『蘭陵王』論
-三島由紀夫の最後の短編小説-
初出 「方位」13号 三章文庫 1990.8
初めに
昭和四十四年十一月に『群像』紙上に発表された「蘭陵王」は、翌々年五月に刊行された短編小説集『蘭陵王』の題名を飾ることになった作品である。三島由紀夫の自決よりほぼ一年前に書かれた最後の短編小説である。このことから、<死>への予兆を示した作品として注目されている。
夥しい数にのぼる創作活動のうちで百五十編に垂んとする短編小説を書き残している三島は、特に「その巧みな造形力とあいまって,極めて短編小説的なもの」(田中美代子氏)と評されるように短編小説の名手であると言うことができる。
それほど多くない「蘭陵王」評の中でとりわけ印象に残る文章はどれも、その特異の<文体>の魅力に触れている。例えば、安岡章太郎は『毎日新聞』(昭44・10・31) の「文芸時評」(この小説の論評では最初のものであるとともに、この小説そのものを論じたものでは唯一のものである)の中で、「蘭陵王」など耳にしたがないのにそれが記憶に残る不思議さを挙げて、「たしかにこれは小説であり、おそらく見事な出来映えなのである」と評価している。また同様に、三好行雄氏は「金閣寺」を論じる過程で、「蘭陵王」の文体に触れて、「ことばはすべての属性を剥離されて、意味のない意味にまで純化し、文体は音楽的で、透明で、たえず流れつづけ、感動や情念の沈澱をこばみつづける。ものが実体として存在しない、いはばものを影によって表象する純粋表現の世界、とでも呼べばよいのであろうか」と指摘している。両者に共通して言えることは、横笛の名手であるSが名曲だとされる<蘭陵王>を吹く場面の描写力のすばらしさに言及していることである。実際に「蘭陵王」を手にしてみても、初期の作品に辟易させられた修飾過多の文体はみられず、虚飾を剥ぎとった簡素な描写に終始していて、安岡の言うようにリアリティにあふれている。それを三好行雄氏の言うように<純粋表現>の極致を示していると言えばいえる。このようなことが可能になった背景には、「私はだんだんと小説のさりげない文体、さらには、精力的な雑駁さにあふれた文体というものが好きになった」(「裸体と衣装」) という文体に対する好悪の推移によって、あたかも三十歳代から始めた肉体改造の試みのように文体変革の努力を経て、ついに「すでに私は私の文体を私の筋肉にふさわしいものにしていたが、それによって文体は撓やかに自在になり、脂肪に類する装飾は剥ぎ取られ、すなわち現代文明の裡では無用であっても、威信と美観のためには依然として必要な、そうような装飾は丹念に維持されていた」(「太陽と鉄」)という強い自負を有するに至った事情が裏書きされているとみてよい。すなわち、読むものの目を捉えてやまない「蘭陵王」の文体は、三島が自分の文体をかなり<自在>に使いこなせるまでに上達し、自分なりの文体を確立していることの証左になっている訳である。その意味では、この小説の文体が一年後に生涯を終える三島において一つの頂点を示していたと言える。
そのことと関連して言えることは、「三島由紀夫語彙辞典」の類いに取り上げられている<仮面><集団><中世><能>等々、その他に本論を考察中に浮かび上がってきた<みやび><政治><行動><制服><肉体>等々の三島のキーワードとされる言葉が数多く拾い出せることからも、わずか二十数枚にすぎない短編小説ながら、三島由紀夫文学の一つの集大成的な作品であると言えなくもない。思うに、多作な三島がこの小説以後一編の短編小説も書かなった事実からしても、「蘭陵王」で短編小説におけるモチーフをすべて出し尽くしたという感を持ったのではなかろうか。
「蘭陵王」の謎
一 構成について
「蘭陵王」は形式段落的に見れば5つの部分に厳然と区切られている。しかも、舞台となる場面では昼の演習の模様と夜の憩いの情景との二つに明確に分割することができる。つまり、簡素でしっかりしたこの作家ならではの構成意識が窺える。従って、5つの部分は次のように説明できないだろうか。一と五の部分は両方の箇所に出てくる<蛇>の記述等によって首尾結構が整えられていて、前者は話題の提出の場面であたり、後者は話題終息の場面にあたると考えれば、一の部分は<起>の章であり、五の部分は<結>の章である。そして、二の部分は一の場面で描かれた演習の疲れを癒すというかたちで引き継がれて、三・四での<蘭陵王>=横笛の音色という中心場面に橋渡しする役目を持った部分、すなわち、<承>の章である。また、激しい戦闘訓練と風流な横笛との取り合わせにいささか唐突な感さえ与えることになる三と四の部分はさしずめ<転>の章にあたるだろう。この章は博識と描写力という作者の手腕がともに問われたところである。
