【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞(熊本地震)

2022年04月29日 02時24分12秒 | 第二句集『肥後の城』

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞

 

〜 新緑や湯に流したる地震の垢 〜

 

(肥後の城、熊本地震14句より)

先日来2016年(平成28年4月日14,16日)に発生しました揚句の作者永田満徳氏居住の熊本地震の件を紹介させて頂き、その時の句を鑑賞させて頂いて居ります。

地震発生の恐ろしさは発生の時は勿論、その後も永い期間にわたり続く余震や、失意の中で行う家屋の内外での片付けが、被災者の心を打ちのめすのである。

震災後の片付けは、希望のある状態で行うのではなく、その後の暮らし向きなど人生に於いて色々な非日常の心労という負担になるのです。

揚句を鑑賞すれば「新緑」とあり、震災の被災より一ヶ月以上も経った若葉の生える今頃の季節であろうか?日毎に日差しも暑くなり、疲労も極限となる頃であろう。

日毎に震災の片付けも進み、一日の疲れを癒す夕刻の風呂が嬉しいのである。

爽やかな新緑の光景が、疲れを更に癒やすようでもある。

 

〜 余震なほ耳元で鳴く遠蛙 〜

 

(肥後の城、熊本地震14句より)

揚句の作者熊本市在住の永田満徳氏の平成26年4月14、16日両日に体験された熊本地震の事は、先日来当欄に於い彼の俳句と共に紹介させ頂いて居る。

大きな前震の後、更に大きな本震が熊本県大分県を中心に発生し、その後3ヶ月も大小の余震が何度も続き、被害と恐怖を増大させたと云われて居る。

更にその後も余震があり、5年以上経過した今でも大きな有感地震が発生していると伝えられて居ります。

子供の頃より怖いものに「地震・雷・火事・親父」と永い間伝えられ、その中でも「身の置き処の無き」恐怖感は、地震が筆頭のようである。

しかし、この様な状況の中でも生命のあるものは息吹き、植物は芽吹き、命を繋ぎ、そして未来へと逞しく生きようとして居るのである。

作者の余震におびえながらも、「耳元で聞こえる蛙の鳴き声」に、ふと生命ある事への感謝と勇気を感じた一句のようである。そう!!。自然界に生きるものは全てお互いに関係し合い、決して孤独ではないのである。

 

〜 三方の山をしたがへ紫雲英咲く 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

「三方の山を従え」とは、小高い山より土砂が流れ出して作り出した、扇状地の狭い地形の平野の光景であろうか?又、大きな河川が海や湖に注ぎ込む時に出来る広い平野部を三角洲と云う処より、揚句の景色は狭い谷あいより土砂が流れ出して出来た狭い田圃の光景が想われれるのである。

関東平野や濃尾平野、砺波平野、筑紫平野のように広い所は名高いものの、その他の日本の平野部は殆どがこのような狭い田圃であり、古の先人達はそのような土地をも耕して来たのである。

紫雲英(げんげ)は仲春以降に田圃に紫色の花を咲かせ、その広大な遠景は特別見事なものである。

嘗ての農家はこの紫雲英を田に蒔き、根粒菌の働きにより空中の窒素分を取り込む為、鋤きこんで田圃の肥料に利用していた。又、蜂がこの花の蜜を吸って作る「蓮華蜂蜜」はとても重宝され、養蜂業者にとっても貴重な今の時季の花であった。嘗ては、車窓より眺め通学して来たものであり、とても懐かい日本の原風景である。

 

〜 「負けんばい」の貼紙ふえて夏近し 〜

 

 (肥後の城、熊本地震14句より)

 過日4月14日、当欄に於いて揚句の作者熊本市在住の永田満徳氏の熊本地震罹災の事を彼の俳句「春の地震」によって紹介させて頂いた。

 

 小生が震災の被災地を初めて訪れた体験は、1995年(平成7年)1月17日に発生した、阪神淡路大震災の時であった。当時神戸市兵庫区に叔母の一家が住んで居り、罹災した為震災お見舞いに訪れた時である。交通手段がなく、漸く訪れたのは地震発生より20日も経ち少し落ち着いた2月7日頃、神戸の青木(おうぎ)港よりフェリーを利用の上、神戸ポートアイランドの埠頭よりであった。

 

阪神淡路大震災の詳細については、マグニチュード7、3、死者6,400名以上の東日本大震災に次ぐ、我が国戦後二番目となる規模であったと伝えられている。その詳細はここでは割愛させて頂くものの、その時、神戸ポートアイランドに上陸した途端、ボランティアの方より「震災支援物資の菓子パンの賞味期限が近くなって居る為、宜しければお召し上がりください」と、配って居た事に面食らった思いがした事であった。

 

当時は震災支援のボランティアの受け入れや支援の方法も手探り状態であり、道路も車も使えない状態ではバイク便が一番便利であったと伝えられている。この阪神淡路大震災の経験を経て、ボランティア活動の仕組みが確立されその後吾が国に根づいたと云われている。

 

そして、瓦礫の中を歩き初めて伺う叔母一家の家を漸く探し当てたのの、倒壊危険家屋と認定され家族は近くの学校の体育館での避難生活であった。

校門近くの公衆電話ボックスや近くの掲示板には、揚句のようにお互いの安否確認の為メモの貼紙が沢山、山ほど貼られていたのである。

 地震の罹災者にとって地震発生の恐怖はもとより、その後の非日常の不自由な生活が続けば、心身ともに堪えて来るのである。被災より日数が立てば立つほど、被災者は各人が揚句のように『負けんばい』と己を鼓舞しながら、立ち直り生きて行かなければならないのである。

 

〜 春の夜やあるかなきかの地震に酔ふ 〜

 

(肥後の城、地震14句より)

過日、当欄にて述べました揚句の作者永田満徳氏の在住の熊本地震は、2016年(平成28年4月14日と、4月16日未明に発生しましたが、当初4月14日は前震と見られ、4月16日の熊本、大分を震源とする発生が本震であったと発表されました。

しかしその後の研究調査に於いて、4月14日発生の地震と4月16日発生の地震とは、それぞれ別ものとであると発表し直されました。その原因として、近くにあった活断層どうしがお互いに連動することで起きる、連動型地震であるとしたもののようであった。

しかし、この研究学説もその後別物ではなく、同時期である為同じであるとも云われている。

何れにしても、その後震度6を含めた大きな余震とみられる地震が、熊本、阿蘇地方に2019年1月頃迄続き、その地域に住まいの住民にとってはその後の余震の「あるかなきか」の微震であっても、身体が敏感に反応した事であろう?春の夜ともなれば、身体に沁みついた恐怖の体験がトラウマとなって揺れが「酔ふ」ように襲うようである。

何しろ、自身が立って居る地球そのものが揺れる事程、たより無いものはないのである。

 

