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『世界共和国へ』 (その30)

2016年11月26日 | O60→70(オーバー70歳)
【158ページ】
帝国は政治的に弱かったけれども、その同一性は、共通の宗教(ローマ教会)や共通の文字言語(ラテン語)というかたちで存在していました。この点では、東アジアの帝国が仏教や儒教を共有し漢字を共通言語とし、西アジアの帝国がイスラーム教とアラビア文字言語を共有したことと同じです。

【159~160ページ】
ルターの宗教改革は一般に宗教の問題だと考えられていますが、もっと複合的な意味をはらんでいるのです。ローマ教会への彼の反抗は、直接的には免罪符の否定としてあったわけですが、それは同時に、いわば封建勢力としてのローマ教会の経済的支配への反抗にほかならなかった。その意味で、ルターの宗教改革は「帝国」の下位にある部族国家の自立をはらみ、したがって、それは帝国の法や教会法を超えた主権国家や、さらに封建的諸制度からの解放を求める農民運動をもたらしたのです。同時に、忘れてならないのは、ルターが『聖書』を俗語(高地ドイツ語)に訳したことが別の意義をもったということです。すなわち、それは『聖書』を大衆に近づけ宗教改革を広げただけでなく、のちに標準的なドイツ語の母体となりました。

(ken) 2016年10月31日、テレビ東京の「「日経スペシャル 未来世紀ジパング ~沸騰現場の経済学~」」では、ベトナムが日本語を第一外国語にした話題が紹介されていました。とても面白く拝見しましたが、親日感情を支える条件はやはり「日本語の話せる人が多くいる」ことだと思いますし、本書にもあるとおり、ルターが『聖書』を俗語に訳したことで、標準的なドイツ語が出来上がったわけですから、言葉を共有する意味の大きさは計り知れませんね。(つづく)
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父が残してくれた「わらじ」について

2016年11月26日 | たばこの気持ち
本日は亡き父の命日です。今、引越しの準備をしています。片付けをしていると、いろんな物が出てきます。父の残してくれた手作りで、父の手垢のついたと思われる草履(わらじ)です。お絵描きしてみました。新居に持って行こうと思います。
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SANYOのボイスレコーダーについて

2016年11月25日 | O60→70(オーバー70歳)
▶︎この頃、自分の身体がお絵描きモードから、詩吟モードに変わってきたようです。
▶︎今は社名が消えたSANYOの名器・ボイスレコーダーで、通勤途上の時間を利用し、諸先生方の吟詠に聴き入っています。
▶︎今年も詠い収めの時期が近づいているからなのでしょう。大好きな吟題(松口月城作『母----非行少年の悔恨----』を選んだせいか、久しぶりに燃えています。
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『世界共和国へ』 (その29)

2016年11月25日 | O60→70(オーバー70歳)
【156ページ】
資本に対抗する運動は、そのような資本主義に対する理解なしにはありえません。たとえば、社会運動の中核は、労働者ではなく、消費者や市民が中心になった、という人たちがいます。しかし、何らかのかたちで賃労働に従事しないような消費者や市民がいるでしょうか。消費者とは、プロレタリアが流通の場においてあらわれる姿なのです。であれば、消費者の運動はまさにプロレタリアの運動であり、またそのようなものとしてなされるべきです。
資本は生産過程におけるプロレタリアを規制することができるし、積極的に協力させることもできます。これまで生産過程におけるプロレタリアの闘争として(政治的)ストライキが提唱されてきましたが、それはいつも失敗してきました。しかし、流通過程において資本はプロレタリアを強制することはできません。働くことを強制できる権力はあるが、買うことを強制できる権力はないからです。流通過程におけるプロレタリアの闘争とは、いわばボイコットです。そして、そのような非暴力的で合法的な闘争に対して、資本は対抗できないのです。

(ken) プロレタリアの運動論について、従来の生産過程(生産過程の延長としての交通・輸送を含む)におけるストライキが、必ずしも「いつも失敗してきた」とは言えません。組織力・団結力・闘争力の維持・強化という点では、最も有力な労働者の権利なのです。柄谷さんは「暴力的手段」の限界をふまえ、非暴力的で合法的な「ボイコット(不買運動)」こそ、資本はまったく対抗できないのだと述べており、その点では説得性がありますね。(つづく)
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魚の目利きについて

