NPO法人 くまもと文化振興会
2012年12月15日発行
《はじめての夏目漱石》
熊本で文学の基礎をきずく
永田満徳
第五高等学校教授
熊本時代は明治二九年四月、漱石二十九歳から約四年三ヶ月間である。しかし、五高教授の肩書きのまま英国留学、明治三十六年三月に辞職しているので、五高教授としての任期の期間は七年間に及ぶ。人生の壮年期、充実期のほとんどを熊本と関わっていたことは注目していい。
漱石の五高赴任は文部省の日本人教師化策の一つであった。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という外国人お雇い教師の後任としての特別任務と、月百円の高給取りとしての特別待遇を受けての赴任であった。
授業は厳格で、テキスト一冊全部やり終えるので進度が速く、今日重視されている実用英語にも理解があり、入試問題に導入する見識を持っていた。よんどころない理由がない限り、欠勤はせず、週二十四時間の授業を受け持つほかに、明治二十九年九月からは生徒の要望に応えて午前七時より課外講義を行っている。漕艇部の二代目部長にも就任している。福岡・佐賀の中学校の視察を命ぜられ、佐賀県尋常中学校では急遽校長に講演を請われ、高等学校の教授の立場で中学生に語りかけている。この学校視察などは「視学官」的な役割を担っていたと思われる。第七回目の開校紀念式では職員総代として祝詞を読んでいることや、校務においては管理職の職務に属する人事異動に深く関わり、不適格教師の追放に関与するなど、教師陣の強化に心を砕いている。明治三三年四月には教頭心得になっていることからもえるように、五高職員のなかで中枢の立場に立っていたといえる。
このように、夏目漱石は教育行政側の期待に応えるべく、第五高等学校の発展に尽力し、ひいては明治期の学制の確立に貢献した教育者、教育官僚であった。
紫溟吟社
熊本時代、多くの俳句を作り、夏目漱石俳句全体の四割、つまり千句余りである。正岡子規が唱えた新派俳句を熊本にもたらしたのは漱石であった。
明治三十一年春、五高学生の蒲生紫川 (栄)と厨川千江 (肇)が俳句に興味を持ち、井川淵の漱石家を訪ねたことが事の発端である。特に千江の俳句熱は旺盛で、同じ五高生の白仁白楊(後の坂元)、寺田寅日子(寅彦)ら十一人を誘い、十月二日、井川淵から越した内坪井の漱石宅で、念願の運座を開くに至る。この座は「紫溟吟社」と命名される。翌三十二年秋、「紫溟吟社」は五高外からも池松、渋川らが加入してきて、会はますます活況を呈することになる。迂巷の尽力で、九州日日新聞社の紙上に翌年一月から「紫溟吟社詠」が発表されるようになり、漱石の周辺を越えて、新派俳句が広く知れ渡ることとなった。
漱石離熊の翌三四年、紫溟吟社は機関誌「銀杏」を創刊し、活動は軌道に乗るが、会員の卒業や転任、戦争への出征等で、翌三五年五月に「銀杏」は休刊する。しかし、紫溟吟社の精神は、後に九州四天王の一人に数えられた井上微笑が精力的に発行した「白扇会報」に引き継がれた。
転居
引っ越しの回数の多さも有名である。明治二十九年はまず親友でもある菅虎雄の家(薬園町)に身を寄せた。光琳寺(現下通町)の家で結婚して、合羽町(現坪井町)と居を移し、明治三十年には大江村の家(現熊本市新屋敷、水前寺公園裏手に移築)、明治三十一年には井川渕町の家、内坪井の家(現夏目漱石内坪井旧居)と転居を続けている。さらには明治三十三年北千反畑町の家(現存北千反畑町)へと越している。住環境が悪い(光琳寺)、家の造作が悪く、家賃が高い(合羽町)、家主の都合(大江村)、鏡子夫人の白川投身事件(井川渕)など、引っ越さざるを得ない事情もあったようである。
朝日新聞社記者
東京帝大や一高で教鞭をとりながら執筆した『吾が輩は猫である』や『坊っちゃん』は大好評を博した。「朝日」にしても、「読売」にしても、文芸面での紙面の強化、充実のためには、一躍流行作家となった夏目漱石はのどから手が出るほど欲しい人材であった。