〜 霾天に遍満したるヘリの音 〜

 

(肥後の城、熊本地震14句より)

現代の世は、行事、事件、事故、災害など一瞬のように早く報道体制が敷かれ、新聞、テレビ、ラジオなどにより一斉に全国に配信され、国民は直ぐその内容を知る処となります。

平成28年4月14日、熊本県と大分県に発生した大地震の報道も、NHK及びメディア各社のヘリコプターによって、空より映像が各家庭に配信され、国民もその状態を知る事が出来たのである。又、4月と云えば、遥か彼方のモンゴルよりの黄砂も上空を覆う時でもあり、黄砂によりうす曇りの空に、沢山の取材のヘリコプターが不気味な音を立てて飛び交えば、震災の恐怖が更に追い打ちを掛ける事は想像に難くないことなのである。

被災地域の住民にとって、その騒音とも想える音はいつまでもよみがえる事であろう。

揚句の「遍満したる」との措辞が効き、その時の悲惨な状況を良く物語っているのだ。

 

〜 こんなにもおにぎり丸し春の地震 〜

 

(肥後の城、熊本地震十四句より)

熊本地震は2016年(平成28年)4月14日午後21時26分に前震、4月16日午前1時25分に本震と、何れも震度7の熊本県中央部を震源として発生しました。

その後も大きな余震が続き、死者、負傷者、家屋やビル、学校施設の倒壊など大変な被害を齎しました。

本震は後に発生した方と発表されましたが、前震本震とも規模が余りにも大きく本震はマグニチュード7・3と東北大震災を上回る程あったと伝えられて居ります。

その他の被害では、熊本県が阿蘇と共に誇る熊本城の石垣や櫓が大きく崩れ、大変な被害を出しました。

嘗て戦国の世に、築城の名手と謳われた加藤清正公の技を持ってしても堪えられない程の大地震であり、有名な「武者返し」と云われる石垣も崩壊してしまった事でも覗えるのである。

揚句の「こんなにもおにぎり丸し」との措辞に、現在売られているおにぎりは三角のものが殆どで、震災直後の炊き出しによる「丸い」おにぎりが想われのである。

作者の永田満徳氏も熊本市在住であり、大変な被害に遭われた事が窺がえ、熊本県民の誇りでもあり、心の支えともなって居る熊本城の完全復旧を願い活動を行っている一人であると伺っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞(春)

2022年04月29日 02時13分47秒 | 第二句集『肥後の城』

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞(春)

 

〜 すかんぽや磁石引きずり砂鉄採る 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

春となり戸外の方が暖かくて心地良くなれば、子供等は大人同様戸外にて遊ぶ事が多くなります。

現代の子供等はサッカー遊びであろう?それとも自転車に乗って遠出の遊びなどであろか?しかし、子供等が戸外に於いて遊ぶ光景をあまり見かけなくなったようにも思え、気になるところである。

子供は遊びの天才とも云われ、何でもどんな事でも遊びの道具としてしまうような所があり、揚句を鑑賞すれば「昔の子供は日本の何処でも、同じような遊びを行って居たものだ!」と、思わずニンマリする程懐かしい想い出となる。

以前の子供時代より、戸外での遊びには子供ながらも少し工夫が必要であり、遊び心はその工夫と知恵によっていくらでも面白くなるのだ。

今頃の時季であれば、さしずめ男の子は小川での魚とりや、山に入って野苺採りや友人達と「秘密基地」づくりなどであったのであろう?も良く行って居た想い出がある。

又、沢山ある遊びの中では揚句のように磁石を引ずり回って砂鉄を集め、セルの下敷に乗せ、下から磁石を近づければ砂鉄が立ち上がり、面白い図形が出来る為良く磁石を引きずり回って採り遊んだものである。しかし、その当時の子供の頃、砂鉄は磁石より離れにくく、磁力をスパッと遮断出来るものがあれば等と、考えて居たこともある。

揚句のように春爛漫の今頃であれば、季語の「すかんぽ・・酸葉」も良く効き、遠い想い出も、今まさに眼の前にて行われて居るように想えるのである。

 

〜 鯥五郎飛び損ねたる顔なるよ 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

九州北西部の有明海は福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県に連なる沿岸部にあり、又八代海は熊本県、鹿児島の沿岸に連なり、そのどちらのにも干潟があり、ムツゴロウ、トビハゼなどの干潟の上を飛び跳ね、餌を探したり求愛を行なったりすると云う奇妙な魚が居る。

どちらもスズキ目ハゼ科ながら、ムツゴロウはトビハゼとは食性が違い、大きさもトビハゼの2倍もある20cmまでなると云います。

何れも干潟の上を歩いたり、飛び跳ねながら餌を採ったり、縄張り争いを行う生態ながら、此処ではムツゴロウについて述べて見たいと思う。

ムツゴロウは肉も柔らかく脂肪も多く、かば焼きなどにされ、賞味されているこの地方独特の珍味のようである。

捕獲方法は干潟の上を田橇のような道具で進み、大きな鈎針を投げて引っ掛けて釣る「むつかけ」と云う漁法が有名であり、この地方の風物詩となって居て何度も映像に よって観た事がある。

然し、どう見ても前鰭を脚のように立て、大きな眼で前方を見渡し蛙のように跳ぶ様子は、とても魚とは思えない程愉快な生態なのである。

揚句のようにまさしくおどけたムツゴロウの表情が想われ、「飛び損ねた顔なるよ」の様のようである。

近年諫早湾などのように干潟の干拓が進み、ムツゴロウは何処で生き延びるのであろうか?

 

〜 消ゆるまで先を争ふ石鹸玉 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

子供の頃、小学校の低学年ごろまでは早春の日射しが強くなる時には、日光写真やもう少し暖かくなれば戸外に出て、石鹸玉(しゃぼん玉)遊びを良くおこなったものである。

(サボン)とは石鹸を意味するポルトガル語に由来しているとものと記憶しているが、子供の頃は石鹸を溶かし、水溶液を作り麦藁の茎(ストロー)を使い、吹いてしゃぼん玉を飛ばしたものであった。その為であろうか、しゃぼん玉は(石鹸玉)との漢字表記となって居るようである。

現代ではしゃぼん玉の液とストローがセットとなって売られているため、小さな子供でも手軽に遊ぶ事が出来るようである。

しゃぼん玉も液の濃度や吹く息の加減によって、大きく膨らんだり弾けないものを作りだす為の工夫が要り、子供なりに色々工夫しながら遊んだものである。

揚句を鑑賞れば、虹色に輝く石鹸玉が次々に吹き出され、青い天に向かって先を争うように上がって行く景色が想われるのだ。

又、シャボン玉は虹色に輝き美しいものの、一瞬のうちに弾け、「儚いものの」代名詞のように言われる事がある。そこに子供等も、「美しいものの中にも、短い命を感じ取り、夢を見るように喜ぶようだ」とは、うがち過ぎる見方であろうか?