2016年11月25日 | ここで一服・水元正介
▶︎NHKの「プロフェッショナル」は、ねこさんと呼ばれる目利きの魚屋さんでした。
▶︎今でも漁師さんから、魚に関する教えを受けています。それにしても、漁師さんはたばこが良く似合いますね。
▶︎久しぶりにガツンときました。場所は、宮崎県日南市ということもあり、興味津々でしたが、だんだんと画面に釘付けチになりました。
▶︎少し時間をおいて、録画をもう一度みました。私と同い年、まだまだ現役、強すぎるほどの刺激を受けました。
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『世界共和国へ』 (その28)

2016年11月24日 | O60→70(オーバー70歳)
【154ページ】
20世紀の社会主義革命が、ロシア、中国、その他、すべて周辺的な資本主義国でおこったことはいうまでもありません。
しかし、それらは資本主義をその先進的・中核的な場で撃つことではなかった。先進国では、社会主義運動は社会民主主義的であるか、さもなければ、ロシアや中国のマルクス主義を導入したものでした。そして、それらは、結局、産業資本主義に対する理解が欠けていたということを意味します。産業資本を、生産点における搾取という観点でみるならば、その本質をほとんど理解できないでしょう。資本制の発展とともに、資本と経営の分離がおこります。資本家はたんなる株主として生産点から離れ、他方、経営においては、一般に官僚制が採用される。経営者と労働者の関係はもはや身分的階級ではなく、官僚的な位階制になる。ウェーバーは、資本制企業が国家と同様に官僚的なシステムを採用 したことを重視しました。

【154~155ページ】労働者という存在
こうして、生産点でみるかぎり、「資本」と「賃労働」の関係はもはや主人と奴隷の閾係ではない。個別企業では、経営者と労働者の利害は一致します。だから、生産点においては、労働者は経営者と同じ意識をもち、特殊な利害意識から抜け出るは難しいのです。たとえば、企業が社会的に害毒となることをやっていても・労働者がそれを制止することはしない。生産点においては、労働者は普遍的でありえないのです。企業や国家の利益に傾きます。それに対して、たとえば、環境問題に関して、消費者・住民のほうが敏感ですし、すぐに世界市民的な観点に立ちます。
では、労働者が狭い意識に囚われるのはなぜでしょうか。それは、労働者が「物象化された意識」(ルカーチ)に囚われているからではないし、また、労働者階級が後進資本主義国からの搾取の分け前をもらっているために、資本家と同じ立場に立つようになったということでもない。生産過程においては、労働者は資本に従属的であるほかないのです。しかし、労働者は流通過程において、消費者としてあらわれます。そのとき彼らは資本に優越する立場に立つわけです。

(ken) 私も少しは「労働者=消費者」という観点から世の中を見ていたときもありましたが、労働運動は現場の生産点にあるという教えから抜け出せずにいました。柄谷さんのように、資本に優越する立場である消費者として「不買運動」を位置づけることはできず、どうしても社会的な混乱を予測してしまうのです。そこでお手上げしてしまうのではなく、理屈としても十分に成り立つし、労働者が資本に優越する立場はそれ以外にないのですから、困難ではあっても諦めずに志向していくしかないと思いました。(つづく)
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飲み過ぎ注意!

2016年11月24日 | O60→70(オーバー70歳)
伊勢佐木町の「紅とん」では、ハイボール1杯50円だそうです。私は下戸なので2杯も飲めば降参ですが、酒好きの人たちにとっては大歓迎でしょうね。
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『世界共和国へ』 (その27)

2016年11月23日 | O60→70(オーバー70歳)
【150ページ】グローバル化
というのも、先進国では、資本はその内部において差異化の飽和点に達していたからです。そこからの出口は、これまで世界市場から隔離されていた旧社会主義圏およびその影響下にあった地域への「資本の輸出」に見いだされた。それがグローバリゼーションと呼ばれている事態です。それは、新たな「労働力商品」、つまり、彪大な労働者=消費を見いだすことにほかなりません。このことは、産業資本主義にとって新奇なことではありません。しかし、これはインドや中国などの巨大な人口を巻き込むものであるがゆえに、それまでに露呈していた諸矛盾を爆発的に激化するものです。