このように考えるならば、この小説の主題を追究するに当たって重要だと思われるのは、<結>の章に相当する五の部分である。この章の重要性は、作者自身がみずから小説作法について語った有名なエッセイ「私の小説の方法」の中で「私にとっては、小説の腹案がうかんだとき、短編では最後の場面、長編では最も重要な場面のイメージがはっきりうかぶまで、待つことが大切である。そしてそのイメージが、ただの場面としてではなく、はっきりした強力な意味を帯びて来ることが必要なのだ。(中略)そこで主題が決定されて来るのだ」(黒点・筆者) と述べているところからでも理解できる。従って、結尾の「しばらくしてSは卒然と私に、もしあなたの考える敵と自分の考える敵とが違っているとわかったら、そのときは戦わない、と言った」という一文には作者の或るはっきりした強力な意味=<主題>がこめられているはずである。このことは「蘭陵王」を考察する上で強調してもしたりないほどである。
従って、この論文では、結尾の一文が意味するものが何かをさぐることによって、この短編小説「蘭陵王」の主題を考えてみたい。また、その過程で浮かび上がってきた諸々の事項も合わせて論じようと思う。
二 「蘭陵王」の結尾一文
ところが、結尾の一文、特にその中で使われている<敵>云々という箇所は一筋縄では行かぬ厄介な問題をかかえている。このことは、安岡が既出の文章のなかで、この<敵>の用語にひどくこだわっていて、「問題は、この《敵》という言葉のなまなましさにある」と述べ、吉行淳之介もまたある対談(『群像』座談会・1988・5)の中で、より直截的に「『私の考えていることと違ったら許しませんよ』と笛を吹く青年のいう意味が、僕にはちょっとわからないところがある。三島由紀夫には、僕はいつもわからないところがある。けれども、最後の作品だから、そういう意味で」とまで言い切っていることからも補足できる。
そこで、結尾一文を理解する手立てとして二通りの方法を取った。一つは、何よりもまずこの小説の内容を忠実に辿るという文脈からのアプローチである。これが最も妥当な方法だろう。もう一つは、文脈の読み取りを基本に据えながら、それでも捉えられなかったものを作家の思想から導き出す方法である。
三 アプローチその一
<起>の章において特に気が付くのは、<S>という人物の紹介のしかたである。<京都>の大学に在学中のSが<烏帽子狩衣>の似合いそうな顔立ちをしていて、さらに<横笛>を能くする青年であること。あいびきの相手に横笛の音で自分の所在を知らせたという逸話の持ち主であること。読者の立場でみると一見気障にみえるSという青年が徹頭徹尾<みやび>を備えた貴族的とでもいえそうな人物として描かれていることは明らかである。これこそ、貴族は<みやび>の象徴的な存在だと考えている三島の思想の反映であることはまちがいない。しかも、そういうSは昼間の行軍及び攻撃訓練では小隊長を務めるほどの<兵士>である。このような<S>の造形において特徴的なのは、いわゆる<文武両道>を兼ね備えていることである。そして、敵と生死を攻めぎ合いを模した戦闘訓練といい、「幽暗な境」へ誘う横笛の音といい、<死>の雰囲気が漂っていて、またこの青年が横笛を習う動機を問われて、能の<清経>のように横笛を吹きながら最後を遂げたいからだと答えたという記述に接すれば、Sという青年がまさしく<文武両道>の実践の果てに死を置くという思想を唱導していた三島由紀夫にとって最も望ましい若者像と一致する
ことになることは言うまでもない。その意味で、「現代の青年と一口に言うけれども、青年は実にさまざまである」という文句はいわくありげな言葉である。というのは、<S>という人物は<現代の青年>の諸相から抽出された一つの典型として描き出されているとみることができるからである。