 

 

〜 春筍の目覚めぬままに掘られけり 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

4月に入り、春の景色が進み、筍の走りのものが店先に出回るようになった。

小さくてもかなり高額であり、庶民にとっては中々簡単に味わう事は出来ないでいる。

筍は他の根菜類などとは違い、大きければ大きい程味も良く高額になるのである。

我が住まいのある京都西部洛西地区は、昔より「乙訓筍」として名産地であり、至る処に竹林があって、今頃の時季ともなれば京都の台所を賑わせて居るのです。

筍は地上に出てしまえば、固くなり「えぐみ」も増えて味が損なわれ、筍専門の農家では、地上に出る前に独特の「つるはし」のような道具を使い、深い所より掘り起こして収穫して居る。

嘗て、筍専門農家の方に、「筍づくり」の方法を伺った事があるが、それによれば、竹林に赤土を入れ、同時に切り藁も混ぜ、更にその上、油かすも混ぜると云うのである。

筍の生えるまでには、この様にふかふかの温かい寝床が用意されて居るのです。

そして3月中旬ごろより、竹林を見回り、用意された土のふっくら膨らんだ処に小さな笹の葉を立て、目印としていると云う。

この様に、手間暇を掛けて育てられ、地上に出る前に掘られた筍は頭の部分の皮も未だ黒くなく、さっと湯がけば、えぐみも無く柔らかく「筍の刺身」として食べられると云う。

揚句のように、まさに「目覚めぬままに掘られる」のである。

今の時季の和風の京料理には欠かせない筍は、この様な背景に支えられているのだ。

 

〜 やけにまた礼儀正しき新社員 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

4月の新年度を迎え、あちこちの会社では新入社員の入社式が行われている。

男女新入社員とも、希望と不安を抱きながら入社式を迎えた事は想像に難くない。

毎年のように新入社員を評して、「今年の新入社員は○○」と評価される事も多く、「型、タイプ」があるようである。

嘗て城山三郎の名著に、「粗に野だが卑ではない」との本がある。

これは前国鉄総裁を務めた石田禮助の伝記の中での物語であり、彼石田禮助が一橋大学を卒業後、三井物産へ入社を果たした折り、会社から社長名によって「入社後は一切会社へは迷惑を掛けない」との誓約書の提出を求められた。

石田禮助は、「冗談じゃない、会社が新入社員へ一生涯倒産などにより給料の不払いなど起こさないと誓約をくれれば書いても良い」と断ってしまったと云う。

後年三井物産社長より国鉄総裁へ転出した時も、国鉄問題で国会へ証人喚問を受けた時「今日の国鉄の抱える諸問題は、君ら議員諸君へも責任がある」ときっぱり言うべき事は述べたと伝えられている。

今日の新入社員諸君は、その成長過程に於いて「衣食も足り礼節もわきまえて居る」人が多く、皆ところてんのように画一的な所があり、没個性の若者が多い事が目立って居るようだ。

礼儀正しい事は良い事としても、その場限りではない「大きな気概」を持って欲しいものである。

揚句の「やけにまた」との俗語も、新入社員の第一印象により先輩社員から見た目線が感じられ、大変共感する次第である。

 

〜 とんとんと日の斑を畳む花筵 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

先日漸く暖かくなり、桜の開花状況を確認の為、近在の川べりの桜並木を見物に出かけた。両岸1キロ程の間に桜並木があり、毎年地元の人は込む事がなく楽しみにして居る。この時は未だ5分咲き程ながら、風も無く暖かくて、子供連れの家族が両岸の地道の彼方此方にブルーシートを敷いてとても賑わって居た。

ウイークデーの為、子供とその母親らしき家族ばかりであった。

そう!!、学校は春休みに入って居り、子供達は陽気に誘われ川に入って遊んだりと大喜びの様子であった。

嘗てその昔、東京での現職の頃は、入りたての新入社員の初仕事は「花見の場所取り」と云われたものである。上野公園での夜桜が人気があり、その為、昼間のかなり明るいうちより新入社員数人が、宴会の食品や筵を持ち早めに場所取りに出掛けていたと云う。

昼間の他の宴会の場所を、譲り受けるのである。

揚句を鑑賞すれば、夜桜ではなく昼間の花筵を敷いて、花見の宴会のようであり、宴会が終わり、引き上げる時の光景のようである。花筵に桜の花の枝の影が映り、その状態での片付けの様子が想われるのだ。

人の密などが問題にならなかった頃の楽しく、そして懐かしい想い出のようである。

 

 

〜 廃校は島のいただき花朧 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

内閣府の統計調査によれば、我が国の人口は2006年の12、774万人をピークに減少を続け、2050年には2,700万人減少の約10、000万人、更に2100年には4,700万人まで減ると予想されて居る。

嘗て、古代中国の時代より「人口減少は亡国の兆しである」と云われて続けていました。

その為、戦いに勝利すれば、敵国の人間を自国に連れ帰り、男子は奴隷の労働者、女性は子供を産ませる為としていたようである。それほど古より、人手は国の生産手段として大切な資源でもあったようである。

現代では人間の数が生産手段ではないものの、ある程度の人口が確保されなければ、昔より叡智を集め、培い育てて来た「社会システム」が機能出来ない事になるのである。

揚句を参考に考えれば、実家のある我が鳥取の田舎でも、嘗ては1町村内に4校あった小学校も統廃合され、現在では当時の地区に1校のみとなってしまいました。

通学もスクールバスとなり、児童達にとっても道草など出来ず、味気ない事この上無いようである。

子供が主役の正月行事、秋祭りの実施にも子供の減少の為出来なくなって居ると云う。

揚句に、賑やかな嘗ての学校は今や廃校となり、ただその当時より島の頂きにあった桜並木が満開を迎え、朧に霞む景色が想われるのである。

時代の幾星霜とはいえ、儚くも懐かしい想い出の桜の景色なのである。

 

〜 うららかや豚はしつぽを振りつづけ〜 

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

嘗てその昔、会社内のサークル活動に於いて、英会話を教わっていたアイルランド出身のその女性講師は、愛玩用としてミニ豚を飼って居ると聞き驚いた事がある。

ミニ豚と云っても、小型犬と同じぐらいの大きさであり「マイクロピッグ」と云う種類もあるそうである。

良く聞けば、豚は本来とても清潔好きな動物であり、犬や猫を飼う場合と全く同じであるとも云っていた。とても賢く、室内で飼えば犬のように毎日散歩へ連れ出す必要も無く、糞尿のしつけも出来て、その上、猫や犬のように抜け毛も殆どなくとても飼い易いと云う。とても寂しがり屋であり、人間に良く懐き、膝の上に乗って来ては寝る事が好きだそうである。

