総合文化雑誌「KUMAMOTO」45号
NPO法人 くまもと文化振興会(2023年12月15日発行)
追悼 中村青史先生
~愛弟子のように~ 永田満徳
中村青史先生との出会いはかれこれ40年ほど前、大学出たてのころである。学校の同僚で、「熊本歴史科学研究会」の永野守人先生の家に呼ばれて行ったときに初めてお目にかかった。その席で、中村先生に「大学を卒業しても、さらに文学研究を続けたい」と思いを正直に述べたところ、「熊本には誰でも入れる『熊本近代文学研究会』があり、代表の首藤基澄先生に紹介しよう」となった。
向井ゆき子さんによれば、「頼まれた以上は最後まで永田くんの面倒を見る」とおっしゃっておられたという。中村先生に私を「頼む」と言われたのは永野守人先生ではないかと思われる。永野先生には新任のころ、親身になってお世話を頂いたからである。
「熊本近代文学研究会」は月一の研究発表と機関誌「方位」の寄稿という車の両輪で行われて、現在に至っている。私が研究発表と寄稿した文学者は夏目漱石や木下順二、小泉八雲などがある。「熊本近代文学研究会」では『熊本の文学』と題する熊本の文学者を扱った単行本を発行するようになり、私も『熊本の文学』(審美社)のⅠでは三好達治、Ⅱでは蓮田善明、Ⅲでは三島由紀夫を担当した。熊本カルチャーセンターの「熊本の文学」講座やその他の講話の基になったもので、貴重な財産となっている。
また、首藤基澄先生には俳句を勧められ、現在、首藤先生が創立された俳誌「火神」主宰、俳人協会幹事、俳人協会熊本県支部長を任され、第二句集『肥後の城』(文学の森 令和3年9月)では熊本の風土を詠み込んだものとして「文學の森大賞」を頂くまでになった。
それもこれも、中村青史先生の紹介がなければ今日の私はないと思っている。
中村青史先生は熊本出身の文学者の顕彰の会を数多く立ち上げて来られた。中村先生の傍にいると、熊本の文学がじかに感じられて、おもしろく、いつしか中村先生のような郷土の文学を研究する者になりたいと思うようになった。
中村青史先生から推挙、または勧誘頂いた熊本の文学顕彰会は以下の通りである。なお、役職は現在のものである。
「熊本文化懇話会(文学)」会員
「熊本アイルランド協会」理事
「熊本八雲会」監事
「徳永直の会」広報
「熊本近代文学研究会」会員
「くまもと漱石倶楽部」会員
「草枕ファン倶楽部」会員
「熊本・蘆花の会」会員
中村青史先生は「熊本アイルランド協会」の理事の推挙の理由を「若い君が頑張れ」とおっしゃって励まされた。私を育てようというお気持に身の引き締まる思いであった。特に、「徳永直の会」「熊本・蘆花の会」は中村先生が会長を退かれる際に相談があり、知り合いを紹介したり、仲介を務めたりした。私をそれほど信任して頂いたことに感謝している。
私は様々な企画をするのが好きで、中村青史先生に文学の講師や果てはバスガイドをお願いしても、一度も否定されることはなく、何をやっても「いけいけどんどん」というタイプの先生で、思い通りの催しが開催できた。その気さくさに中村先生の器の大きさを覚え、ますます中村先生を慕うようになった。
その主な例としては、まず、「九州地区高等学校国語教育研究大会熊本大会」が開催されたとき、私は「草枕の里」探訪と銘打ったバスツアーを担当した。中村青史先生に恐る恐るバスガイドをお願いしたら、快く引き受けて頂いた。中村先生の知識はもちろんのこと、バスの窓外を指差しながら、前田家ゆかりのだれそれが住んでいたとか、現地の息遣いが分かるような案内のため参加者に大変好評であった。中村先生を紹介した私は鼻が高かった。
また、平成26年6月、「熊本県高等学校国語教育研究会(K5)」主催の一泊二日の文学研修「K5文学散歩in旭志」を事務局長として企画した。『窮死した歌人の肖像 宗不旱の生涯』(形文社. 2013.12)を執筆されたばかりの中村青史先生を講師としてお招きした。「四季の里旭志」のログハウスの一泊目の懇親会の折、「熊本近代文学研究会」のことに触れたら、「まあだ、やっとっとか?なんでおれに連絡せんとか」とおっしゃったので、驚いて、「先生のお歳ごろは、研究会を卒業しなはって参加ばされんと思っとりました」と言ったところ、「この研究会の発起人はおれじゃなかか!」とえらい剣幕だった。そこで、「えっ、先生は参加ばされる気いがあんなさっとですね」と言ったところ、「そりゃ、そうたい。ただな、研究会の後に呑まにゃ、参加せんぞ」ということで、飲み会をすることになった。早速、8月の「熊本近代文学研究会」が終わったあと、「中村青史先生出版祝賀会(暑気払いの会)」を計画した。これまで以上の参加者があり、面目を施した。
私は文化総合誌「KUMAMOTO」の「はじめての文学」シリーズの執筆を依頼されたとき、中村青史先生に1号から23号までの原稿に目を通して頂き、その都度、適切な添削をして頂いた。
その一例を示すと、「『はじめての三島由紀夫③』三島由紀夫のペンネームの誕生」(「KUMAMOTO」No.18.2017.3.15)の場合はいつものように画廊喫茶「南風堂」においで頂き、添削をお願いした。
三島由紀夫の本名は平岡公威。一六歳の時、「三島由紀夫」という筆名、つまりペンネームを使い始めたのである。
というところを
三島由紀夫の本名は平岡公威。一六歳の時から「三島由紀夫」という筆名、つまりペンネームを使っていたことになる。
と修正して頂き、文意がはっきりとして、しっかりとしたものになり、さすがと思い、賛嘆したものであった。
中村青史先生の語録のうちで特に印象に残っているのは、
明治維新の志士はいかに生き残るかが大事であって、生き残った者が維新後の時代を作ったのだ。永田くんも、とにかく長生きしろ!
という言葉で、中村先生自身がこの言葉通りの生き方をされている。
いつまでもお元気で郷土の文学顕彰にご尽力されるとばかり思っていた。熊本文学の語り部を失い、熊本の文学顕彰においては大きな損失であるが、中村先生のご遺志を引き継いで、熊本文学の顕彰に努めていくことが中村先生の御恩に報いることである。
その具体策として、私自身で言えば、俳句創作において、夏目漱石の言葉とされる「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」に倣い、連想はもとより、オノマトペ・擬人法・同化などを駆使して、多様な表現を試みている。そうすることによって、漱石俳句を継承し、並びに正岡子規の新派俳句を熊本にもたらした漱石の顕彰に努めたいと思っている。
8月22日の午後6時からの中村青史先生の通夜に参列した。私は中村先生の直接の教え子ではないにも拘らず、愛弟子のように可愛がって頂いたので、奥様に
中村先生には大変可愛がっていただきました。
と申し上げると、
主人はいつも永田さんのことは気にかけていました。つい最近、永田くんは俳句で頑張っているぞとうれしそうに言っていましたよ。
とすぐお応え頂いた。その言葉をお聞きして、胸が熱くなった。
そのあと、おだやかで、安らかなお顔をされていた中村青史先生に
可愛がって頂きありがとうございます
とお声掛けしたところで込み上げてくる涙を抑えることが出来なかった。
中村青史先生、安らかにお眠りにください。
(ながた みつのり/俳誌「火神」主宰 熊本近代文学研究会会員)