学の文学部へ入学する。理由は分からないが、お金の問題が大きかったのかも知れない。彼は小学校の時から日記を書いていて、中学生になると世界の動きや政治にも関心を持つようになる。学級委員長や生徒会書記を務め、「生徒会報」を発行する。

 昭和30年、福崎高校へ入学すると、小説を書き、作品を丹羽文雄に送ったりしている。クラブ活動は文芸部に所属するが、一方で窪田章一郎主宰の短歌結社「まひる野」に入会する。ロシア文学や哲学書そして石川啄木を読み漁る。文芸部の仲間4人で「福崎高校にルネッサンスを」と活動する。

 私とは5歳しか違わないから、あの時代がよく分かる。私も高校生になり、大人に仲間入りした気でいた。新聞部に入ったが友だちが書いた記事で校長に叱られ、それなら自分たちの新聞を作ろうとカンパを集めて発行した。新聞部だったのに、隣りの文芸部の友だちに頼まれて、詩や紀行文なども書いた。

 『「恋と革命」の死 岸上大作』を読んでいると、そんな昔を思い出す。

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それもまた、昔話になっていくのだろう

2024年07月12日 17時14分38秒 | Weblog

 昨日も雨が降ったり止んだり。「エアコンは要らない」というので、オフにした。深夜に目が覚めた。室温は26度、湿度は76%だった。寝る前に、扇風機は点けておいたはずだがオフになっていた。胸の辺りにびっしょりと汗をかいていたので、パジャマを着替えて、また眠りについた。

 今朝、カミさんが友だちから送られてきたメールを見せて、「どういう意味だろう?」と訊いてくる。「リウマチには○○整形」とある。私は地域新聞の打ち上げ会をブログに載せた時、その様子に触れた、元編集長である女性のブログ名を記しておいた。カミさんの友だちは、彼女のブログを見て、医院を紹介してくれたのだ。そのことを彼女に知らせると、「行ってきます」と返信がきた。

 私のブログにコメントを送ってくれる人は少ないが、メールのOUTLOOKにはいろんなメールが届く。東京電力から未納金の催促やヤマト運輸から品物が届いているとか、様々なメールが送られてくる。

 私はカードは持たないし、銀行も1社にしてしまった。私自身は何も苦労は無い、必要な方が出向いて来るべきだと考えている。だからどんなにメールが送られてきても放ってある。ところが今朝、「知り合いかも」の中に、イギリスのウイリアム王子があった。

 カミさんに「イギリス王子から来ている」と伝え、写真を撮った。誰が何のためなのか分からない。そういうメールが多くなった。パソコンの操作に長けた人なら、日本語を英語に翻訳して、王子との会話を楽しむことも出来るだろう。そしていつか、膨大な請求書を受け取ることになるのかも知れない。

 パパ活はあってもジジ活は無いのかと、女性からメールが来ないことを嘆いていたが、SNSの使い方も知らないのだから当然かと気が付いた。便利な時代になったとはいえ、使いこなせない高齢者はまだまだいる。それもまた、きっといつか、昔話になっていくのだろう。

 

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友だちに恵まれた幸せ者

2024年07月11日 17時14分12秒 | Weblog

 昨夜は地域新聞にかかわった人に集まってもらい、話に花が咲いた。新聞の発行を思い立った私は、大手の広告会社に勤める次女の友だちのお母さんに助けを求め、出産したばかりの産院へ押しかけて行った。

 彼女のOKが無ければ、地域新聞は成り立たなかっただろう。1面の下、『天声人語』の部分に当たるコラム『パントマイム』を毎号書いてもらった。おかげで、「必ずここだけは読む」というファン層が出来ていった。

 そして最後のページの、街で活躍する女性を紹介する『奥さんこんにちは』も担当してもらった。写真は私が撮り、彼女は取材して記事にするのだが、生まれたばかりの赤子が一緒だから、夫婦に間違えられた二人三脚だった。

 そんな初期の頃の話をし、その後34年間、新聞を発行し続けてくれた編集長への感謝を伝えた。新聞に『本』の紹介を書いてくれた友だちは車イス生活だったが、「歩ける」と聞き、会場は彼の家のすぐそばの焼き鳥店に決めた。

 歩けるようになったとはいえ、杖とカミさんの介護が必要だった。長い時間をかけて店に辿り着いてくれたが、席に着く直前に転んでしまい、額に瘤が出来た。彼の家は3階建てで、その3階が夫婦の部屋になっている。無事に着いたのだろうかと心配したが、「いつも通りの朝を迎えている」と返信が来てホッとした。

 昨日の様子を、最後に編集長を務めてくれた彼女が、ブログ『ネグmamaと息子』に書いていた。「皆さんの馴れ初めだったり 若い時の話だったり とりとめもなく ワイワイ楽しく話して 気づけば3時間弱」「思い出話にも花は咲いた 懐かしい顔 懐かしい話 こうやってまた 時間が過ぎていくのか」

 彼女は新聞が廃刊となったことに責任を感じているようだったが、むしろ感謝の気持ちからの宴会だった。みんなに支えられての新聞だったので、支払いは私がするつもりだったのに、「それはダメだ」と言われ、平等に分担してもらった。

 楽しい集まりだった。みんな無事に家に着いただろうか、それだけが心配だったが、彼女のブログやみんなからのメールで安堵した。それにしても、なんとまあ私は、友だちに恵まれた、幸せ者だろう。心から ありがとう。

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