揚句を鑑賞すれば、春の季節とは限らなくても小さな尻尾を振り、擦り寄るミニ豚を想えば、如何にも春めいて感じられ、楽しい心情となるのである。

 

〜 釣つてすぐ魚を放つや山桜 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

春ともなれば、木々や草花ばかりではなく、昆虫や動物達も眠りから覚めたように活発な動きとなる。魚も例外ではなく、産卵のために餌を盛んに食べる季節となるのである。

私事ながら嘗て、魚釣りを趣味としていた期間が長く、川釣り、海釣り、池の釣りなど幅広く行っていた。

その中に、ルアーフィッシングと云う釣りの方法があり、魚の餌となる小魚の形に金属や木片を削って色付けを行い、その魚に針を何か所もつけ餌の替りとします。

ルアーフィッシングでは釣った魚を食べる事ばかりではなく、スポーツフィッシングと云い、「キャッチ&リリース・・釣果と大きさを競い合う」魚釣りの部門がある。

餌を何度も替えたりする事無く、魚をルアーにて誘いヒットを楽しむのである。

そんな事を行えば、魚は痛くて可哀そうではないか?と思う人も居ると想われるが、魚の口は神経が殆どなく、痛くないそうである。

揚句を鑑賞すれば、春の渓流に於いてのルアー釣りが想われ岩魚(いわな)、山女魚(やまめ)が対象の魚と想われるのだ。

少し遅めに咲く、山桜を眺めながら趣味に没頭する至福の時間が想われるのである。

 

 

〜 てふてふのくんづほぐれつもつれざる 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

先日の急激な春の暖かさ以来、紋白蝶、紋黄蝶、しじみ蝶などの舞う光景を目にすることが多くなった。

然し、今の時季は急な冷え込みの「寒の戻り」などもあり、そんな場合にはどのように過ごして居るのだろうか?と少なからず心配となる事が良くある。

野原や川べりを歩いて居れば、縄張り争いであろうか?愛の交換であろうか?二頭がぐるぐる螺旋状に舞い上がる光景を目にすることを度々目撃することが有る。

揚句のように「くんづほぐれつ」の状態であり、それでいて縺れる事は決してない。

その為、少しGoogleにより調べて見たが、どうやら「縄張り争いのようだ」と判明した次第であった。

蝶には沢山の種類があるが、何れも小さい姿態であり、その舞う光景は愛らしくて心の和むものである。

揚句のように、すべてひらがな表記の伝統的仮名遣いの句は、蝶の姿態にぴったりであり、目の前にその光景が展開され、見て居るようである。

 

 

〜 やどかりの抜けさうな殻引きずりて 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

やどかりは漢字では(寄居虫)と書かれ、(がうな)とも云われ、蟹に似た触手と爪の足を持ち巻貝の殻に棲み、成長するに従い大きな貝殻に棲み変えます。

俳句では春の季語となって居り、海老や蟹と同じ甲殻類である。海辺の水生と陸上に棲むものも居り、椰子蟹なども同じ仲間である。

TVコマーシャルでは不動産業の漫画動画などにも使われ、愉快な宿替えの様子が知られて居る。

嘗て子供が幼稚園児の幼い頃、陸(おか)やどかりを飼育して居て、その生態を一緒に観察していた経験がある。餌は殆ど何でも食べる為、飼育は容易であった。

宿替え用の貝殻も数個入れて飼育していたが、やどかりは夜行性の為、夜中に枕元でガサゴソと動き回り、睡眠の妨げとなり、閉口した想い出がある。

小生の現役時代も関東では3度、転勤後の関西でも2回、転居の宿替えを行って居り、賃貸住宅へ住む事を「やどかり」に喩えられ、苦笑するばかりである。

揚句を鑑賞すれば、海辺のやどかりでも、陸やどかりも同じながら、抜けそうな大きな貝殻をいつも背負い歩き回る生態は愉快であり、ペットとして飼育される事もうべなるかなである。

春の今頃の時季はそのような事も想い出となってよみがえるのである。

 

 

〜 梅東風や祠に至る幟旗 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

梅東風(うめごち)とは、梅の花が綻び始める早春に、北東方向又は東方より吹いて来る風の事であり、時には荒れ気味に吹く強い風を指す春の季語である。

揚句を鑑賞すれば、鄙びた地方にはよくある土地の人々の信仰篤い八幡さまの事であろうか?神様を祀ってある社とは云えない程の、小さな祠が想われるのである。

そこに至るには森の中の小径を辿り、更に幟旗が沢山立てられている階段を上へと登って行けば、祠が見えて来る景色が想われる。

そして、未だ少し寒い早春の森の中の木々を見上げ、小鳥たちの囀りさえ聞こえて来る作者の情景が見えるようである。

 

〜 鶏小屋の鶏出払つて梅咲ける 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

私事ながら小生の田舎の実家は兼業農家であった。

当時の農家は何処の家でも広い庭(かどとも云う)があり、納屋の外側に鶏小屋が設えてあった。実家でも同じように6~7羽の鶏がいつも鶏小屋で飼われていた。

その中には雄鶏も必ず居り、朝の「刻の声」を上げその声で目覚めていたものである。

暖かい春ともなれば、鶏小屋より鶏達を庭へ放ち、鶏達は庭の芽吹いた草を啄んだり、砂場にて砂浴びを行って暖かい日差しを満喫していた。

又、春には新しく次世代の雛(ひよこ)を買い、子供は学校より帰れば餌となる草を摘み、米糠と貝殻を混ぜて雛(ひよこ)に与えることが日課であった。

今その当時の光景を想えば、大変長閑であり平和そのものの記憶が蘇るのである

揚句を鑑賞すれば、鶏達は小屋より出払い、庭の彼方此方に居り、庭の先には丁度梅が満開に咲く景色が想われるのである。

「鶏小屋の鶏出払つて」との措辞に、まさに春爛漫の長閑な詩情が溢れて居るのである。

 

 

〜 青潮にこぼるる万の椿かな 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

青潮とは海水に含まれる硫黄がコロイド化し、海水が白濁する現象である。

この現象が発生している時は海面近くの海水は空気中の酸素と混り、青色となるため、赤潮と対比されてそのように呼ばれている。

いずれにしても、赤潮と同じで酸素が少なく、魚介類にとっては致命的となり、水産業者にとって漁獲高に大きく影響するため、いつも問題となるのです。

又、揚句を鑑賞すれば、今頃ともなれば山茶花の花は終わりを告げ、あらゆる椿の開花の時季となって居り、岬の尖端のその先は断崖絶壁となって藪椿の群生が想われるのである。

冒頭に青潮の事を科学的に述べたものの、その情景を推察してみれば、真っ青な海に沢山の椿の花が咲き乱れ、海へと零れ落ちて居る景色が想われるのです。

 