【151ページ】人間と自然の破壊
他の商品と違って、需要がなければ廃棄するということはできない。不足したからといって増産することもできない。また、移民で補充しても、あとで不要になっても追い出すことはできない。産業資本は労働力商品にもとづくことで、商人資本のような空問的限界を超えたが、まさにこの商品こそ資本の限界として、内在的な危機をもたらすのです。実際、資本にとって思い通りにならない労働力の過剰や不足が、景気循環を不可避的なものとするわけです。
だが、商品にならないものの商品化は、資本にとって内在的な障害であるだけではない。それは、人間をふくむ自然にとっても破壊的なものです。まず人間からいえば、労働力商品としての人間は、家族、共同体、民族などから切断されます。すなわち、互酬的関係をうしなう。人々はそれをナショナリズムや宗教という形でとりかえそうとするでしょうが、それはそれで別の災禍をもたらす。おそらく、商品交換の原理に対してぎりぎりまで抵抗するのは、家族でしょう。しかし、最近では家族の互酬原理さえも解体されつつあります。

(Ken) ここでは抜き書きしませんでしたが、私は「第三世界」という言葉について誤解していたようです。資本主義経済圏を「第一世界」と位置づけ、それに対抗していた社会主義経済圏を「第二世界」とし、その他の後進国を「第三世界」と呼んでいたと知り、「そうだったのか!」と納得させられました。
本書では、資本について多面的に論述されているので、実によくわかります。そして、「労働力商品としての人間は、家族、共同体、民族などから切断されます。すなわち、互酬的関係をうしなう」という事例は、今も悲劇として毎日のように発生しているのです。(つづく)
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玉ねぎとシメジ、木綿豆腐----!

2016年11月23日 | O60→70(オーバー70歳)
先日の炊事当番では、肉豆腐のようなものを作った後、材料を思い出しながらお絵描きしてみました。カミさんによると、「人物はダメだけど、野菜は良く書けてんじゃないの!」ということでした。
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『世界共和国へ』 (その26)

2016年11月22日 | O60→70(オーバー70歳)
【144~145】
以上の考察から、幾つかのことが考えられます。第一に、労働者は資本家に対してたんに「隷属関係」にあるだけでないということです。労働者は個々の生産過程では隷属するとしても、消費者としてはそうではない。逆に、資本は消費者としての労働者に対して「隷属関係」にあるのです。私はここに、産業資本主義に対する闘争の鍵があると考えます。それに関しては、最後に論じます。
第二に、以上の考察は、個別資本の運動の過程だけでは剰余価値を考えることはできない、ということを意味しています。資本は最終的に生産物を売らなければ、つまり、生産物が商品として価値を獲得しないならば、剰余価値そのものを実現できない。ところが、それを買う者は、他の資本か、他の資本のもとにある労働者である。各資本は利潤を追求するとき、なるべく賃金をカットしようとする、あるいはできるだけ長時間働かせようとする。だが、すべての資本がそうすれば、剰余価値を実現できない。なぜなら、生産物を買う消費者は労働者自身だからです。

【146~147ページ】
こうした変化は、すでに、マルクスが『資本論』を書きはじめた1850年代のイギリスにあらわれています。そこでは、激しい社会主義運動が1848年に頂点に達したのちに衰退しました。それは、労働者階級が政治的な諸権利(参政権や労働組合の合法化)を得たからだけではなく、彼らがいわば「消費者」として存在しはじめたからなのです。それは、彼らが真の意味で、産業プロレタリアになったということです。イギリスではそれ以前(ヨーロッパではそれ以後も)プロレタリアと呼ばれていたのは、産業資本の下にある労働者ではなく、むしろそれによって追いつめられた職人的な労働者だったのです。(中略)
――、マルクスは、資本制経済が、労働者が生産したものを自ら買うことによって実現される自己再生的(オートポイエーシス的)なシステムであることを把握していました。産業資本主義を特徴づけるのは、たんに労働者が存在するということだけでなく、彼らが消費者となるということです。つまり、産業資本主義の画期性は、労働力という商品が生産した商品を、労働者が労働力商品を再生産するために買うという、自己再生的なシステムを形成した点にある。それによって、商品交換の原理が全社会・全世界を貫徹するものとなりえたのです。
~、資本総体にとっては、剰余価値はどこから来ようとかまわないからです。しかし、根本的には、資本制経済は、技術革新―労働生産性の向上という「差異化」なしに存続することはできません。

(ken)《自己再生的なシステム》《資本制経済は、技術革新――労働生産性の向上という「差異化」なしに存続することはできません》《グローバル化》といったフレーズが、今回の抜き書きのキーワードですね。後進国とよばれる国々では、輸出用の商品を生産した労働者が、その商品を買い戻すシステムになっていないわけです。改革・開放政策の成功によって、中国にみられる国内市場の消費が爆発的に拡大しているのは、まさに《自己再生的なシステム》によるものといえます。どんなに中国が「社会主義国家である」と主張しようとも、歴然とした資本主義国家なのですね。(つづく)
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