ところで、<文>と<武>という対立概念の提出は、<起>の章でのSの造形にとどまらず、<承><転>の章までの文章のなかでも<文>や<武>の概念に置き換え可能な言葉を至る所に見出だせる。例えば、「笛は武器とはちがった軽やかなしっとりした重みを指に伝えた」という<笛>と<武器>との対応、「激しい演習のすんだあとの夜こそ、横笛を吹くのにふさわしい」という昼の<演習>と夜の<横笛>との対照等々がそれである。さらに注意してみると、前文のように同じ比重か、後文のように補弼する形かの関係で成り立っていることがわかる。<蘭陵王>の故事についても事情は同じことで、「優にやさしい」素面を「獰猛な仮面」で隠して戦場に臨んだ北斉の王の<武勇>伝である。<優美さ>と<獰猛さ>とは仮面を媒介として一人の人間蘭陵王のなかでは一体なのである。このように、<文>と<武>の二項の概念はいずれも対比し対立するものとして描かれてはいず、並立し補弼する関係になっている。この二項並立とでも言っていいような関係の記述の上に立ち昇ってくるのは、まさしく<文武両道>の概念であることは注意すべきである。この概念こそが、この「蘭陵王」という小説のキーワードであることは理解されよう。このことは、くしくも三好行雄氏が先の論文のなかで「嫋々とひびいた横笛の音色に、武士と優雅の伝統が一致した幸福な一瞬が現前する」世界において<文>が<武>に呑み込まれてしまった事情をこの「蘭陵王」にみていることと思い合わされて、当の論文の善し悪しを別にして言えば、けだし卓見である。 <承>の章における「何一つ装飾のない」部屋という舞台の設定は、戦後の小市民的な繁栄を忌避した三島の豊饒さに倦み疲れた現代に対する明瞭なアンチテーゼとして受け取ることができる。それ故に、虚飾を剥ぎ取った反時代的な空間のなかで希に見る<文>と<武>との触れ合いの様子が浮き彫りにされているとみることができる。そのような二項概念はまた、「非常にすぐれた指揮能力とは、勇猛であると供に、おそらく優美なものであろう」という記述や「蘭陵王」の容貌における「獰猛な仮面」に隠された「優にやさしい」「やさしい美しい」という形容、さらに言えば「錦の袋」から取り出した横笛の「重みそのものに或る優美があった」等々の記述の例のように、<優美>の概念によって装飾されている。そして、「稲妻」の閃きは、これらの記述との相乗効果によって<文>と<武>のやすらう夜の<優美>な舞台作りに大きく寄与している。
<転>の章における「昼間見た撫子や露草や薊の花は、どんな色合で浮み上がるかを思いみた」を初めとする文章の中で、<昼>の情景がしばしば思い浮かべられて、<承>の章におけるように肉体の疲労からのよみがえりに絶対な信頼をおいている。このような記述によれば、その「すがすがしさ」が昼間の激しい戦闘訓練の結果得られたものであるところから、夜の<文>は昼の<武>の上に立って存在していることを意味している。そのような状況のなかで、<武>の人Sの手になる横笛は、<文>の音色を千変万化させながら吹き流されるのである。
このようにみてくると、<文武両道>に秀でた登場人物が質素にしつらえた舞台の上で横笛を吹き鳴らしている情景が彷彿してくる。ここに、劇作家としての三島の手腕が発揮されているとみていい。その意味で、この「蘭陵王」は二幕劇じたての構成になっているといえる。そういう簡素な構成だからこそ、「激しい演習のすんだあとの夜こそ、横笛を聞くのにふさわしい」という思いが<転>の章に置かれ、「蘭陵王を聞くのにふさわしい夜だった」という感想が<結>の章に置かれて強調されていることでも明らかであるが、横笛の名曲を聞く場面の<ふさわしい>状況が否応なく読者に印象づけられることになる。とすると、当時エッセイ等々でしきりに唱えていた<文武両道>の理想形態を実際の体験の側から提示しようとしたのがこの「蘭陵王」であろう。