 

〜 春の雷小言のやうに鳴り始む 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

春の雷とは立春後に起こる雷の事を云い、季節代わりの定まらぬ天候の時によく発生して居り、一雨毎に春めいた光景をもたらす雨となるのです。

又、芽吹きを促す「春雷」とも云われ、今の時季の野山や渇いた街並みに降る恵みの雨となるのだ。

その雷の音は、真夏の夕立ちのように激しくなく、雪を呼ぶ冬の雷のように一発大きく鳴って終わる事はない。

そうです!。愚痴とも小言のようにともいつまでも鳴り続き、雨が降りだせばやがて知らぬ間に鳴り終わっている事が多いい。

誰かの小言を聞く事は嫌なものであるが、この時季の雷は恵みの報せなのである。

折りしも今日の現在は良く晴れているものの、気温が高く夕方より雨の予報である。

 

 

〜 この町を支へし瓦礫冴返る 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)

地質学、地震学に詳しい方であれば良くご存知にように、日本列島は現在の姿となるまでに、ユーラシアプレートの東端、北アメリカプレートの南西端の下に、太平洋プレート、フィリピン海プレートの二つが沈み込み、数千万年を掛けて南北に長い形状の列島になったと云われている。

その為、地殻変動により地震や火山の発生が古代より多く、近年の直近では1995年の阪神淡路大震災、2004年の中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震と大型地震の発生と大きな被害に枚挙の暇もない程である。

折りしも、本日3月11日は東日本大震災の発生より12年目を迎えその時間の午後2時46分

には全国的に追悼の黙禱が行われたようである。

又、揚句の作者も熊本在住であり、熊本地震の被害の大きさと哀しみが現在でも胸に染みて居る事であろうと想われるのだ。その時の見慣れた街並が瓦礫となった光景を眺め、胸を打つ悲惨さと哀しみに思いを馳せているのである。

この世の恐ろしいものの喩えに「地震・雷・火事・親父」と云うものがあるが、何しろ我が身が立っているこの大地が揺れる事は、どうしようもない恐怖なのである。

 

〜 阿蘇越ゆる春満月を迎へけり 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

阿蘇山は九州のほぼ中央に位置する、我が国有数の大型カルデラ火山である。

広大な外輪山を持ち、「火の国」熊本県のシンボルとして我が国は元より現在海外からも観光地として人気を博して居る。

更に、その地にある阿蘇神社は嘗て神代の時代より神武天皇の孫神が火の山阿蘇の火口をご神体として司る神として祀られて居り、全国に500社の分社のある一宮であります。その宮司家「阿蘇氏」は代を重ね、中世には武士家としても隆盛を誇る程であったと云われている。

又、人は誰でも自身の住まいのある土地の「山」「川」「海」を日々眺め暮らし居り、その年数が永くなればなる程、見慣れたその光景に愛着を感じて来ると云う。

揚句を鑑賞してみれば、熊本在住の作者は「朝な夕な」に、日々に阿蘇山を望みながら暮らして居る事が想われ、今まさに昇ろうとする春満月を見て、その月がやがて阿蘇山を越えて行く光景を想い浮かべて居る様子が見えるようである。

さぞかし、その眺めの雄大であり、春めいた心情となって居る事が予想されるのです。

 

 

〜 揚雲雀古墳一つに人ひとり 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

春逡巡と云えど、日によっては暖かくて穏やか日もあり、田園地帯を歩いて居れば、雲雀の囀りを聞く事も出来るようになった。

天高くより地上に向かって囀る「チュビリチュー、チュビリチー、チュビリチュビリ」と、異国語とも想えるその鳴き声はとても明るく春めいて、心が和み大変癒やされる心情となるのです。

揚句の情景を考察すれば、「古墳一つ」「人ひとり」との措辞に、古墳といっても、小さな小山程の古墳が想われ、作者はそこに佇み独り吟行を行っているようである。

そして、古墳の悠久の歴史を想い、天からの揚雲雀の囀りを聞いて居れば、作者は今まさに春の真っ只中の至福の時間に浸っている事が想われるのである。

 

 

〜 春立つや色刷りに凝る広報紙 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

立春を迎える頃ともなれば、朝夕は未だ寒さが厳しいものの、日中の日差しは日毎に暖かくなり、そして長くなるのである。俳句の季語ではこの時季を「日永」とも云う。

そして、服飾業界では一斉に春物の売り出しが始まり、商店街の飾りつけも春めいた装いになるのです。もちろん展示のポスターもチラシ広告も、春めいた色使いに拘り何もかも顧客の心理状態を浮かれた心情へと誘い、購買へと導くのである。

概して人の心理は、寒い時季には見た目にも暖かい「暖色系」を選び、暑い時季ともなれば涼しそうに見える「寒色系」を選びたがるようである。

冬から春へと季節が移行する今の時季は、いきなり「寒色系」ではなく、淡い色彩の「パープル」「ベージュ」「ピンク」や「パステルブルー」「パステルグリーン」などパステルカラーと云われる中間色の淡い色合いが中心となるのです。

嘗て現職の百貨店勤務では服飾関係、宣伝関係にも携わり、定年後には商店街の企画を担当の経験もあって、そのような時の春先には色彩に凝る場合が多かったのです。

揚句の「色刷りに凝る」との措辞は、季語の「春立つ」ととても関係し合い大変納得と共感をする次第なのです。

 

 

〜 制服をどさりと脱ぐや卒業子 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

早くも三月に入り、幼稚園から大学までそれぞれ卒業式を迎える季節となりました。

揚句を鑑賞すれば、男子学生よりどちらかと云えば女子高生の卒業の心情が想われるのである。

学校生活は制服のみならず、身だしなみとして学校毎のルールがあり、特に年頃の女子高生ともなれば、お化粧、髪型などへの強い欲求もあってかなり窮屈だと感ずる事は想像に難くない事である。

卒業後は就職や進学を行うとしても、制服を「どさりと脱ぐ」との措辞に、一区切りの安堵の心情が想われるのだ。又、毎日通学を行った長くて短いような期間も想われ、「卒業」の行事に相応しい背景が垣間見えるのです。

 

 

〜 学究はものに語らす梅真白 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

学究(がっきゅう)とは学問の研究を専門に行っている学者の事である。

文学、生物学、化学、物理学などあらゆる分野での研究と雖も、自身の研究の成果を何らかの方法によって世に発表しなければ、何の価値も無いのである。

専門書での論文、学会での発表、ビデオ、テレビなどのメディアでの発表など、方法は幾らでもあるものの、具体的な資料を基に発表しなければ理解されにくく、価値を世に問う事は出来ない。