「朝日」で最初にアプローチしたのは熊本出身の大阪朝日新聞社の鳥居である。『草枕』に感動し、早速漱石に手紙を書き、随筆を依頼する。多忙を理由に断られるが、すでに社内工作で新進作家漱石を認知させていた。これが布石となって、明治四〇年二月、同じく熊本出身の東京朝日新聞社の主筆であった池辺三山が漱石招聘に動き出す。五高時代の教え子である坂元雪鳥を使者にして接触を始め、好感触を得るや、漱石の希望を全面的に容れて、即座に条件を詰めた。「読売」よりはるかに理想的な条件を提示され、漱石は執筆に専念するべく、朝日新聞入社を決意する。この知らせを待っていた東京朝日社会部長の、熊本時代の俳句仲間であった渋川耳玄が大変喜んだという。こうして、朝日新聞社記者となって書いた漱石の小説は、ほぼすべてが朝日新聞紙上において独占発表されることになった。
漱石の朝日新聞社入社に際して、熊本ゆかりの人物が深く関わっていたことは忘れてはいけない。
『草枕』
『草枕』は明治三十九年九月、「新小説」に発表された。同僚の山川信次郎の案内で、明治三十年十二月の末に小天(現天水町)の前田案山子邸(現前田家別邸)を訪れた経験が元になっている。那美のモデルは案山子の長女で、奔放不軌な性格であったという。
「山路を登りながら、かう考へた」に始まる冒頭部分や、「おい、と声を掛けたが返事がない」の峠の茶屋の場面など、よく知られた名文句がある。取り立てて筋のない小説であるが、「一画工がたまたま一美人にして」、「画工が、或は前から、或は後ろから、或は左から、或は右からと、様々な方面から観察する」(「余が草枕」)ところに、一応の流れを見ることができる。
謎めいたセリフを投げ掛けたり、意想外な現れ方、立ち去り方をしたりして、画工を翻弄する那古井の志保田の嬢様である那美がヒロインである。その那美の才色、機峰に魅力を感じないものはいない。五章の滑稽な髪結床の親方の場面と八章の高尚ともいうべき観海寺の和尚の場面とは「俗」と「雅」とが取り合わせられて、多彩で、豊かな世界が展開されている。七章の風呂場の場面はむろんのこと、十章の鏡が池の場面も捨てがたい。いよいよ十三章(最終章)の川下り、停車場の場面であるが、画工が那美に「憐れ」を見て取って、画題を完成して終わる。
非人情の美、いわゆる出世間的な詩境探求の旅が「汽車が見える所を現実世界と言ふ」(十三章)という現実世界において、人のこころの働き、つまり「憐れ」を核として完成したというべきであろう。
『二百十日』
『二百十日』は明治三九年十月、「中央公論」に発表された。明治三十二年八月末から九月初めにかけて阿蘇登山を試みた体験が生かされているが、この折も、山川信次郎が同行している。漱石が投宿したのは内牧温泉の養神館(現山王閣)である。
「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」という「半熟卵」の受け答えや「ビールはござりませんばってん、ならござります」というビール問答などは有名であるが、田舎の温泉宿の様子が活写されている。圭さんと碌さんの二人の会話体で終始する、どこか落語の掛け合いのような小説である。
その温泉宿で、自称豆腐屋の倅である圭さんは金持ちや華族というものを批判する。翌日の朝から阿蘇山に向かうけれど、途中で道に迷うは、圭さんは穴ぼこに落ちてしまうはで、散々な目に遭う。どうにか碌さんに助け上げられて、宿に帰る。しかし、圭さんはその翌日、帰ろうとする碌さんを説き伏せて、また阿蘇山に登ることを約束させる。「二人の顔の上では二百十日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出して居る」という文章で終わる。
圭さんが再び阿蘇山に登ろうとする箇所に、世俗の憂さを吹き飛ばそうとする生のエネルギーの根源が描かれているとみていい。
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