従って、第四段落に至るまでが<文武両道>の理想像の構築に当てられていたとみるべきで、その叙述を受けた結の章の冒頭が「『蘭陵王』が終わったとき、私も四人の学生も等しく深い感銘を受けて、しばらくは言葉もなかった」という文章で始まるのは充分予想されることである。これは、横笛の音のすばらしさの強調ということ以上に、何よりもこういう場を持ち得る「私どものやっている盾の会」という私兵集団のありがたさと会員相互による暗黙の精神的なきづなの自己確認がアピールされていると勘ぐりたくなるほどである。さらに続く「すべてがこの横笛を聴き、『蘭陵王』を聞くのにふさわしい夜だった、と一人が言い、皆が同感した」という記述に至っては、横笛を媒介として<文武両道>の実践という雰囲気に完全に浸っていて、出来すぎといえば言えるほど「新入会員の卒業試験」の場として格好の教材となったであろうことは想像される。そこには新入会員を含めた会員同志の心の結合の様がこれ見よがしに強調されているといえよう。そのような雰囲気のなかで語られる横笛にまつわる話は文脈の流れに逆らうことがない。むしろ、<幽霊>の話題は芸術=<文>の奥深さの強調になり、戦闘訓練=<武>のむずかしさを話し合う場面と対応して、<文>と<武>との両立の困難さを提示するかたちになっている。 ところが、結尾一文のSの言葉は、安岡章太郎や吉行淳之介等が触れているようにいささか唐突の感がなきしもあらずという感じである。それは文脈に即してみると、端的には「卒然と」という表現に<私>の少なからぬ驚きを持った感情のさやぎが感じ取れる。また、これまでの文脈を踏まえて考えてみても、私にしてみれば、Sは言わば自分の分身のように親近感を覚えており、精神的紐帯のエリア内にすっぽり収まっている人物として考えているのである。そういう確信は、特に「戦わない」というように一緒に行動しないこともありえると言ったSの言葉によって揺らぐことになるはずである。少なくともSの言い方は同志的結合を弱めこそすれ、強めはしないと思われる。従って、私はSとの微妙な乖離に直面したことになる。
ここで注意したいのは、三島由紀夫という作者と作中人物、ここでは<私>や<S>との位置を明かにしなければならないということである。というのは、この小説が<虚構>か否かという問題とからまっていて、現在取り上げている結尾一文の意味合いも微妙に変わらざる得なくなるからである。このことについては、すでに安岡章太郎が先述した文章のなかで「この一人称の文章は小説か、感想文か」という自らの疑問に対して「はっきり小説だと考えられる」と断言している。これはしかし、実際の出来事の感想という部分の疑いを持ちながら、<はっきり>と決断を迫られる中で<小説>、つまり創作だとしなければならなかった苦渋が滲み出ている。さらに、それを受けた形ではあるが、田中美代子氏が『鍵の掛かる部屋』解説(新朝社文庫) において「ここに出てくる『私』は、作者自身にちがいないし、営舎での泊りの一夜、一人の学生が横笛を吹き、四人の学生とともに耳を傾けた、という『事実』はあったにちがいないだろう。しかし、この事実をめぐるくさぐさの感慨や体験は、すべて作者一個の内的世界のものである」と述べていることも、<事実>を踏まえた上での<虚構化>という線上での論及であり、体のいい説明であって、作者と登場人物との関係が明確にされていない。そこで、作者自身の言葉である「私が『私』というとき、それは厳密に私に帰納するような『私』ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰納したり還流したりすることのない残滓があって、それをこそ、私は『私』と呼ぶであろう」(「太陽と鉄」)という文章を参考にすべきであるが、自分の文章は全部が全部が本当のことを言っているわけではないぞと言わんばかりの口吻は理解できても、今考えている問題の解決につながるものではない。