又、揚句の鑑賞に際し少し余談であるが、「梅」と云えば平安の古より「学問の神様」菅原道真公(菅公)の事が一瞬にして想起され、梅の開花の頃は受験とも重なり、学問と梅の深い関わりが想われるのである。

その為、季語の「梅真白」との措辞が効果的に働き、学究の聡明な事が想われ、何によって語っているのかが具体的に示されていなくとも、アカデミックな詩情が醸成されるのだ。

 

〜 夭折にも晩年のあり春の雪 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

夭折とは若くして亡くなる事であり、具体的な年齢を述べたものではありません。

若い時(あるいは幼い時)より、その才能を世間に高く評価され、その成長と共に将来の大成を楽しみと目された人が早く亡くなる事を云い、社会の損失とも想われる事であります。

例えば、作家の中上健司46歳、樋口一葉24歳、詩人の中原中也25歳、金子みすゞ27歳

など枚挙にいとまがありません。その多くは文芸、画家などの芸術家に多いいようである。

然し、時代が下ればその当時は人口に膾炙していた夭折の文芸家、芸術家達も、一部の人達の間のみで評価され、生きて居れば晩年とも云うべき状態となってしまうのです。

揚句に「春の雪」が降る時季ともなり、作者はその夭折の芸術家に思いを馳せ、偲んでいる事が想われるのです。俳句に於いて「にも」との措辞は、評価出来ないと云う結社の主宰は多いいものの、この場合は作者の心情を強調して居りその必然性は高いのである。

 

 

〜 過去のごと山重なりて夕霞 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)

ここ数日、連日のように朝夕の冷え込みが厳しく、今年は例年より暖かい春の到来が遅いように想われる。

しかし、毎日のように近在の田園地帯の散策を行っていれば、日脚は確実に伸びて居り、日差しにも力が漲って来て居る事を、とても実感する時がある。

そして時には暖かくて穏やかな日もあり、山並みに霞が掛かって揚ひばりの囀りなどが聞こえ、とても心が癒される事もあるのです。

揚句を鑑賞すれば、日中の気温は暖かく霞がかって居り、そのまま夕暮れとなって居る景色が想われるのである。

遥か山並みを遠望すれば、少しづつ暮れて行く光景であり、近くの山は色濃く遠くの山並みは霞んだままのグラデーションの景色が目の前に見えるようである。

その光景は「過去に置き忘れて来たもののようだ」と作者には映っているのである。

そして、間もなく幻想的な春の宵となり、詩情あふれる光景が続く事になるのです。

 

〜 をんどりのさとき鶏冠や花なづな 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

嘗て田舎の農家では庭先に小さな鶏小屋があり、庭に於いて平飼いにて飼っていた。

雄鶏は朝ともなれば刻(とき)の声を上げ家人に朝を知らせ、雌鶏の産む卵は家では貴重なたんぱく源として重宝であった。

10羽も飼って、昼前頃になれば、雌鶏が卵を産み賑やかに鳴いて知らせていた。

又、家で何かの行事があれば鶏は御馳走として食前に供される事もあり、大変重宝でもあった。

子共の頃、春先になれば鶏の雛を買い、餌を与えて育てる事が子供の役目でもあり薺の若葉を刻み、米糠も混ぜて与える事が日課であった。

そして庭先に於いて放し飼い中の雄鶏は、赤い鶏冠を垂らしながら雌鶏たちを危険より護るかのようなさとい顔つきで、悠然としている事が多いいのである。

揚句に、鶏たちが遊ぶ長閑な春の庭先の光景が想われ、ほんのり温かい想い出に浸る事が出来て懐かしい心情になるのである。

 

〜 春昼の鯉めくるめく渦なせる 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

嘗て関東での現役の頃、住まいは埼玉県の浦和近辺に永く居住していた。

当時長い間川釣りを趣味として居り、真鮒やヘラブナ釣りに夢中になっていた。

釣りは「鮒に始まり鮒に終わる」とも云われ、特にヘラブナ釣りは春夏秋冬に於いて、棚どり、餌の練り具合、餌その物の材料、釣竿、釣り針、へら浮子などに工夫が要り、道具にも凝るようになって居た。

埼玉県浦和(現さいたま市)界隈は元荒川の湾処(わんど)、江戸時代には7代将軍吉宗公により新田開発の為に作られた見沼用水などがあり、釣場には困る事は無かった。

勿論、いつも野釣りばかりではなく「釣り堀」へも良く通い、棚どり、練り餌さの研究、合わせのタイミングなどの腕磨きも行って居た。

人に言わせれば「魚が居ると判っている釣り堀での釣りがどうして面白いのか?」と言う人が沢山居る。然し、そうではありません!!「魚が居る判っている釣り堀で釣れなくて、どうして居るかどうか判らない野釣りで釣れるのか?」と云う事が持論なのである。

・・・本題の揚句の鑑賞より前置きが長くなりましたが、ヘラブナや鯉などの就餌(餌を摂ること)は、吸込みにより摂って居り、四季の水温に影響される事が多く、冬などの寒い時季は余り食べなくなり、水底や物の蔭に潜み殆ど動かなくなる。

然し、春とともに水温が暖かくなれば(乗っ込み・・・産卵の時季)を控え、就餌も盛んとなり、活発に泳ぎ周る。

揚句に春の暖かくなった午後、泉水の中で活発に回遊を行う鯉の群れが瞬時にして想われ、「目くるめく」との措辞が効き、本格的な春の穏やか景色が想われるのである。

 

 

〜 風船の行方知れずを良しとせる 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

春先ともなれば商店街のセールなども盛んになり、販促品として来店の幼い子に風船を配布することが良くあります。

風船には紙風船とゴム風船があり、紙風船は田舎の子供の頃の想い出に、越中富山の薬売りの行商人により、訪問先の子供に土産品として配りとても楽しみに貰っていた事が想い出され、とても懐かしくなるのです。

春の季語である「風船」を揚句に即して鑑賞すれば、この句の場合は明らかにゴム風船が想われのです。

幼い子が風船を貰い、手に持って空に浮かぶ様子を嬉しそうに眺めて居る光景が浮かぶももの、時にはうっかり手放してしまい、風船はそのまま空の彼方にのぼり風に流され行方不明となってしまいます。木々の枝や電線に寂しそうに引っかかっている光景は良く見かける事があります。

然し、更に深く作者の意図を考えれば「漸く暖かくなり、日差しも明るくなれば風船もしがらみを解き放たれ、自由になりたいのであろう」との、解放願望さえ想われるのである。

 

 

〜 予後のわれ妻に遅れて青き踏む 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

人は誰でも予期せぬ病気に罹り、入院を行う事は人生に於いてあり得る事である。

作者の永い間の入院生活の後、春を迎え漸く病気も癒えて退院した経験が想われるのである。

然し退院出来たからと云っても、その日よりいつものように普段の生活が出来る訳ではなく、少しづつリハビリのように歩く事より始め、日を重ねる事によって体調を整える事が出来るのである。

