横光利一『上海』解説
初出 「日本の近代小説」 近代文学研究編(改訂版)
協和書房 平成2005年3月15日
上海
横光利一(よこみつりいち) 一八九八(明治三十一)年三月十七日~一九四七(昭和二十二)年十二月三十日。福島県北会津郡東山村(現会津若松市東山町)の東山温泉で父横光梅次郎、母こぎくの一女一男の長男として生まれる。早稲田大学高等予科文科修了、同政治経済学部中退。大正八年に友人の紹介で菊池寛と会い、師事する。大正十三年に早大高等予科の同級で詩の仲間だった小島勗の妹キミと結婚するが、昭和元年に結核で死去。「春は馬車に乗つて」(昭和元年)は妻の療養生活とその死を描いている。大正十二年の「蠅」「日輪」などの、人間を客体化して描こうとする視点、即物的な比喩、翻訳調の文体、乾いた抒情性などによって新時代の作家として認められるようになる。大正十三年に川端康成、片岡鉄兵らと「文芸時代」を創刊。「ナポレオンと田虫」などに見られるような西欧の二十世紀前衛芸術と科学技術の発展による新しい世界観の影響を受けたモダニズム的特徴は「新感覚派」と命名される。昭和五年の「機械」(「改造」)は、何ものかに支配され歯車のように動かされて行く人間の運命を描き、昭和初期の文学史を代表する傑作の一つになる。昭和三年に中国に一ヶ月滞在、この経験を素材に書いた昭和七年『上海』(改造社)は中国現代史の激動の中の人間の集団、その運動を描いた最初の長編である。横光は旧派の自然主義的リアリズムとプロレタリア文学に対決して心理主義に進み、続いて長編『寝園』長編『紋章』などを発表する。十一年にヨーロッパ各地を旅し、その成果は『旅愁』における日本の伝統への回帰の主題となる。敗戦後は戦時下の銃後文芸運動による戦争協力によって戦争責任を問われることとなる。
A お杉は街から街を歩いて参木の家の方へ帰って来た。どこか自分を使う所がないかと、貼り紙の出ている壁を捜しながら。ふと彼女は露路の入口で売ト者を見つけると、その前で立ち停った。昨夜自分を奪ったものは、甲谷であろうか参木であろうかと、また彼女は迷い出したのだ。お杉の前で観て貰っていた支那人の娘は、壁にもたれて泣いていた。売卜者の横には、足のとれかかったテーブルの屋台の上に、豚の油が淡黄く半透明に盛っ上って縮れていた。その縮れた豚の油は、露路から流れて来る塵埃を吸いながら、遠くから伝わる荷車の響きや人の足音に、絶えずぶるぶると懐えていた。小さな子供がその背の高さを、丁度テーブルの面まで延ばしながら、じっと慄える油に鼻のさきをひっつけていつまでも眺めていた。その子の頭の上からは、剥げかかった金看板がぞろりと下り、弾丸に削られた煉瓦の柱はポスターの剥げ痕で、張子のように歪んでいた。その横は錠前屋だ。店いっぱいに拡った錆びついた錠が、蔓のように天井まで這い上り、隣家の鳥屋に下った家鴨の首と一緒になって露路の入口を包んでいる。間もなく、豚や鳥の油でぎらぎらしているその露路の入口から、阿片に青ざめた女達が眼を鈍らせながら、蹌踉と現れた。彼女達は売卜者を見ると、お杉の肩の上から重なって下のブリキの板を覗き込んだ。
ふとお杉は肩を叩かれで振り返った。すると、参木が彼女の後に立って笑っていた。お杉は一寸お辞儀をしたが耳を中心に彼女の顔がだんだんと赧くなった。
「御飯を食べに行こう。」と参木が云って歩き出した。
お杉は参木の後から黙って歩いた。もういつの間にか夜になっている街角では、湯を売る店頭の黒い壷から、ほのぼのとした湯気が鮮かに流れていた。そのとき、参木は後から肩を叩かれたので振り向くと、ロシア人の男の乞食が、彼に手を差し出して云った。
「君、一文くれ給え。どうも革命にやられてね、行く所もなければ食う所もなし、困ってるんだ。これじゃ今にのたれ死にだ。君、一文恵んでくれ給え。」
「馬車にしようか。」と参木はお杉に云った。
お杉は小さな声で頷いた。馬車屋の前では、主婦が馬の口の傍で粥の立食いをやっていた。二人は古いロココ風の馬車に乗ると、ぼってりと重く湿り出した夜の街の中を揺られていった。
参木はお杉に、自分も首になったことを話そうかと思った。しかし、それではお杉を抛り出すのと同じであった。お杉の失職の原因が彼にあるだけ、このことについては彼は黙っていなければならなかった。参木は愉快そうに見せかけながらお杉に云った。
「僕はあんたから何も聞かないが、多分首でも切られたんだろうね。」
「ええ。あなたがお帰りになってから。直ぐ後で。」
「そう。じゃ、心配することはない。僕の所には、あんたがいたいだけいるがいい。」
お杉は黙って答えなかった。参木は彼女が何を云いたそうにもじもじしているのか分らなかった。だが、彼には、彼女が何を云い出そうと、今は何の感動も受けないであろうと思った。露路の裏の方で、しきりに爆竹が鳴った。アメリカの水兵達がステッキを振り上げて車夫を叩きながら、黄包車に速力を与えていた。
馬車が道の四つ角へ来ると、暫くそこで停っていた。一方の道からは塵埃と一緒に、豚の匂いが流れて来た。その反対の方からは、春婦達がきらきらと胴を輝かせながら、揺れ出て来た。またその一方の道からは、黄包車の素足の群れが、乱れて来た。角の交通整理のスポットが展開すると、車輪や人波が、真蒼な一直線の流れとなって、どよめき出した。参木の馬車は動き出した。と、スポットは忽ち変って赤くなった。参木の行く手の磨かれた道路は、春婦の群れも車も家も、真赤な照明を浴びた血のような河となって、浮き上った。
二人は馬車から降りると人込みの中をまた歩いた。立ったまま動かない人込みは、ただ唾を吐きながら饒舌っていた。二人は旗亭の陶器の階段を昇って一室に納った。テーブルの上には煙草の大きな葉が壺にささったまま、青々と垂れていた。
「どうだ、お杉さん。あんたは日本へ帰りたいと思わんか。」
「ええ。」
「もっとも今から帰ったって、仕様がないね。」
参木は料理の来るまで、欄干にもたれて南瓜の種を噛んでいた。彼は明日から、どうして生活をするのかまだ見当さえつかないのだ。だが、そうかと云って日本へ帰ればなお更だった。どこの国でも同じように、この支那の植民地へ集っている者は、本国へ帰れば、全く生活の方法がなくなって了っていた。それ故ここでは、本国から生活を奪われた各国人の集団が寄り合いつつ、世界で類例のない独立国を造っている。だが、それぞれの人種は、余りある土貨を吸い合う本国の吸盤となって生活している。此のためここでは、一人の肉体は、いかに無為無職のものと難も、ただ漫然といることでさえ、その肉体が空間を占めている以上、ロシア人を除いては、愛国心の現れとなって活動しているのと同様であった。――参木はそれを思うと笑うのだ。事実、彼は、日本におれば、日本の食物をそれだけ減らすにちがいなかった。だが、彼が上海にいる以上、彼の肉体の占めている空間は、絶えず日本の領上となって流れているのだ。
――俺の身体は領土なんだ。此の俺の身体もお杉の身体も。――
その二人が首を切られて、さて明日からどうしたら良いのかと考えているのである。参木は自分達の周囲に流れて来ている旧ロシアの貴族のことを考えた。彼らの女は、各国人の男性の股から股をくぐって生活している。そうして男は、各国人の最下層の乞食となって。――参木は思った。
――それは彼らが悪いのだ。彼らは、自分の同胞を、男の股の下で生活させ、乞食をさせ続けて来たからだ。――と。
人は、自分の同胞の股の下で生活し、自分の同胞の中で乞食をするよりも、他国人の股の下で生活し、他国人の間で乞食をする方が楽ではないか。――それならと参木は考えた。
――あのロシア人達に、われわれは同情する必要は少しもない。――と。
しかし、参木は.お杉と自分が誰を困らせたことがあるだろうと考えた。すると、彼は、鬱勃として揺れ出して来ている支那の思想のように、急に専務が憎むべき存在となって映り出した。だが、彼は、自分の上役を憎むことが、彼自身の母国そのものを憎んでいるのと同様な結果になると云うことについては、忘れていた。然も、母国を認めずして、上海でなし得る目本人の行動は、乞食と売春婦以外にはないのであった。
B 高重の工場では、暴徒の襲った夜以来、殆ど操業は停止された。しかし、反共産派の工人達は機械を守護して動かなかった。彼らは共産派の指令が来ると、袋叩きにして川へ投げた。工場の内外では、共産派の宣伝ビラと反共派の宣伝ビラとが、風の中で闘っていた。
高重は暴徒の夜から参木の顔を見なかった。もし参木が無事なら、顔だけは見せるにちがいないと思っていた。だが、それも見せぬ。――
高重は工場の中を廻ってみた、運転を休止した機械は、昨夜一夜の南風のために錆びついていた。工人達は黙々とした機械の間で、やがて襲って来るであろう暴徒の噂のために、蒼ざめていた。彼らは列を作った機械の間へ虱のように挟まったまま、錆びを落した。機械を磨く金剛砂が湿気のために、ぼろぼろと紙から落ちた。すると、工人達は口々にその日本製のやくざなぺーパーを罵りながら、静ったベルトの掛けかえを練習した。綿は彼らの周囲で、今は始末のつかぬ吐潟物のように湿りながら、いたる所に塊っていた。
高重は階上から工場の周囲を見廻した。駆逐艦から閃めく探海灯が層雲を浮き出しながら、廻っていた。黒く続いた炭層の切れ目には、重なった起重機の群れが刺さっていた。密輸入船の破れた帆が、真黒な翼のように傾いて登っていた。と、そのとき、炭層の表面で、襤褸の群れが這いながら、滲み出るように黒々と拡がり出した。探海灯がそれら背中の上を疾走すると、濫襖の波は扁平に、べたりと炭層へへばりついた。
来た。――
高重は脊を低めて階下へ降りようとした。すると、倉庫と倉庫の間から、声を潜めて馳けている黒い一団が、発電所のガラスの中へ辷っていた。それは逞しい兇器のように、急所を狙って進行している恐るべき一団にちがいないのだ。
高重はそれらの一団の背後に、芳秋蘭の潜んでいることを、頭に描いた。彼は彼らの計画の裏へ廻って出没したい欲望を感じて来た。彼らは何を欲しているのか。ただ今は、工場を占領したいだけなのだ。――
高重は電鈴のボタンを押した。すると、見渡す全工場は、真暗になった。喚声が内外二ヵ所の門の傍から、湧き起った。石炭が工場を狙って、飛び始めた。探海灯の光鋩が廻って来ると、塀を攀じ登っている群衆の背中が、蟻のように浮き上った。
高重は彼らを工場内に導き入れることの、寧ろ得策であることを考えた。這入れば袋の鼠と同様である。外から逆に彼らを閉塞すれば、それで良いのだ。もし彼らが機械を破壊するなら、損失はやがて彼らの上にも廻るだろう。――彼は階段を降りていった。すると、早や場内へ雪崩れて来た一団の先端は、機械を守る一団と、衝突を始めていた。
彼らは叫びながら、胸を垣のように連ねて機械の間を押して来た。場内の工人達は、押され出した。印度人の警官隊は、銃の台尻を振り上げて、押し返した。格闘の群れが、連った機械を侵食しながら、奥へ奥へと進んでいった。と、予備品室の錠前が引きち切られた。場外の一団は、その中へ殺到すると、棍棒形のピッキングステッキを奪い取った。彼らは再びその中から溢れ出すと、手に手に、その鉄の棍棒を振り上げて新しく襲って来た。
彼らは精紡機の上から、格闘する人の頭の上へ、飛び降りた。木管が、なげつけられる人の中を、飛び廻った。ハンク・メーターのガラスの破片が、飛散しながら、裸体の肉塊へつき刺さった。打ち合うラップボードの音響と叫喚に攻め寄せられて、次第に反共産派の工人達は崩れて来た。
高重は電話室へ馳け込むと、工部局の警官隊へ今一隊の増員を要求した。彼は引き返すと、急に消えていた工場内の電灯が明るくなった。瞬間、混乱した群衆は、停止した。と、再び、怒濤のような喚声が、張り上った。高重は、まだ侵入されぬローラの櫓を楯にとると、頭の上で唸る礫を防ぎながら、叫び出した。
「警官隊だ。ふん張れ、機関銃だ。」
しかし、それと同時に、周囲の窓ガラスが爆音を立てて崩壊した。と、その黒々とした巨大な穴の中から、一団の新しい群衆が、泡のように噴き上った。彼らは見る間に機械の上へ飛び上がると、礫や石灰を機械の間へ投げ込んだ。それに続いて、彼らの後から陸続として飛び上がる群衆は、間もなく機械の上で盛り上った。彼らは破壊する目的物がなくなると、社員目がけて雪崩れて来た。
反共派の工人達はこの団々と膨脹して来る群衆の勢力に、巻き込まれた。彼らは群衆と一つになると、新らしく群衆の勢力に変りながら、逆に××社員を襲い出した。××社員は、今はいかなる抵抗も無駄であった。彼らは印度人の警官隊と一団になりながら、群衆に追いつめられて庭へ出た。すると、行手の西方の門から、また一団の工人の群れが、襲って来た。彼らの押し詰った団塊の肩は、見る間に塀を突き崩した。と、その倒れた塀の背後から、兇器を振り上げた新しい群衆が、忽然として現れた。彼らの怒った口は、鬨の声を張り上げると、××社員に向って肉迫した。腹背に敵を受けた社員達は、最早や動くことが出来なかった。高重は仲間と共に××××を群衆に差し向けた。
――今は最後だ。
彼の引金にかかった理性の際限が、群衆と一緒に、バネのように伸縮した。と、その先端へ、乱れた蓬髪の海が、速力を加えて殺到した。同時に、印度人の警官隊から銃が鳴った。続いて高重達の一団から××××が、――群衆の先端の一角から、叫びが上った。すると、その一部は翼を折られたように、へたばった。彼等は引き返そうとした。と、後方の押し出す群れと、衝突した。彼らは円弧を描いた二つの黒い潮流となって、高重の眼前で動乱した。方向を失った背中の波と顔の波とが、廻り始めた。逃げる頭が塊った胴の中へ、潜り込んだ。倒れた塀に躓いて人が倒れると、その上に盛り上って倒れた人垣が、暫く流動する人波の中で、黒々と停って動かなかった。
C 参木はお杉が習い覚えた春婦の習慣を、自分に押し隠そうと努めているのを見ると、それに対して、客のようになり下ろうとした自分の心のいまわしさに胸が冷めた。しかし、あんなにも自分を愛してくれたお杉、その結果がこんなにも深く泥の中へ落ち込んでしまったお杉、そのお杉に暗がりの中で今逢って、ひと思いに強く抱きかかえてやることも出来ないということは、何という良心のいたずらであろう。前にはお杉を、もしや春婦に落すようなことがあってはならぬと思って抱くこともひかえていたのに、それに今度はお杉が春婦に落ってしまっていることのために、抱きかかえてやることも出来ぬとは。――
「お杉さん、マッチはないか。一ぺんお杉さんの顔が見たいものだね。良かろう。」
「いや。」とお杉は.云った。
「しかし、長い間別れていたんじゃないか。こんなに顔も見ずに暗がりの中で饒舌っていたんじゃ、まるで幽霊と話しているみたいで気味が悪いよ。」
「だって、あたし、こんなになってしまっているとこ、あなたに今頃見られるのいやだわ。」
勿論そうであろうとは分っていたが、そんなに直接お杉から口に出して云われると、参木はきびしく胸の締って来るのを感じた。
「いいじゃないか、あんたと別れた夜は、あれは僕も銀行を首になるし、君もお柳のとこを切られた日だったが、男はともかく女は首になっちゃ、どうしようもないからね。」
しかし、参木はそんなにお杉に優しげな言葉を云いながらも、ともすると、まだ物欲しげにごそごそお杉の方へ動きたがる自身の身体を感じると、もうひと思いにお杉を暗の中に葬って、このまま眠ってしまおうと努力した。
「参木さん、あなたお柳さんにお逢いになって。」
「いや、逢わない。あの夜あんたのことで喧嘩してから一度もだ。」
「そう。あの夜はお神さん、それやあたしにひどいことを云ったのよ。」
「どんなことだ?」
「いやだわ、あんなこと。」
嫉妬にのぼせたお柳のことなら、定めて口にも云えないことを云ったのであろうと参木は思った。あのときは、風呂場ヘマッサージに来たお柳をつかまえて、戯れにお杉を愛していることを、自分はほのめかしてやったのだった。すると、お柳はお杉を引き摺り出して来て自分の足もとへぶつけたのだ。それから、自分はお杉に代ってお柳に詫びた。すると、ますますお柳は怒ってお杉の首を切ったのだ。ああ、しかし総てがみんな戯れからだと参木は思った。それに自分はお杉のことは忘れてしまって、いつの間にか尽く秋蘭に心を奪われてしまっていたのである。しかし、今は彼は、だんだんお杉が身内の中で前のように暖まって来るのを感じると心も自然に軽く踊って来た。
「お杉さん、もう僕は眠ってしまうよ。今日は疲れてもうものも云えないからね。その代り、明日からこのまま居候をさせて貰うかもしれないが、いいかねあんたは?」
「ええ、お好なまでここにいてね。その代り、汚いことは汚いわ。明日になって明るくなればみんな分ることだけど。」
「汚いのは僕はちっともかまわないんだが、もうここから動くのは、だんだんいやになって来た。迷惑なら迷惑だと今の中に云ってくれたまえ。」
「いいえ、あたしはちっともかまわないわ。だけど、ここは参木さんなんか、いらっしゃれるところじゃないのよ。」
参木は自分のお杉に云ったことが、直ぐそのまま明日から事実になるものとは思わなかった。だが、事実になればなったで、もうそれもかまわないと思うと、彼は云った。
「しかし、一人でいるより、今頃こんな露路みたいな中じゃ、二人でいる方が気丈夫だろう。それとも、お杉さんが僕の家へ来ているか、どっちにしたってかまわないぜ。」
参木は何とお杉が返事をするであろうと思って待っていると、彼女は黙ったまま、またしくしく暗がりの中で泣き始めた。参木はお杉がお柳の家で初めてそのように泣いたときも、いま自分が云ったと同様な言葉を云ってお杉を慰めたのを思い出した。しかも、自分の言葉を信じていく度に、お杉はだんだん不幸に落ち込んでいったのだ。
しかし、彼がお杉を救う手段としては、あのときも、その言葉以外にはないのであった。生活の出来なくなった女を生活の出来るまで家においてやることが悪いのなら、それなら自分は何をして良いのであろう。ただ一つ自分の悪かったのは、お杉を抱きかかえてやらなかったことだけだ。だが、それはたしかに、悪事のうちでも一番悪いことにちがいなかったと参木は思った。
抱くということ、――それは全くどんなに悪かろうとも、お杉にとっては抱かぬよりは良いことだったのだ。それにしても、まアお杉を抱くようになるまでには、自分はどれだけ沢山なことを考えたであろう。
しかも、それら数々の考えは、尽く、どうすればお杉を、まだこれ以上虐め続けていかれるであろうかと考えていたのと、どこ一つ違ったところはないのであった。
「お杉さん、こちらへ来なさい。あんたはもう何も考えちゃ駄目だ。考えずにここへ来なさい。」
参木はお杉の方へ手を延ばした。すると、お杉の身体は、ぽってりと重々しく彼の両手の上へ倒れて来た。
解 説 「上海」は、横光利一とって初めての連載小説であり、初めての長編小説である。昭和三年十一月から昭和六年十一月まで断続的ながら七回にわたって『改造』に発表された。昭和七年七月改造社から単行本として発行された後、かなりの改稿がなされ、昭和十年三月、書物展望社より決定版が再刊された。
東洋随一の国際都市で十年間を過ごしている参木は銀行の専務の不正行為を隠す仕事をしている。しかも、死に魅入られ、日に一度は死ぬ方法を考えている。参木の友人である甲谷はシンガポールの材木会社に勤務し、将来は為替仲買人となることを夢みている。お杉は参木のちょっとした戯れから勤めていたトルコ風呂を首にされて、上海の巷に放り出されてしまう。参木もまた、専務にたてつき、ついに辞職して巷の人となる。職を失って拠るところを失った男は乞食に、女は売春婦になるよりほかない〔A〕。甲谷は意中の人である宮子のいるダンスホールで、アジア主義者の山口から「死人拾い」という奇妙な商売に心動かされる。また、そのダンスホールに出入りしている共産党の女性闘士、芳秋蘭の美貌にうたれる。お杉の前から姿をくらました参木は山口から預けられた亡命ロシア人女性オルガを持てあます。その後、参木は甲谷の兄高重に救われ、刻一刻と変化する国際綿花市場の仕事に再就職する。東洋紡績会社に勤める高重は夜業の見回りの途中、労働者を組織し、ストライキの機運を盛り上げている芳秋蘭の存在を参木に教える。ついに暴動による破壊が始まり、その激化のなかで傷つきかけた芳秋蘭を助ける。部屋まで送り届けた参木は芳秋蘭の論理と弁舌に圧倒され、かすかな恋の芽生えを感じる。革命の都市化しつつあるなか、ストライキの群れに向かって発砲された高重の銃弾が一人の死者をだすと、対日運動は全市に拡大する〔B〕。そして数万に膨れ上がった反帝運動の群集に英国官憲の銃弾が浴びせられて、動乱は最高潮に達する。ついに、甲谷は山口の居候の身となり、参木も今は、乞食同然となる。参木は荒廃した上海を彷徨するうちに、売春婦となったお杉の許に辿り着き、お杉を闇の中で初めて抱き寄せる〔C〕。
横光が上海に渡ったのは芥川龍之介の勧めによる。後に芥川の死を受けて、自らその系譜の一翼を担おうとする横光にとって、芥川による上海への勧めというのは「上海」という作品を考察する上で無視できない。この勧めが芥川のどういう意図によるものなのかはともかく、横光が上海行を試みたのは芥川の「上海游記」の問答にみられる、当時における西洋と東洋の課題を考察する材料があると認識した結果であろう。この小説に描かれた〈五・三十事件〉は世界史的にも中国民衆の反帝国主義運動の絶頂と位置付けられているものである。
改造社の〈上海紀行を書け〉との依頼に対して、「私は上海のいろいろの面白さを上海ともどこともせずに、ぽっかり東洋の塵埃溜にして了つて一つさう云う不思議な都会を書いてみたいのです。」として「ぢくぢくかかつて長編にしたい」と主張するほど、帰国後すでに長編の構想が沸々として湧き上っていたと思われる。横光が「上海と名づけられた長編の題をきらっていた」という証言は、現実の上海ではなく、あくまでその上海を捨象した〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉に強く拘っていたことを示すものである。
異民族清に支配され、しかも体制が弛みかけていた中国の民衆、特に上海の民衆は領土意識を持っていなかったこと(田島英一「上海」PHP新書)など、当時の日本人の常識に反する事実が明らかになってきている。今日、このような歴史的背景を抜きにして作品「上海」を読んでみると、欲望と策謀と思想の渦巻く〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉の様態を描き切っていると言わなければならない。冒頭の章ですでに描かれているように、街には売春婦がたち、乞食があてもなくうろつき、本国では全く生活の方法がない種々雑多な人間が寄り合い、まさしく物も人も〈塵埃溜〉のように暮らしている。この〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉に放り込まれているのが参木である。もちろん、参木を取り巻く人々の群像は多彩で、参木一人に絞り込むことはできないものの、最終章で参木が幾多の遍歴を経ながらお杉の懐に転がり込むことの意味は大きい。
参木が最後まで手離さないものは人間主義的な倫理観である。アジア主義の山口やコミュニストの芳秋蘭にしても、甲谷や高重のような合理主義者にしても、参木の人間主義を引き立たせる役目を果たしている。意に反して、お杉という一人の女性を不幸に陥れることになる人間主義的な「良心」は、何もかも腐敗させていく〈東洋の塵埃溜〉の中で唯一腐敗を免れているものである。この人間主義を生み出しているのは本国の母親に対する思いである。「故郷では母親は今頃は」という形で心の片隅に絶えず揺曳している母の存在が「俺の身体は領土なんだ。この俺の身体もお杉の身体も。」という領土意識の基盤になっているのはいうまでもない。流民化し、〈塵埃溜〉に埋没していけばいくほど、領土意識、愛国意識をより先鋭化していくのは、その意識によってしか、〈塵埃溜〉の中では参木の主体性を支えることができないからである。「もうこの支那で、何か希望らしい希望か理想らしい理想を持つとしたら、それは何も持たないと云うことが、一番いいんじゃないか」という逆説はそれこそ身一つしか頼るべきものがないということを意味している。お杉の日本的〈身体〉に回帰するのは、〈身体〉こそ〈領土〉だという認識を手放さないものの当然の帰結である。「上海」は何もかも呑み込んでしまう〈塵埃溜〉の、何も希望を見いだせない状況の中でいかに行くべきかの課題を追求した小説である。「俺が生きているのは、孝行なのだ。俺の身体は親の身体だ、親の。」という認識を持ち続ける限り、みずからの意志で〈身体〉を処理することができない。そのことが脆い頼りないと評されるゆえんである。しかし、この認識を梃子に自己の「良心」を見失うことなく生きるぬく参木の姿には一つの生の原型を見ることができる。
【参考文献】
栗坪良樹編「横光利一」(『鑑賞日本現代文学14』角川書店 昭和五十六年九月)
菅野昭正「解説 さまよう《上海の日本人》」(横光利一『上海』講談社文芸文庫 一九九一年九月)
初出 「日本の近代小説」 近代文学研究編(改訂版)
協和書房 平成2005年3月15日
上海
横光利一(よこみつりいち) 一八九八(明治三十一)年三月十七日~一九四七(昭和二十二)年十二月三十日。福島県北会津郡東山村(現会津若松市東山町)の東山温泉で父横光梅次郎、母こぎくの一女一男の長男として生まれる。早稲田大学高等予科文科修了、同政治経済学部中退。大正八年に友人の紹介で菊池寛と会い、師事する。大正十三年に早大高等予科の同級で詩の仲間だった小島勗の妹キミと結婚するが、昭和元年に結核で死去。「春は馬車に乗つて」(昭和元年)は妻の療養生活とその死を描いている。大正十二年の「蠅」「日輪」などの、人間を客体化して描こうとする視点、即物的な比喩、翻訳調の文体、乾いた抒情性などによって新時代の作家として認められるようになる。大正十三年に川端康成、片岡鉄兵らと「文芸時代」を創刊。「ナポレオンと田虫」などに見られるような西欧の二十世紀前衛芸術と科学技術の発展による新しい世界観の影響を受けたモダニズム的特徴は「新感覚派」と命名される。昭和五年の「機械」(「改造」)は、何ものかに支配され歯車のように動かされて行く人間の運命を描き、昭和初期の文学史を代表する傑作の一つになる。昭和三年に中国に一ヶ月滞在、この経験を素材に書いた昭和七年『上海』(改造社)は中国現代史の激動の中の人間の集団、その運動を描いた最初の長編である。横光は旧派の自然主義的リアリズムとプロレタリア文学に対決して心理主義に進み、続いて長編『寝園』長編『紋章』などを発表する。十一年にヨーロッパ各地を旅し、その成果は『旅愁』における日本の伝統への回帰の主題となる。敗戦後は戦時下の銃後文芸運動による戦争協力によって戦争責任を問われることとなる。
A お杉は街から街を歩いて参木の家の方へ帰って来た。どこか自分を使う所がないかと、貼り紙の出ている壁を捜しながら。ふと彼女は露路の入口で売ト者を見つけると、その前で立ち停った。昨夜自分を奪ったものは、甲谷であろうか参木であろうかと、また彼女は迷い出したのだ。お杉の前で観て貰っていた支那人の娘は、壁にもたれて泣いていた。売卜者の横には、足のとれかかったテーブルの屋台の上に、豚の油が淡黄く半透明に盛っ上って縮れていた。その縮れた豚の油は、露路から流れて来る塵埃を吸いながら、遠くから伝わる荷車の響きや人の足音に、絶えずぶるぶると懐えていた。小さな子供がその背の高さを、丁度テーブルの面まで延ばしながら、じっと慄える油に鼻のさきをひっつけていつまでも眺めていた。その子の頭の上からは、剥げかかった金看板がぞろりと下り、弾丸に削られた煉瓦の柱はポスターの剥げ痕で、張子のように歪んでいた。その横は錠前屋だ。店いっぱいに拡った錆びついた錠が、蔓のように天井まで這い上り、隣家の鳥屋に下った家鴨の首と一緒になって露路の入口を包んでいる。間もなく、豚や鳥の油でぎらぎらしているその露路の入口から、阿片に青ざめた女達が眼を鈍らせながら、蹌踉と現れた。彼女達は売卜者を見ると、お杉の肩の上から重なって下のブリキの板を覗き込んだ。
ふとお杉は肩を叩かれで振り返った。すると、参木が彼女の後に立って笑っていた。お杉は一寸お辞儀をしたが耳を中心に彼女の顔がだんだんと赧くなった。
「御飯を食べに行こう。」と参木が云って歩き出した。
お杉は参木の後から黙って歩いた。もういつの間にか夜になっている街角では、湯を売る店頭の黒い壷から、ほのぼのとした湯気が鮮かに流れていた。そのとき、参木は後から肩を叩かれたので振り向くと、ロシア人の男の乞食が、彼に手を差し出して云った。
「君、一文くれ給え。どうも革命にやられてね、行く所もなければ食う所もなし、困ってるんだ。これじゃ今にのたれ死にだ。君、一文恵んでくれ給え。」
「馬車にしようか。」と参木はお杉に云った。
お杉は小さな声で頷いた。馬車屋の前では、主婦が馬の口の傍で粥の立食いをやっていた。二人は古いロココ風の馬車に乗ると、ぼってりと重く湿り出した夜の街の中を揺られていった。
参木はお杉に、自分も首になったことを話そうかと思った。しかし、それではお杉を抛り出すのと同じであった。お杉の失職の原因が彼にあるだけ、このことについては彼は黙っていなければならなかった。参木は愉快そうに見せかけながらお杉に云った。
「僕はあんたから何も聞かないが、多分首でも切られたんだろうね。」
「ええ。あなたがお帰りになってから。直ぐ後で。」
「そう。じゃ、心配することはない。僕の所には、あんたがいたいだけいるがいい。」
お杉は黙って答えなかった。参木は彼女が何を云いたそうにもじもじしているのか分らなかった。だが、彼には、彼女が何を云い出そうと、今は何の感動も受けないであろうと思った。露路の裏の方で、しきりに爆竹が鳴った。アメリカの水兵達がステッキを振り上げて車夫を叩きながら、黄包車に速力を与えていた。
馬車が道の四つ角へ来ると、暫くそこで停っていた。一方の道からは塵埃と一緒に、豚の匂いが流れて来た。その反対の方からは、春婦達がきらきらと胴を輝かせながら、揺れ出て来た。またその一方の道からは、黄包車の素足の群れが、乱れて来た。角の交通整理のスポットが展開すると、車輪や人波が、真蒼な一直線の流れとなって、どよめき出した。参木の馬車は動き出した。と、スポットは忽ち変って赤くなった。参木の行く手の磨かれた道路は、春婦の群れも車も家も、真赤な照明を浴びた血のような河となって、浮き上った。
二人は馬車から降りると人込みの中をまた歩いた。立ったまま動かない人込みは、ただ唾を吐きながら饒舌っていた。二人は旗亭の陶器の階段を昇って一室に納った。テーブルの上には煙草の大きな葉が壺にささったまま、青々と垂れていた。
「どうだ、お杉さん。あんたは日本へ帰りたいと思わんか。」
「ええ。」
「もっとも今から帰ったって、仕様がないね。」
参木は料理の来るまで、欄干にもたれて南瓜の種を噛んでいた。彼は明日から、どうして生活をするのかまだ見当さえつかないのだ。だが、そうかと云って日本へ帰ればなお更だった。どこの国でも同じように、この支那の植民地へ集っている者は、本国へ帰れば、全く生活の方法がなくなって了っていた。それ故ここでは、本国から生活を奪われた各国人の集団が寄り合いつつ、世界で類例のない独立国を造っている。だが、それぞれの人種は、余りある土貨を吸い合う本国の吸盤となって生活している。此のためここでは、一人の肉体は、いかに無為無職のものと難も、ただ漫然といることでさえ、その肉体が空間を占めている以上、ロシア人を除いては、愛国心の現れとなって活動しているのと同様であった。――参木はそれを思うと笑うのだ。事実、彼は、日本におれば、日本の食物をそれだけ減らすにちがいなかった。だが、彼が上海にいる以上、彼の肉体の占めている空間は、絶えず日本の領上となって流れているのだ。
――俺の身体は領土なんだ。此の俺の身体もお杉の身体も。――
その二人が首を切られて、さて明日からどうしたら良いのかと考えているのである。参木は自分達の周囲に流れて来ている旧ロシアの貴族のことを考えた。彼らの女は、各国人の男性の股から股をくぐって生活している。そうして男は、各国人の最下層の乞食となって。――参木は思った。
――それは彼らが悪いのだ。彼らは、自分の同胞を、男の股の下で生活させ、乞食をさせ続けて来たからだ。――と。
人は、自分の同胞の股の下で生活し、自分の同胞の中で乞食をするよりも、他国人の股の下で生活し、他国人の間で乞食をする方が楽ではないか。――それならと参木は考えた。
――あのロシア人達に、われわれは同情する必要は少しもない。――と。
しかし、参木は.お杉と自分が誰を困らせたことがあるだろうと考えた。すると、彼は、鬱勃として揺れ出して来ている支那の思想のように、急に専務が憎むべき存在となって映り出した。だが、彼は、自分の上役を憎むことが、彼自身の母国そのものを憎んでいるのと同様な結果になると云うことについては、忘れていた。然も、母国を認めずして、上海でなし得る目本人の行動は、乞食と売春婦以外にはないのであった。
B 高重の工場では、暴徒の襲った夜以来、殆ど操業は停止された。しかし、反共産派の工人達は機械を守護して動かなかった。彼らは共産派の指令が来ると、袋叩きにして川へ投げた。工場の内外では、共産派の宣伝ビラと反共派の宣伝ビラとが、風の中で闘っていた。
高重は暴徒の夜から参木の顔を見なかった。もし参木が無事なら、顔だけは見せるにちがいないと思っていた。だが、それも見せぬ。――
高重は工場の中を廻ってみた、運転を休止した機械は、昨夜一夜の南風のために錆びついていた。工人達は黙々とした機械の間で、やがて襲って来るであろう暴徒の噂のために、蒼ざめていた。彼らは列を作った機械の間へ虱のように挟まったまま、錆びを落した。機械を磨く金剛砂が湿気のために、ぼろぼろと紙から落ちた。すると、工人達は口々にその日本製のやくざなぺーパーを罵りながら、静ったベルトの掛けかえを練習した。綿は彼らの周囲で、今は始末のつかぬ吐潟物のように湿りながら、いたる所に塊っていた。
高重は階上から工場の周囲を見廻した。駆逐艦から閃めく探海灯が層雲を浮き出しながら、廻っていた。黒く続いた炭層の切れ目には、重なった起重機の群れが刺さっていた。密輸入船の破れた帆が、真黒な翼のように傾いて登っていた。と、そのとき、炭層の表面で、襤褸の群れが這いながら、滲み出るように黒々と拡がり出した。探海灯がそれら背中の上を疾走すると、濫襖の波は扁平に、べたりと炭層へへばりついた。
来た。――
高重は脊を低めて階下へ降りようとした。すると、倉庫と倉庫の間から、声を潜めて馳けている黒い一団が、発電所のガラスの中へ辷っていた。それは逞しい兇器のように、急所を狙って進行している恐るべき一団にちがいないのだ。
高重はそれらの一団の背後に、芳秋蘭の潜んでいることを、頭に描いた。彼は彼らの計画の裏へ廻って出没したい欲望を感じて来た。彼らは何を欲しているのか。ただ今は、工場を占領したいだけなのだ。――
高重は電鈴のボタンを押した。すると、見渡す全工場は、真暗になった。喚声が内外二ヵ所の門の傍から、湧き起った。石炭が工場を狙って、飛び始めた。探海灯の光鋩が廻って来ると、塀を攀じ登っている群衆の背中が、蟻のように浮き上った。
高重は彼らを工場内に導き入れることの、寧ろ得策であることを考えた。這入れば袋の鼠と同様である。外から逆に彼らを閉塞すれば、それで良いのだ。もし彼らが機械を破壊するなら、損失はやがて彼らの上にも廻るだろう。――彼は階段を降りていった。すると、早や場内へ雪崩れて来た一団の先端は、機械を守る一団と、衝突を始めていた。
彼らは叫びながら、胸を垣のように連ねて機械の間を押して来た。場内の工人達は、押され出した。印度人の警官隊は、銃の台尻を振り上げて、押し返した。格闘の群れが、連った機械を侵食しながら、奥へ奥へと進んでいった。と、予備品室の錠前が引きち切られた。場外の一団は、その中へ殺到すると、棍棒形のピッキングステッキを奪い取った。彼らは再びその中から溢れ出すと、手に手に、その鉄の棍棒を振り上げて新しく襲って来た。
彼らは精紡機の上から、格闘する人の頭の上へ、飛び降りた。木管が、なげつけられる人の中を、飛び廻った。ハンク・メーターのガラスの破片が、飛散しながら、裸体の肉塊へつき刺さった。打ち合うラップボードの音響と叫喚に攻め寄せられて、次第に反共産派の工人達は崩れて来た。
高重は電話室へ馳け込むと、工部局の警官隊へ今一隊の増員を要求した。彼は引き返すと、急に消えていた工場内の電灯が明るくなった。瞬間、混乱した群衆は、停止した。と、再び、怒濤のような喚声が、張り上った。高重は、まだ侵入されぬローラの櫓を楯にとると、頭の上で唸る礫を防ぎながら、叫び出した。
「警官隊だ。ふん張れ、機関銃だ。」
しかし、それと同時に、周囲の窓ガラスが爆音を立てて崩壊した。と、その黒々とした巨大な穴の中から、一団の新しい群衆が、泡のように噴き上った。彼らは見る間に機械の上へ飛び上がると、礫や石灰を機械の間へ投げ込んだ。それに続いて、彼らの後から陸続として飛び上がる群衆は、間もなく機械の上で盛り上った。彼らは破壊する目的物がなくなると、社員目がけて雪崩れて来た。
反共派の工人達はこの団々と膨脹して来る群衆の勢力に、巻き込まれた。彼らは群衆と一つになると、新らしく群衆の勢力に変りながら、逆に××社員を襲い出した。××社員は、今はいかなる抵抗も無駄であった。彼らは印度人の警官隊と一団になりながら、群衆に追いつめられて庭へ出た。すると、行手の西方の門から、また一団の工人の群れが、襲って来た。彼らの押し詰った団塊の肩は、見る間に塀を突き崩した。と、その倒れた塀の背後から、兇器を振り上げた新しい群衆が、忽然として現れた。彼らの怒った口は、鬨の声を張り上げると、××社員に向って肉迫した。腹背に敵を受けた社員達は、最早や動くことが出来なかった。高重は仲間と共に××××を群衆に差し向けた。
――今は最後だ。
彼の引金にかかった理性の際限が、群衆と一緒に、バネのように伸縮した。と、その先端へ、乱れた蓬髪の海が、速力を加えて殺到した。同時に、印度人の警官隊から銃が鳴った。続いて高重達の一団から××××が、――群衆の先端の一角から、叫びが上った。すると、その一部は翼を折られたように、へたばった。彼等は引き返そうとした。と、後方の押し出す群れと、衝突した。彼らは円弧を描いた二つの黒い潮流となって、高重の眼前で動乱した。方向を失った背中の波と顔の波とが、廻り始めた。逃げる頭が塊った胴の中へ、潜り込んだ。倒れた塀に躓いて人が倒れると、その上に盛り上って倒れた人垣が、暫く流動する人波の中で、黒々と停って動かなかった。
C 参木はお杉が習い覚えた春婦の習慣を、自分に押し隠そうと努めているのを見ると、それに対して、客のようになり下ろうとした自分の心のいまわしさに胸が冷めた。しかし、あんなにも自分を愛してくれたお杉、その結果がこんなにも深く泥の中へ落ち込んでしまったお杉、そのお杉に暗がりの中で今逢って、ひと思いに強く抱きかかえてやることも出来ないということは、何という良心のいたずらであろう。前にはお杉を、もしや春婦に落すようなことがあってはならぬと思って抱くこともひかえていたのに、それに今度はお杉が春婦に落ってしまっていることのために、抱きかかえてやることも出来ぬとは。――
「お杉さん、マッチはないか。一ぺんお杉さんの顔が見たいものだね。良かろう。」
「いや。」とお杉は.云った。
「しかし、長い間別れていたんじゃないか。こんなに顔も見ずに暗がりの中で饒舌っていたんじゃ、まるで幽霊と話しているみたいで気味が悪いよ。」
「だって、あたし、こんなになってしまっているとこ、あなたに今頃見られるのいやだわ。」
勿論そうであろうとは分っていたが、そんなに直接お杉から口に出して云われると、参木はきびしく胸の締って来るのを感じた。
「いいじゃないか、あんたと別れた夜は、あれは僕も銀行を首になるし、君もお柳のとこを切られた日だったが、男はともかく女は首になっちゃ、どうしようもないからね。」
しかし、参木はそんなにお杉に優しげな言葉を云いながらも、ともすると、まだ物欲しげにごそごそお杉の方へ動きたがる自身の身体を感じると、もうひと思いにお杉を暗の中に葬って、このまま眠ってしまおうと努力した。
「参木さん、あなたお柳さんにお逢いになって。」
「いや、逢わない。あの夜あんたのことで喧嘩してから一度もだ。」
「そう。あの夜はお神さん、それやあたしにひどいことを云ったのよ。」
「どんなことだ?」
「いやだわ、あんなこと。」
嫉妬にのぼせたお柳のことなら、定めて口にも云えないことを云ったのであろうと参木は思った。あのときは、風呂場ヘマッサージに来たお柳をつかまえて、戯れにお杉を愛していることを、自分はほのめかしてやったのだった。すると、お柳はお杉を引き摺り出して来て自分の足もとへぶつけたのだ。それから、自分はお杉に代ってお柳に詫びた。すると、ますますお柳は怒ってお杉の首を切ったのだ。ああ、しかし総てがみんな戯れからだと参木は思った。それに自分はお杉のことは忘れてしまって、いつの間にか尽く秋蘭に心を奪われてしまっていたのである。しかし、今は彼は、だんだんお杉が身内の中で前のように暖まって来るのを感じると心も自然に軽く踊って来た。
「お杉さん、もう僕は眠ってしまうよ。今日は疲れてもうものも云えないからね。その代り、明日からこのまま居候をさせて貰うかもしれないが、いいかねあんたは?」
「ええ、お好なまでここにいてね。その代り、汚いことは汚いわ。明日になって明るくなればみんな分ることだけど。」
「汚いのは僕はちっともかまわないんだが、もうここから動くのは、だんだんいやになって来た。迷惑なら迷惑だと今の中に云ってくれたまえ。」
「いいえ、あたしはちっともかまわないわ。だけど、ここは参木さんなんか、いらっしゃれるところじゃないのよ。」
参木は自分のお杉に云ったことが、直ぐそのまま明日から事実になるものとは思わなかった。だが、事実になればなったで、もうそれもかまわないと思うと、彼は云った。
「しかし、一人でいるより、今頃こんな露路みたいな中じゃ、二人でいる方が気丈夫だろう。それとも、お杉さんが僕の家へ来ているか、どっちにしたってかまわないぜ。」
参木は何とお杉が返事をするであろうと思って待っていると、彼女は黙ったまま、またしくしく暗がりの中で泣き始めた。参木はお杉がお柳の家で初めてそのように泣いたときも、いま自分が云ったと同様な言葉を云ってお杉を慰めたのを思い出した。しかも、自分の言葉を信じていく度に、お杉はだんだん不幸に落ち込んでいったのだ。
しかし、彼がお杉を救う手段としては、あのときも、その言葉以外にはないのであった。生活の出来なくなった女を生活の出来るまで家においてやることが悪いのなら、それなら自分は何をして良いのであろう。ただ一つ自分の悪かったのは、お杉を抱きかかえてやらなかったことだけだ。だが、それはたしかに、悪事のうちでも一番悪いことにちがいなかったと参木は思った。
抱くということ、――それは全くどんなに悪かろうとも、お杉にとっては抱かぬよりは良いことだったのだ。それにしても、まアお杉を抱くようになるまでには、自分はどれだけ沢山なことを考えたであろう。
しかも、それら数々の考えは、尽く、どうすればお杉を、まだこれ以上虐め続けていかれるであろうかと考えていたのと、どこ一つ違ったところはないのであった。
「お杉さん、こちらへ来なさい。あんたはもう何も考えちゃ駄目だ。考えずにここへ来なさい。」
参木はお杉の方へ手を延ばした。すると、お杉の身体は、ぽってりと重々しく彼の両手の上へ倒れて来た。
解 説 「上海」は、横光利一とって初めての連載小説であり、初めての長編小説である。昭和三年十一月から昭和六年十一月まで断続的ながら七回にわたって『改造』に発表された。昭和七年七月改造社から単行本として発行された後、かなりの改稿がなされ、昭和十年三月、書物展望社より決定版が再刊された。
東洋随一の国際都市で十年間を過ごしている参木は銀行の専務の不正行為を隠す仕事をしている。しかも、死に魅入られ、日に一度は死ぬ方法を考えている。参木の友人である甲谷はシンガポールの材木会社に勤務し、将来は為替仲買人となることを夢みている。お杉は参木のちょっとした戯れから勤めていたトルコ風呂を首にされて、上海の巷に放り出されてしまう。参木もまた、専務にたてつき、ついに辞職して巷の人となる。職を失って拠るところを失った男は乞食に、女は売春婦になるよりほかない〔A〕。甲谷は意中の人である宮子のいるダンスホールで、アジア主義者の山口から「死人拾い」という奇妙な商売に心動かされる。また、そのダンスホールに出入りしている共産党の女性闘士、芳秋蘭の美貌にうたれる。お杉の前から姿をくらました参木は山口から預けられた亡命ロシア人女性オルガを持てあます。その後、参木は甲谷の兄高重に救われ、刻一刻と変化する国際綿花市場の仕事に再就職する。東洋紡績会社に勤める高重は夜業の見回りの途中、労働者を組織し、ストライキの機運を盛り上げている芳秋蘭の存在を参木に教える。ついに暴動による破壊が始まり、その激化のなかで傷つきかけた芳秋蘭を助ける。部屋まで送り届けた参木は芳秋蘭の論理と弁舌に圧倒され、かすかな恋の芽生えを感じる。革命の都市化しつつあるなか、ストライキの群れに向かって発砲された高重の銃弾が一人の死者をだすと、対日運動は全市に拡大する〔B〕。そして数万に膨れ上がった反帝運動の群集に英国官憲の銃弾が浴びせられて、動乱は最高潮に達する。ついに、甲谷は山口の居候の身となり、参木も今は、乞食同然となる。参木は荒廃した上海を彷徨するうちに、売春婦となったお杉の許に辿り着き、お杉を闇の中で初めて抱き寄せる〔C〕。
横光が上海に渡ったのは芥川龍之介の勧めによる。後に芥川の死を受けて、自らその系譜の一翼を担おうとする横光にとって、芥川による上海への勧めというのは「上海」という作品を考察する上で無視できない。この勧めが芥川のどういう意図によるものなのかはともかく、横光が上海行を試みたのは芥川の「上海游記」の問答にみられる、当時における西洋と東洋の課題を考察する材料があると認識した結果であろう。この小説に描かれた〈五・三十事件〉は世界史的にも中国民衆の反帝国主義運動の絶頂と位置付けられているものである。
改造社の〈上海紀行を書け〉との依頼に対して、「私は上海のいろいろの面白さを上海ともどこともせずに、ぽっかり東洋の塵埃溜にして了つて一つさう云う不思議な都会を書いてみたいのです。」として「ぢくぢくかかつて長編にしたい」と主張するほど、帰国後すでに長編の構想が沸々として湧き上っていたと思われる。横光が「上海と名づけられた長編の題をきらっていた」という証言は、現実の上海ではなく、あくまでその上海を捨象した〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉に強く拘っていたことを示すものである。
異民族清に支配され、しかも体制が弛みかけていた中国の民衆、特に上海の民衆は領土意識を持っていなかったこと(田島英一「上海」PHP新書)など、当時の日本人の常識に反する事実が明らかになってきている。今日、このような歴史的背景を抜きにして作品「上海」を読んでみると、欲望と策謀と思想の渦巻く〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉の様態を描き切っていると言わなければならない。冒頭の章ですでに描かれているように、街には売春婦がたち、乞食があてもなくうろつき、本国では全く生活の方法がない種々雑多な人間が寄り合い、まさしく物も人も〈塵埃溜〉のように暮らしている。この〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉に放り込まれているのが参木である。もちろん、参木を取り巻く人々の群像は多彩で、参木一人に絞り込むことはできないものの、最終章で参木が幾多の遍歴を経ながらお杉の懐に転がり込むことの意味は大きい。
参木が最後まで手離さないものは人間主義的な倫理観である。アジア主義の山口やコミュニストの芳秋蘭にしても、甲谷や高重のような合理主義者にしても、参木の人間主義を引き立たせる役目を果たしている。意に反して、お杉という一人の女性を不幸に陥れることになる人間主義的な「良心」は、何もかも腐敗させていく〈東洋の塵埃溜〉の中で唯一腐敗を免れているものである。この人間主義を生み出しているのは本国の母親に対する思いである。「故郷では母親は今頃は」という形で心の片隅に絶えず揺曳している母の存在が「俺の身体は領土なんだ。この俺の身体もお杉の身体も。」という領土意識の基盤になっているのはいうまでもない。流民化し、〈塵埃溜〉に埋没していけばいくほど、領土意識、愛国意識をより先鋭化していくのは、その意識によってしか、〈塵埃溜〉の中では参木の主体性を支えることができないからである。「もうこの支那で、何か希望らしい希望か理想らしい理想を持つとしたら、それは何も持たないと云うことが、一番いいんじゃないか」という逆説はそれこそ身一つしか頼るべきものがないということを意味している。お杉の日本的〈身体〉に回帰するのは、〈身体〉こそ〈領土〉だという認識を手放さないものの当然の帰結である。「上海」は何もかも呑み込んでしまう〈塵埃溜〉の、何も希望を見いだせない状況の中でいかに行くべきかの課題を追求した小説である。「俺が生きているのは、孝行なのだ。俺の身体は親の身体だ、親の。」という認識を持ち続ける限り、みずからの意志で〈身体〉を処理することができない。そのことが脆い頼りないと評されるゆえんである。しかし、この認識を梃子に自己の「良心」を見失うことなく生きるぬく参木の姿には一つの生の原型を見ることができる。
【参考文献】
栗坪良樹編「横光利一」(『鑑賞日本現代文学14』角川書店 昭和五十六年九月)
菅野昭正「解説 さまよう《上海の日本人》」(横光利一『上海』講談社文芸文庫 一九九一年九月)
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