であるならば、文章中の言葉を手掛かりにして、安藤武氏の労作『三島由紀夫研究年表』(西田書店・昭六三・四)のなかから探ってみるしかない。まず、第一段落の冒頭にある「盾の会」という名称を万葉集の防人の歌より取り出して正式に用いるのは、昭和四三年一一月三日(日)のことであるので、これ以後の体験入隊が題材になっているとみるべきである。それに、「八月二十日」という記述等によって真夏の出来事であることがわかる。従って、これらにふさわしい事実を調べてみると、その翌年の九月、御殿場陸上自衛隊滝ヶ原分屯地に体験入隊している。これが「蘭陵王」の発表の二ヵ月前のことであるということもあり、夏という季節に体験入隊したという事実が抜き出せるのはこれ以外に見出だせないこともあって、最右翼に挙げられる。「八月二十日」と明記していることは何らかの意図があったのだろうか。ただ<八月>という月は類推になるが、「炎天」のなかでの戦闘訓練の厳しさの強調になり、それと打って変わって夜の憩いの一時のすばらしさの提示に好都合であること、或いは旧暦で言えば季節は秋であり、横笛を聞くのにふさわしいときということで選ばれたのであろうか。日付を特定した理由は今のところわからない。いずれにしろ、これらのことから理解できるように、この「蘭陵王」は<事実性>の強い小説である。現実と文章中の出来事とは同一視できないものの、フクション性豊かなこの作家の唯一の私小説的作品であることは注目に値するであろう。 これらのことを踏まえて言えば、<私>はほぼ作者と等身大であって、多少の誇張はあっても作者との間の径庭はないということ、さらに<S>は作者にとって理想化されているが、<私>にとっても同じことであるといえることから、作者とは距離を置いた存在であるということである。ただし、Sは<文武両道>を実践しつつある作者の分身と見ることもできるが、それは結尾の一文を言わない前のことである。
さて、結尾一文について重要になってくるのは、私がSの言葉に対してどういう態度を取ったかという点である。これまでの文脈から言えば、少なくとも<容認>という態度は難しく、ちょっと驚いて<受け流す>か、或いは<拒否>の態度ぐらいは取ったかのいずれかになるだろう。ただ、三島の小説作法からすると、最後の短編小説であるだけに、この結尾の一文には多大な意味を込めて書いたにちがいない。だとすれば、<受け流す>態度は弱すぎるので、Sのもの言いに<拒否>させるくらいの決意はもっていただろう。しかし、それをはっきりさせるには、この小説がこの部分で終わって読者に判断させる体裁を取っているので、文章中からの読み取りは不可能である。余韻を残しながら、意味ありげに終わらせるところに三島のストーリテーラーとしての技巧が働いていると言えばいえる。
四 アプローチその二
本文から離れて「蘭陵王」を論じようとすれば、既出した対談のなかで、大岡昇平もそうであるが、特に大江建三郎が「この青年が持っているイデオロギー的な特質は、最後に、私はあなたと意見が違うから闘わない、と言うところに表現されるんですけれども」という言い方で触れて、この小説を<イデオロギー>的に捉えたように、三島由紀夫の政治意識からのアプローチが示唆を与えてくれるように思われるが、その他の状況からのアプローチが必要であれば適宜行っていきたい。
三島の政治意識は晩年矯激に現れこそすれ、現実的な政治性とは無縁だったと言わねばならない。「思想、あるいはイデオロギーは相対的であり、情念、或いは心情こそは絶対的である」という信念を固く保持していた三島は、その右翼的言動がいかに政治的あったとしても、現実的な政治意識の相対性を軽蔑し尽くした果てに捉えられた心情面での右翼的政治思想の絶対性に己れを賭けていたことはつとに有名である。このことは、同志として同じ思想を抱えていても、状況次第ではすぐに相対化されてしまう現実の政治的な<敵>・<味方>という概念には重きを置いていないことを意味する。とすれば、「もしあなたが考える敵と自分の考える敵とが違っているとわかったら」と事もなげに言い放つSの言葉に対して、三島、すなわち私が現実の政治的状況論の網に掛かってしまっているSの立場に現実臭さ、平たく言えば<現代青年>の一面であるクールさを敏感に感じ取るとともに<拒否>に近い感情を持ったであろうことは想像できる。けだし、安岡章太郎がこの最後の一文に注目して、「問題は、この《敵》という言葉のなまなましさにある。何らかの手段で抽象化しないと、この言葉で私の中にもシコリの出来たナマな感情が動いてくる。現実の語感で引き起こされたこの感情は、この文章全体を小説から現実に変えて受取ってしまうことにもなる」と述べているのは作家ならではの鋭い指摘だったと言わなければならない。
端的に言って、「蘭陵王」という小説は結尾のわずか一文によって<文武両道>の理想郷から覚めてより<現実>的になるのである。このときの<S>がこの小説の発表される二ヶ月前(九月初旬)に相次いで起こった「盾の会」脱会事件、つまり『論争ジャーナル』の共同創設者だった中辻が他の数名の会員とともに脱会した後、その一週間後には右腕的存在であった持丸博(早大生=「日学連」と呼ばれた右翼的学生組織の中心人物・昭和四三年三月1日から三十日までに同じく滝ヶ原分屯地にて行った体験入隊の学生隊長)が脱会したことを背負っていることは充分ありうる。このことは、結尾一文が常識的でクールなS青年の提出ということ以上の意味を持つものであることを示している。ここにはつまり、三島由紀夫なりの望ましい<現代の青年>像を提出しながらも、それに終始しなかった、否、出来なかったと言うべき現実認識が表現されている。この現実認識こそ、シニカルな読者におめでたい狂信集団の自己顕示欲を満たそうとした作品だと一蹴されるを少しく防いでいるということができる。
或いは、次のように考えてもいい。矢代静一氏が三島の青年時代を回想して「歌舞伎座の天井桟敷の一幕見で、突然、『こうして友達となったからには、一生の味方か一生の敵かどっちかだよ』と、いまにして思えば無邪気な宣言だが、私をこわがらせた彼」とさりげなく記した文章(「三島と太宰」) には、<敵>か<味方>かの問題が友情のレベルではいかに重要であったかを窺わせる。とすると、Sが格好よく言ったつもりの<敵>云々の語には重大な意味が込められていると見るべきである。その点からも、このようなSの言葉を最後の一文に置いたのは至極当然なことである。<敵>という語が他の言葉とからまる言葉として想起するのは、青少年時代の三島が私淑した『文芸文化』中心人物蓮田善明等によってさかんに称揚された『みやびが敵を打つ』という言葉である。この言葉を参考にして、この小説における<敵>の語の意味するものを言えば、<みやび>が打倒すべき<敵>が「盾の会」の内部においてもすでに相対化してしまっていることである。それは、本文中の三箇所にわたって出でくる<敵>が初めの二箇所のように共通の対立概念として存在するうちはまだしも、Sの言葉に代表されるように個々人において<敵>の中身を検証してみるとその差異を呈してくるという事情からも類推できる。
<敵>という対象の相違が甚だしく現れるのは、集団の中では裏切りという形である。三島の短編小説「剣」も、それに近似している長編小説「奔馬」もまた、最も信頼すべき者たちの裏切りによってクライマックスを迎える内容である。こうした内容は、特に「奔馬」と時を同じくする作品「蘭陵王」に影を落としているとみるべきであって、裏切りのため獄中に繋がれた「奔馬」の主人公の「人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起って、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだろうか?」という述懐は、現実の脱会者の影を引きずっていると思われるSの行く末に感じたであろう苦い思いと重ね合わせられて、実に痛ましい。このようなことを踏まえると、結尾の一文には、<心を一にしようとする>ことを拒む『現代』という時代への、三島のある種の冷笑を含んだ諦念が潜んでいるといえる。そのことは、「何一つ装飾のない」部屋の設定や私の「質素な生活」を尊ぶ態度といい、<文武>に秀でだSの造型といい、どれをとっても<反時代>的な刻印が色濃く刻みつけられていることからも理解できる。
結びに
ここで、これまでのことをまとめて述べてみたい。この「蘭陵王」は、三島由紀夫にとっての最後の短編小説であることの意義は大きい。そうであるが故に、作家としての特質が十全に発揮されながら、晩年の中心思想である<文武両道>の理想形態が描き上げられているといえる。そして、その中に忍びこむ<現実>の実相が指し示されて、<現代>という時代の一断面を切り取ってみせた作品だと考えられる。
ともあれ、結尾一文のSの言葉から遠ざかり、<文武両道>の世界を強調すればするほど、<文>も<武>も極めて観念的な美の世界に閉じこもることになる。橋本文三が三島の「文化防衛論」に対して<観念的な政治論>と極言したことと似たところがあるけれど、この「蘭陵王」が実際の体験に基づいた<文武両道>の姿を伝えているものの、結尾一文によってかろうじて現実味を獲得した事実からしても、S青年の<横笛>をめぐる美的観念のストーリーという印象を払拭することはできない。あのような自決事件も、表層は極めて政治的事件の様相を呈しているが、当の本人にとっては美的観念の上に構築された<文武両道>の実践化であったと思えてならない。こういう点で、「文が武に敗れた、その果てに具現したひとつの言語世界」(前掲書)をこの「蘭陵王」にもとめる三好行雄氏の見解には付いていけない。
三島由紀夫においては、美的世界は依然として不滅である。
註1 田中美代子氏は鍵のかかる部屋」(「新潮社文庫」昭55・2)の解説文で「やがてくる死の予感に息をひそめている」と述べている。松本鶴雄氏はまた「三島由紀夫作品論事典」(国文学『三島由紀夫とは何だったか』56年7月号)の「蘭陵王」梗概で「自決一年前の作品のせいか、全体の色調に静寂と哀調がただよい、その底に死への近親感のようなものが流れている」と指摘している。
註2 三好行雄「<認識と行為>をめぐって」別冊国文学NO・19「三島由紀夫必携」
註3 <制服>=「素朴にして華美」なる服装として彼に賛美されている(真銅)、<行動>=『太陽と鉄』 で文(認識)武(行動)両道にいたった軌跡を明らかにした(武田)、<肉体>=三島の肉体は、その筋肉の造形美、感覚、存在原理、それらに基づいた「武」「行動」及び「悲劇」の思想の探求の場となり、その実践の核となる(釜田)等々、『国文学』「いま三島由紀夫を読む」学燈社・61年7月号より。
註4 「金閣寺」における対立概念もそうであったように、対立ないし矛盾する概念をそのまま提出するのではなく、表裏一体のものとして提出するところに三島の特色がある。不可能なものとして避けがちなそういう概念を統一することに全精力を傾けていたと思われる節がある。その点で、三島由紀夫は世界の全体性を己のものにすることに賭けていた人物だと言える。
註5 <能>を換骨奪胎した戯曲「近代能楽集」を出版している。劉建輝氏が註3の書のなかで『三島由紀夫作品集6』あとがきを引用しながら「三島において、能はまたたえずその文学に底流し、『能のもつメランコリー、その絢爛、その形式の完璧、その感情の節約は』彼の『芸術の理想』を完備する要素としても、おおいに働いていた」と述べていることは三島と<能>との関係の深さを説明していて参考になる。
註6 1989年9月30日(土)、熊本近代文学研究会「九月定例会」の発表の折、「作者はそういう面も視野に入れて描いているのではないか」というような意見を首藤基澄氏より受けたが、確かにそのとうりで、だからこそ、<現代の青年>のプラス・マイナス面を含めたかたちでの一典型として描いているのだと補強説明して置きたい。
註7 「批評と研究三島由紀夫」白川正芳編・芳賀書店・昭49・12。
註8 「重症者の凶器」(昭26)での、「私の同年代から強盗諸君の大多数が出ているところを私は誇りとする」という有名な文章や、「剣」(昭38)での、「国分次郎の生まれたのは、まことにへんな時代にだった」という記述等があるが、<時代>を射程に入れて創作していることは明らかである。
註9 『反時代的な芸術家』(昭23)では、「『新しい時間と新しい倫理』は芸術作品の中にしかありえないのである。しかも作品の中にあらわれた新しい人間像は、極めて正確な程度にまで到達された作者の原型の模写に他なら」ないと述べている。この文章からは、<反時代>的な姿勢が単なるポーズではなく、<倫理>的な様相を呈していることがわかる
註10 野口武彦編「三島由紀夫事典」(『三島由紀夫必携・別冊国文学NO19』)の「政治」の項に おける中井敏之氏の「右翼的心情の対象としての 『文化概念としての天皇』に向けて、三島が自己合一化をはかるとき、もはや『政治』は虚構世界の『政治』と化すほかはなっかたのである」という考えは、この結尾の私見に相通じるものがあるのでここに掲げて置きたい。
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