春の季語「青き踏む」とは、野に出て青草を踏みながら宴を催した古の習慣により野に遊ぶ事を云うのであるが、この句では作者の奥様が気を遣い、連れ添いながら、ゆっくり足慣らしを行って居る情景が想われるのです。

春の暖かい日差しを浴びながら、戸外の新鮮な空気を吸い夫婦が連れ添う暖かい光景が良いのである。

 

 

〜 城といひ花といひ皆闇を負ふ 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

そこに高い石垣の上に聳える美しい城が見える。

そこに厳しい冬を乗り越え爛漫と咲く桜の花が見える。

嘗て、近在の京都洛西の山すそに在る西行法師が出家を決めたと云う勝持寺(花の寺)に参詣し、住職に薬師如来様の教えについて説法を賜った機会がある。

その教えは「この世は苦楽相半ばなら先ず良しとせよ」、つまり辛い事も楽しい事も半分ずつであり、この世は辛い事、楽しい事ばかりではないというものである。

古の武士の栄耀栄華を極めた美しい城郭でも、今や爛漫と咲く桜の花もその昔を辿れば色々な風雪に耐え、今があるのである。

よしんば風雪が無かったとしても今はその美しさを誇り人々の脚光を浴びていても、将来にわたり永遠に誇る事は出来ないのが世の常である。

俳句に於いて、「この世に生きとし生けるものや美しきものの哀愁」を物の姿を通して知る事であり、そこに「華」を見出す事によって「詩歌が生まれる」のである。

挙句の「闇」とは、そのような「色々哀切を併せ持つ」姿の事であり、奥深い味わいを見出す一句である。

 

 

 

 

〜 城下町みづうみのごと霞みけり 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

この場合の城下町とは、作者在住の加藤清正公縄張りの熊本城を誇る熊本市内のことである。

初春の頃は地表近くの空気が冷やされ、地上に霞が立ち込める事がよくある。

近年は兵庫県朝来市の竹田城址が霧の中に立ち上がる「天空の城」として脚光を浴びている。群雄が割拠し争った時代の城跡と自然現象との組み合わせは現代の人々にもロマンを感じさせ、人気があるようである。

加藤清正公縄張りの熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれ、今でも熊本県民の誇りとなって居る。

中学生の頃修学旅行で訪れ、その時の熊本城の解説では上に行くほど反り返る「武者返し」と云われ、一番上の石垣はほぼ垂直となって居て驚いた事ある。

その熊本城の周囲に霞が立ち込め、城下町全体が「みづうみ」のような状態となって居るのだ。

近年2016年4月発生の熊本大地震により、熊本城は甚大な被害を受けたものの5年後の2021年にはほぼ復旧の目途が付き、完成も近づきつつあるようである。

「火の山」阿蘇山を近くに控え、過去に何度も大地震に見舞われて居り作者の心の奥底にはこのまま「みづうみ」のように鎮まって居て欲しいとの願いまで見えるようである。

 

 

 

〜 縄文の血筋を引きて独活齧る 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

歴史研究に於いて、今日ほど縄文時代に脚光が浴びている時代は無いと云われている。

縄文時代は1万3千年前~2千300年前の中石器~新石器時代と位置づけられ、この時代は従来、自然界の動・植物などの採取中心生活時代であり、農耕は行われなかったと長い間云われて来ました。

しかし、この時代の食性や暮らしなど文明と文化研究が進むにつれ、栗林が植栽されて居り、稲などは後の時代、弥生時代まで作られる事は無かったとの定説を翻し水稲栽培ではなく、陸稲によって作られて居たことも明らかになりました。

更に、この時代は焼物の道具も作られ火炎土器はその芸術性まで話題になるほどです。

又人骨の傍に植物の種なども発見され、故人を偲んで埋葬され、花も添えられていたであろうと云われて居り、その精神性の高さまで話題になりました。

食物も鹿、猪などの動物や木の実ばかりではなく、貝類も沢山食べられ全国至る所に貝塚が発見されるほどです。この様に自然界の中より種類も沢山食べられ、その食性は驚くほど豊で「縄文クッキー」などは栄養価も高く、現代に見直されている程である。

然しながら、日本列島の中に於いて縄文人と後年の弥生人が混血を繰り返し、現代の日本人を形成したとしても、縄文人のDNAは必ず何処かに残って居り、時には採取中心の時代の食性も甦る事は無くならないようである。

生の独活を齧りながら、その事に思いを致し居る作者が見えるようである。

 

 

〜 薄氷の縁よりひかり溶けてゆく 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

「薄氷」は「うすごおり」とも「うすらい」とも読むことが出来、春先の寒い朝

などに張るうすい氷の事である。他の物質(例えば土、石など)に日が当たれば氷より先に温度が上がり、その境目は氷を溶かし始めるのである。

上記の句を見て、一瞬にして蹲(つくばい)の中に張った薄氷を想起してしまったがよく見なければ分からない程の薄氷は、縁より溶け始め少しの風が吹いてもゆっくり流れ、時には日差しに煌めきながら揺れている事がある。

その光景は如何にも春めいて想われ、春先ならではの情景であるのです。

このように、何処にでもありそうな自然界の営みの、季節と共に変化してゆく景色をよく観察する事により自身の感性を磨く事は、作句を行う上でとても大切なのである。

 

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞

 

〜 差しきたる日に応へむと梅の花 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

掲句とは直接関係ないものの、江戸時代初期の芭蕉十哲の一人服部嵐雪の句に私の大好きな「梅一輪いちりんほどの暖かさ」と云う有名な句がある。

色々な俳人によって解説されているが、長くて厳しい冬の寒さに「もう我慢も限界」と想って居た矢先に、少しづつ日脚も伸び来て漸く梅の花の綻びの一輪を見つけた春到来の喜びなのである。「暖かさ」とは梅の花を通して、服部嵐雪自身の心の中の「暖かさ」なのである。

梅の花は、これほど季節の替り目に相応しい花は無いように想われるのだ。

概して春に芽吹く植物の花や芽は、気温が暖かくなるばかりではなく、一日の日照時間が長くなる事が条件のようでもある。

その日々、日照時間が長くなる日差しに、梅の花も応え咲こうとしていると見た作者の豊かな感性が想われるのだ。

俳句はこのように自然界の営みに人間も同化する事が出来、その時に詩が生まれるのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多彩な句 ~句集『肥後の城』を読む~

