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『世界共和国へ』 (その27)

2016年11月23日 | O60→70(オーバー70歳)
【150ページ】グローバル化
というのも、先進国では、資本はその内部において差異化の飽和点に達していたからです。そこからの出口は、これまで世界市場から隔離されていた旧社会主義圏およびその影響下にあった地域への「資本の輸出」に見いだされた。それがグローバリゼーションと呼ばれている事態です。それは、新たな「労働力商品」、つまり、彪大な労働者=消費を見いだすことにほかなりません。このことは、産業資本主義にとって新奇なことではありません。しかし、これはインドや中国などの巨大な人口を巻き込むものであるがゆえに、それまでに露呈していた諸矛盾を爆発的に激化するものです。

【151ページ】人間と自然の破壊
他の商品と違って、需要がなければ廃棄するということはできない。不足したからといって増産することもできない。また、移民で補充しても、あとで不要になっても追い出すことはできない。産業資本は労働力商品にもとづくことで、商人資本のような空問的限界を超えたが、まさにこの商品こそ資本の限界として、内在的な危機をもたらすのです。実際、資本にとって思い通りにならない労働力の過剰や不足が、景気循環を不可避的なものとするわけです。
だが、商品にならないものの商品化は、資本にとって内在的な障害であるだけではない。それは、人間をふくむ自然にとっても破壊的なものです。まず人間からいえば、労働力商品としての人間は、家族、共同体、民族などから切断されます。すなわち、互酬的関係をうしなう。人々はそれをナショナリズムや宗教という形でとりかえそうとするでしょうが、それはそれで別の災禍をもたらす。おそらく、商品交換の原理に対してぎりぎりまで抵抗するのは、家族でしょう。しかし、最近では家族の互酬原理さえも解体されつつあります。

(Ken) ここでは抜き書きしませんでしたが、私は「第三世界」という言葉について誤解していたようです。資本主義経済圏を「第一世界」と位置づけ、それに対抗していた社会主義経済圏を「第二世界」とし、その他の後進国を「第三世界」と呼んでいたと知り、「そうだったのか!」と納得させられました。
本書では、資本について多面的に論述されているので、実によくわかります。そして、「労働力商品としての人間は、家族、共同体、民族などから切断されます。すなわち、互酬的関係をうしなう」という事例は、今も悲劇として毎日のように発生しているのです。(つづく)
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玉ねぎとシメジ、木綿豆腐----!

2016年11月23日 | O60→70(オーバー70歳)
先日の炊事当番では、肉豆腐のようなものを作った後、材料を思い出しながらお絵描きしてみました。カミさんによると、「人物はダメだけど、野菜は良く書けてんじゃないの!」ということでした。
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