【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

三島由紀夫における〈老い〉の問題

2014年05月09日 11時53分38秒 | 論文

三島由紀夫における〈老い〉の問題

初出 「方位」17号 三章文庫 1994・9

   初めに
 三島由紀夫(大正十四年~昭和四十五年)の場合、今もなお生きていて、老大家として文壇に声名をほしいままにしている姿を想像できるだろうか。このような想像は繰り返しようのない歴史において禁物であるが、ここで三島についてこう問うてみたい誘惑に駆られるのは私だけであろうか。三島には老大家として名をはせる条件は十分に整っていたといえる。生前の三島はすでに世界の作家として知名度は高く、ノーベル賞候補にも川端康成、井上靖とともに再三推挙されていた。
 しかし、三島由紀夫は自らの生涯を四十五歳で終止符を打っている。これは動かしようのない厳然とした事実である。そのことをどう考えたらよいのだろうか。昭和四十二年一月元旦の「年頭の迷い」と題する『読売新聞』の文章のなかで「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋晴堅が、私と同年で死んだという発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合う」と述べていることから、三島の脳裏では四十代前半という年齢もまんざら捨てられたものではなく、《英雄》としての死を可能ならしめる、まさしく「英雄たる最終年齢」と意識されていたようである。つまり、三島は、衰弱死とか病死とかいった一般的で、しかも自然的な終焉を拒否し、四十五歳という「英雄たる最終年齢」で自決して果てたのである。
 従って、このような事情から言えば、「三島由紀夫のような作家には、いくつかの傑作をものにし、功成り名遂げて、今や筆を捨て悠々自適の老後を送るといったことは考えられないであろう」(「三島由紀夫論」『特集三島由紀夫』・ユリイカ十月号) という岸田秀氏の指摘を待つまでもなく、老大家としての三島はこの世に存在しえず、想像してみることすら無意味であるといえまいか。三島自身、「一体、作家の精神的発展などというものがあるかどうか、私は疑っている」(「一八歳と三十四歳の肖像画」の冒頭) と述べていることも、〈老い〉になんらの意味も見出だせない彼の、作家としての至極当然な言葉であろう。そこに、〈老い〉を拒否した三島由紀夫の作家像を想定してみるのも悪くない。
   一 〈老い〉について
   老いが同時に作家的主題の衰滅を意味する作家はいたましい。肉体的な老いが、彼の思想と感性のすべてに逆らうような作家はいたましい。
 この文章は、谷崎潤一郎について書かれた作家論(「谷崎潤一郎」「日本文学全集」一二・昭四一・一〇)である。〈老い〉と〈作家〉との関係を究明したこの作家論は、三島が一流の批評家であったことを余すことなく示しているが、それ以上に三島の〈老い〉に対する思想を谷崎の文学を通して披歴している点で注目に値する。それは、年齢と能力との関係において、両者が「衰滅」という言葉で言い表されているように下降していくものであると捉えている点である。芸術が年齢とともに成熟、ないし醸成するものであるという一般的な考え方と照らし合わせてみても、彼のこの認識の特異性は明らかであろう。
 この文章のすぐ後に続いて、「(私は自分のことを考えるとゾッとする)」と書いていることからも窺えるように、この文章が、この文章を書いた時の四十一歳という年齢を考慮に入れながら本音で語っているものであることはまちがいなく、この時点での三島が作家としての〈老い〉の問題を真正面から考えようとしていたことを証拠だてるものである。
   二 二つの作家像
   しぶとく生き永らえるものは、私にとって、俗悪さの象徴をなしていた。私は夭折に憧れていたが、なお生きており、この上生きつづけなければならぬことも予感していた。
 この文章は、「林房雄」(『新潮』昭三八・二) という作家論の中の一節である。この作家論もまた、「谷崎潤一郎」論と並んで〈老い〉に関する記述が多く見られる。それは、この二人の作家が「しぶとく生き永らえるもの」の〈象徴〉として存在しているという、まさしくその長生きの秘訣を文学の上からも知って置きたい気持ちがあったからであろう。
 このように、両者の作家論に共通するのは、三島が〈老い〉を「俗悪さの象徴」とみなし、〈老い〉に対する異常なまでの生理的とも言うべき嫌悪をあらわにしていることである。それと同時に、〈老い〉を否定する三島が〈夭折〉への憧憬に触れていることも注意すべきである。つまり、三島由紀夫の中では〈老い〉への嫌悪と〈夭折〉とは表裏一体のものとして把握されているのである。
 三島由紀夫の〈夭折〉への願望についてはしばしば言及されているが、特に磯田光一は評論家としてのデビューを飾った『殉教の美学』(昭39・2) のなかで、三島の〈夭折〉の哲学を明らかにしている。そこで、磯田が〈夭折〉の三島文学における意味を「三島の不幸は、そして彼の本質的な悲劇は、『生』と『死』とを意味づける原理の崩壊によって、つまり、彼から『美しい夭折』の可能性をうばった『敗戦』によってもたらされたのである。そして、彼を作家たらしめたものも、この『不幸』以外の何ものでもなかった」と述べ、美しい〈夭折〉への挫折と、その不幸が三島の作品のモチーフとなっていることを指摘している。これまでの多くの論考も、三島が〈夭折〉への願望を一貫して持ち続けているかのように述べている。
 しかし、次のような文章(『私の遍歴時代』)に接すると、三島が〈夭折〉への願望を一貫して持ち続けていたとは言いがたい。
  早くも、若さとか青春とかいうものはばかばかしいものだ、と考えだしている。それなら「老い」がたのしみか、と言えば、これもいただけない。
 〈夭折〉願望はそもそも「若さ」や「青春」という時代の真っ只中にいて、それ以外の人生を知らない無知からくるものであって、この文章を書いた三十八という歳の三島は自分の青春時代がようやく遠ざかってみえてきていたはずである。そして、思い返せば、三十歳を越えてから鍛え始めた肉体はいや応なく頑強になっていったであろうから、同じ頃『林房雄』論の中で述べているように「なお、生きており、この上生きつづけなければならぬ」ということを当然意識しなければならない。
  私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべきときが来た。芥川 龍之介より長生きをしたと思えば、いい気持ちだが、もうこうなったら、しゃにむに長生きをしなければならない。(中略)人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は 絶望的で、どんな死に方をしたって醜悪なだけである。それなら、もうしゃにむに生きるほかない。
 従って、この「純文学とは? その他」(『風景』六月号・昭37) という文章もまた、三十七歳の時に執筆されていることから、「もうしゃにむに生きるほかない」生を前に立ち尽して、人生上の選択を余儀なくされている三島由紀夫の姿が浮かび上がっており、この時期が彼にとって〈老い〉を迎えるべきか否かを決定しなければならない人生の《迷いの時代》であったといえる。
 人生の選択を強いられた《迷いの時代》の三島由紀夫の脳裏には、日本のさまざまな作家像の中からは次の二つのタイプをくっきりと浮かび上がらせていたにちがいない。
 一つは「しぶとく生き永らえ」ながら、文学的な成熟をなしえた〈長寿〉型の作家、例えば、谷崎潤一郎のような作家である。
 もう一つは、短命であるがゆえに文学史上に光茫を放った〈夭折〉型の作家、立原道造ような作家である。〈夭折〉には、病死、不慮の死、あるいは自殺の類いがあることを付加して置きたい。
    〇 〈長寿〉型の作家=谷崎潤一郎
 野口武彦氏がすでに「当人は四五歳で自殺するくせに、七九歳まで長生きして『変態小説』を書き続けた谷崎のことがよくわかっていたのだ。というより、作者をその年齢まで長生きさせた谷崎文学の本質に、心のどこかでは羨望の気持ちさえ持っていたのかもしれない」(「谷崎潤一郎」『近代小説の読み方?』有斐閣・一九七九・八)と述べているが、これは、三島の「谷崎潤一郎」論の次のような文章を踏まえての言葉であろう。
  谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかった。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があったと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であった。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。
 野口氏が指摘したように、三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいた。それは谷崎の〈長寿〉が「老い=死=ニルヴァナ」という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いていることである。それほど彼にとって谷崎は〈長寿〉的な作家の典型的な存在だったと言えるだろう。
 また別の機会に書いた「私のきらいな人」(「話の特集」七月号・昭41) という文章では、
  私の来たるべき老年の姿を考えると、谷崎潤一郎型と永井荷風型のうち、どうも後者に傾きそうに思われる。(中略)しかし、私は荷風型に徹するだけの心根もないから、精神としては荷風型に近く、生活の外見は谷崎型に近いという折衷型になることだろう。
と述べている。この文章で大切なことは、三島が〈老い〉を迎えるとしたら、谷崎潤一郎の名前を挙げていることである。つまり、三島由紀夫は一時期にしろ、芸術的成熟にあこがれを持ち、谷崎等の〈長寿〉型の生活を心に描きながら、〈老い〉というものを仮想したこともあったのだということを提起して置きたい。
    〇 〈夭折〉型の作家=立原道造
 ここで立原道造を例として取り上げるのは、三島が自決する数ヶ月前、岸田今日子氏に「詩人として生涯を終わるためには、立原道造のように夭折しなくては………」と語ったとされているからである。三島由紀夫がこのようなことを吐露した背後には、三好達治が立原を追悼して作った「暮春嘆息」という次の詩を思い浮かべていたにちがいない。
  人が 詩人として生涯ををはるためには
  君のやうに聡明に清純に
  純潔に生きなければならなかつた
  さうして君のやうにまた
  早く死ななければ!
 三島が語ったという言葉とこの詩の冒頭の一行とは驚くほど似通っている。というより、三島のあの割腹自殺がまさしくこの詩句の内実に添うかたちで実行されたと言ったらよいだろうか。三好の詩を参考にして言えば、特に「聡明に」「清純に」「純潔に」という言葉が表象している〈純粋性〉に魅かれていたのかもしれない。三島の自決を先取りしたとされる『奔馬』という作品のなかで、拘置されている主人公飯沼勲に対して刑事がいさめる場面があるが、勲はそこであまりにも「純粋すぎる」と評されている。三島由紀夫もまた、勲と同じく、〈純粋さ〉への篤い忠誠心と言えば言える性格の持ち主であったことは疑いのないところである。
  三 三島由紀夫の選択
 三島由紀夫は遅かれ早かれ選ばなければない人生の岐路に立たされて、二つの作家像の一方を強引に選んだ。それはもちろん、立原のような〈夭折〉型の作家であり、しかも実際は芥川龍之介のように自殺という形である。自己の〈純粋性〉保持という形での死を選んだのは、三島が「谷崎氏は、芥川の敗北を見て、持ち前のマゾヒストの自信を以て、『俺ならもっとずっとずっとうまく敗北して、そうして長生きしてやる』と呟いたにちがいない」(「谷崎潤一郎」昭29・9)と述べているように、〈長寿〉型の作家のずるさを見通しているからであり、端的に言えばそれが我慢ならかったからである。ただ、三島にとって四十代での死は〈夭折〉とは言いがたく、むしろ《英雄としての死》として〈老い〉に対処したと言えるだろう。
 このように、三島の作家論を中心とした読み取りでは、三島由紀夫が〈純粋さ〉への憧れから〈夭折〉型の作家を選び、〈老い〉のずるさを拒否したのは明らかである。しかし、単にそれだけの説明で事足れりとすることができるだろうか。この〈老い〉の問題は、彼にとってもっと本質的なものを抱えているような気がする。
   三 《老醜》について
  美しい人は夭折すべきであり、客観的に見て、美しいのは若年に限られているのだから、人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである。 
                   「アポロの杯」
 三島由紀夫は〈老い〉が人間的成熟をもたらす面を無視して、ひとえに《老醜》と一体化されたものとみなしている。ここでもまた、三島自身のちに『二・二六事件と私』で語っている「老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい」という「生来の癒しがたい観念」を吐露しているのである。
 従って、三島由紀夫にあっては、〈夭折〉への願望は〈老い〉への嫌悪によって導き出されており、〈老い〉への拒否は《老醜》への嫌悪と深く結び付いているということである。
    〇 祖母夏子の存在
 三島由紀夫のこの《老醜》に対する嫌悪感の根は、その経歴によれば、乳幼児期を「病気と老いの匂ひのむせかへる」(『仮面の告白』) 中で過ごすことになる、「誰が見ても異常としか言いようのない環境であった」(岸田秀・前掲書)祖母の存在にある。父平岡梓氏の「倅・三島由紀夫」の中に描かれている祖母夏子は、《老醜》そのものの権化とも言うべき老婆の姿である。
  …‥かくて生まれ落ちるとすぐ産みの親 の私と別れて、絶えず痛みを訴える病床の祖母のそばで成長するという、こんな異常な生活が何年も続くことになりました。私はこれで公威の暗い一生の運命はきまってしまったと思いました。
  ‥‥遊び相手としては男の子は危ないといって、母[祖母]の部屋には、母[祖母]があらかじめ銓衡しておいた三人の年上の女の子を呼びました。/したがって遊びは おのずからママゴトや折紙や積み木などに限定され、それ以外の男の子らしい遊びなど以ての外でありました。
  ‥‥外は明るいのに家の中は暗くしめっぽいので、少し外気を吸わせ陽の光にあててやろうとこっそり連れ出そうとしますと、母[祖母]はとたんに目をさまし、禁足されて、またもとの障子を締め切った暗い陰気な母[祖母]の病床の間に連れ戻されてしまいました。
 この祖母の幼い三島に対する行為は老人特有のエゴイスティックな心情によるものであり、結局老人の孤独性に帰せられるべきものであって、まったく同情できないことはない。しかし、年端も行かない三島を独占し、恣意的に支配した事実は彼が抵抗しえない子どもであったがためにあまりに悲惨すぎはしないか。父梓氏に限らず、「公威の暗い一生の運命はきまってしまった」と思うのはこれまた当然である。
 いずれにしても、その当時の三島は、あまりにも自己中心的で支配欲の強い祖母の枕許でじっと耐えながら、《老醜》の悲惨なさまをしっかと見据えていたにちがいない。この体験は幼児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、「人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである」という認識を育て上げた。
   終わりに
 三島由紀夫の自死が反時代的で、しかも日本刀による矯激な割腹自殺であったことから、内外をはじめ各方面に甚大な反響を呼び起こした。時の首相佐藤栄作が「盾の会」の国粋的活動に好意を持っていたにもかかわらず、「気が狂ったとしか思われない」と発言したことは、当時の一般大衆の反応を代弁してみせたといっても過言ではない。しかし、三島の血みどろな自裁への直接行動の経過がその後次第に明らかにされるに従って、例えば、その当日、市谷駐屯地の東部方面総監室の屋上で自衛隊員に決起を呼びかけたとき、現代文明の利器たるハンド・マイクを持っていなかったことが失笑の対象にもなったが、それこそが現代文明に対するアンチ・テーゼを投げかけているのだということが了解されて、実は一連の行動は用意周到に考え抜かれたものであることがわかってきた。
 三島由紀夫の自決がそれ自身の思想と不可分のものであり、またその帰結であったことは今や疑うべくもない。作家の自殺というものが芥川の例を引くまでもなく、往々にして文学的営為の行き詰まりによる窮死に求められるが、三島の場合はむしろ〈老い〉の思想をふくめた思想の完結、つまり萩原朔太郎が芥川に対して言った言葉よろしく「実に彼は、死によってその『芸術』を完成し、合わせて彼の中の『詩人』を実証した」(「芥川龍之介の死」)といえるものではなかったか。
 従って、三島由紀夫の意識的になされた自死が文学者における〈思想〉と〈行為〉の課題を投げ掛けていることを指摘して置きたい。
註一 拙論「三島由紀夫と〈熊本〉」(『熊本の文学 第三』審美社・平5)参照。ここでは、三島由紀夫がその自決の規範として神風連を想定して いることに触れている。
註二 小島千加子氏が元「新潮」の編集者として回想した文章(「毎日新聞」平1・7・12) のなかで、「初対面の日、人間の美しさに話題が及び、先代菊五郎未亡人が六十を過ぎても男に惚れられるほど美しく、男に限らず、女でも、名妓であったような人はある種の老いの美が出てくるものだ、(中略)と語った。「美は、美であることによってすでに一徳を成す」という定見を持つこの作家は、その時まだ、老いの美を許容する若さの真只中にいた」と述べている。〈老いの美〉にしろ、〈老い〉による芸術的成熟にしろ、若き日の三島はまだ〈老い〉にある種の幻想を抱いていたことは確かである。
註三 三島由紀夫の遺書とも言うべき『豊饒の海』第四巻の最終巻「天人五衰」の結末部分において、輪廻転生の認識者として《老醜》を曝した本多繁邦の前に、綾倉聡子が「老いが衰えの方向でなく、浄化の方向へ一途に走っ」た美しさで現れる。これは、今となっては三島の〈老い〉に対する悲痛な願望ではなかったかと思わずにはおられない。
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