2022年04月10日 19時37分23秒 | 第二句集『肥後の城』

多彩な句 ~句集『肥後の城』を読む~


                                                後藤信雄

 永田満徳さんのこの第二句集は、八年間で作った五千句の中から三四四句を収めたものとのこと。なんとひと月平均五十句以上の計算となる。多作の中から選び抜かれた句が多彩な表情を見せる。
  肩書の取れて初心の桜かな  
  衣擦れのして運ばるる夏料理      
  花筏鯉の尾鰭に崩れけり          
  ポンポンダリア空の一角より晴れて    
 実感のよく伝わる句であったり、写生がよく効いていたりする句である。
  喧嘩独楽手より離れて生き生きと  
  夭折にも晩年のあり春の雪        
  群をなすことを力に鶴引けり      
  春筍の目覚めぬままに掘られけり  
 これらは発見のある句と言えようか。手から離れて生き生きとする喧嘩独楽はまさにその通り。夭折にも晩年のあるという発見と春の雪の取り合わせ、違和感であろうか。
  薄氷の縁よりひかり溶けてゆく      
  白梅のひかりあふれてこぼれなし    
  消ゆるまで先を争ふ石鹼玉          
 一物仕立ての句を集めてみた。薄氷の美しさ、石鹼玉の儚さなどがよく現れている。
  いがぐりの落ちてやんちやに散らばりぬ 
  冬籠あれこれ繋ぐコンセント        
  どら焼きの一個をあます暮春かな    
  あんな人こんな人ゐる涼しさよ      
 面白み(俳味)のある句群である。口語「やんちやに」の面白さ。「コンセント」という現代的なものへの視線。三句目は「肥後のいっちょ残し」というところか。
  落葉踏む音に消えゆく我が身かな    
  蝌蚪生まるどれがおのれか分かぬまま  
  夜半の秋頬を撫づれば顔長し          
  庭一杯菊を咲かせて老いにけり        
 自分を意識して詠んだ句。落葉踏む音の一句目は感慨深い。三句目は何気ない日常の一齣ながらしみじみとしたものがある。
  水俣やただあをあをと初夏の海    
  死に至る烈士の意志や楠若葉         
  手足より苗立ちあがる御田祭         
  曲がりても曲がりても花肥後の城     
  熊本の風土を詠んだ句。水俣の海や阿蘇の御田祭に思いを寄せて詠んでいる。 
  こんなにもおにぎり丸し春の地震      
  この町を支へし瓦礫冴返る            
  一夜にて全市水没梅雨深し  
  阿蘇越ゆる春満月を迎へけり
 そして熊本地震・人吉水害にまつわる句群。災害の多い歳月であったが、それを句に書き留めた。四句目は、そのような災害を越えて春満月が熊本の地を照らしてくれているかのようである。
 最近の永田さんは多作なだけではなく、ネット句会やズーム句会を次々に立ち上げるなど、ますます旺盛な行動力を示している。その行方にも目が離せない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「肥後の城」句集紹介 日刊「人吉新聞」3/1(火) 付

2022年03月15日 09時56分00秒 | 第二句集『肥後の城』

日刊「人吉新聞」3/1(火)  付


〜被災した古里悼む句も〜


 【内容】


被災した古里悼む句も


人吉出身永田さん 

俳句集「肥後の城」出版


「阿蘇越ゆる春満月を迎へけり」

「一夜にて全市水没梅雨激し」

ー。

人吉出身で俳人協会熊本県支部長の永田満徳さん(67歳)=熊本市西区=は、平成24年から令和2年までに手掛けた句集「肥後の城」を出版した。

元高校教諭の永田さんは、昭和62年に俳句結社「未来図」(現在「秀麗」)に入会し、平成7年同社の新人賞を獲得。現在、熊本近代文学研究会会員、今村潤子主宰の俳誌「火神」の編集長を務める。

近年は画期的な取り組みとして、日本俳句協会と俳句大学を設立。インターネットを通じて国内外で俳句の交流を行う。

また、文学研究では夏目漱石、三好達治、蓮田善明、木下順二、三島由紀夫など熊本県ゆかりの作家を発掘し、研究を続けている。

今回出版したのは、平成24年に発刊した「寒祭」に続く第2句集。雄大な阿蘇の景色や熊本地震で崩壊した熊本城、豪雨に襲われた人吉を悼んだ句などが掲載されている。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永田満徳句集『肥後の城』を読む

2022年02月02日 12時17分31秒 | 第二句集『肥後の城』

「篠(すず)」2022年Vol.199 

永田満徳句集『肥後の城』を読む

山野邉茂

「秋麗」同人、SNSの俳句交流グループ「俳句大学」学長でもある永田満徳氏の第二句集である。二〇一二年から二〇二〇年まで八年間、三四四句が収められている。

この間、作者が住む熊本県は、二〇一六年四月の熊本地震、二〇二〇年七月の作者の故郷人吉市を中心とした水害という大きな自然災害にみまわれた。作者自身も被災者となり、その体験は否応なく本句集の柱になった。私は、作者が震災被害の只中にあって、「俳句大学」のネット投句欄に日々の体験や心境を吟じていたことに感銘を受けたことを思い出す。俳句が、図らずもこうした大災害を記録、伝達するドキュメンタリーとして機能する証になることを示した貴重な句集といえるだろう。

  こんなにもおにぎり丸し春の地震

  本震のあとの空白夏つばめ

  石垣の崩れなだるる暑さかな

  一夜にて全市水没梅雨激し

  むごかぞと兄の一言梅雨出水

 震災句、水害句、どちらも当事者としての体験がリアルに伝わってくる。読者は、災害句のインパクトに注目しがちだが、私は、作者が災害体験から改めて生への強い意志を表明した句集として読んでみた。本句集は、

  肩書の取れて初心の桜かな

 という定年退職後の生活が始まる春の句を冒頭にして、

  冬麗のどこからも見ゆ阿蘇五岳

  寒日和窓てふ窓に阿蘇五岳

など、冬の阿蘇を詠んだ四句で終わっている。初頭の句は第二の人生への所感だが、締めの四句は、「生きる」決意をいまそこにある阿蘇に託す、そんな生への強い意志が感じられる。震災前の日々を詠んだ前半の句には、どこか傷んだ翅を休めるような生活ぶりが垣間見える。

  風あればさすらふ心地ゑのこ草

  悴みて身の置き所なき世かな

そして、故郷の自然に包まれた幸福を大らかに詠む。

  曲がりても曲がりても花肥後の城

  ふるさとは橋の向かうや春の空

年迎ふ裏表なき阿蘇の山

 それが、二つの災害で変わった。後半の句には取り戻しつつある日常を、精一杯生きる息遣いが聞こえてくる。

  昼寝覚われに目のあり手足あり

  尺取の身も世もあらぬ身を上ぐる

 そして、そこに生きる生き物たちの健気な姿への優しいまなざしが、読者を共感へと誘うだろう。

  大鯰口よりおうと呼びかけり

  雨垂れの落し子なるや青蛙

  鯊跳ねて雲一つなき有明海 

 多くの人に読んでほしい句集である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする