【113ページ】
国家というものは何よりも、他の国家に対して存在しています。だからこそ、国家は内部から見たものとは違ってくるのです。市民革命以後に主流になった社会契約論の見方によれば、国家の意志とは国民の意志であり、選挙を通して政府によってそれが実行されると考えられています。ところが、国家は政府とは別のものであり、国民の意志から独立した意志をもっていると考えるべきです。
【114】
かつては、資本家が労働者に君臨していましたが、現在では、資本と讐が分離されています。また、大企業においては、経営者は社員の中から選ばれています。いちおう誰でも末は社長になれるかのように見えるのです。その意味で、経営は社員の総意によってなされるかのように見えます。実際、資本制企業を経営だけでみれば、「労働者の自主管理」とさほど違いはありません。しかし、この経営は窮極的に、資本(株主)に拘束されているのです。社員の総意がどうであれ、経営者は資本の要求――利潤の実現――を満たさなければならない。
市民革命以後の国家・政府・国民の関係は、このような株主・経営者・労働者の関係に類似するものです。絶対主義王権国家において、国家の存在は明白でした。しかし、市民革命以後、それは隠れてしまいます。それを見ようとすると、われわれは国家ではなく政府を見いだすことにしかなりません。もはや資本家は存在しない、という意味で、もはや国家の主権者は存在しない。だが、資本が存在するという意味で、国家はあくまで存在するのです。このことは通常は見えません。しかし、株主が経営者を解任したり企業を買収したりする場合、ひとはまさに「資本」があるということを実感するでしょう。同様に、国家が存在するということを人が如実に感じるのは、戦争においてです。つまり、他 の国家との戦争において、国家の本質が出てくるのです。
(ken)「戦争」と「国家」の関係がよく理解できます。そして、「経営は窮極的に、資本(株主)に拘束されている」「国家はそれ自身のために存続しようとする」というフレーズが強く印象に残りました。(つづく)
国家というものは何よりも、他の国家に対して存在しています。だからこそ、国家は内部から見たものとは違ってくるのです。市民革命以後に主流になった社会契約論の見方によれば、国家の意志とは国民の意志であり、選挙を通して政府によってそれが実行されると考えられています。ところが、国家は政府とは別のものであり、国民の意志から独立した意志をもっていると考えるべきです。
【114】
かつては、資本家が労働者に君臨していましたが、現在では、資本と讐が分離されています。また、大企業においては、経営者は社員の中から選ばれています。いちおう誰でも末は社長になれるかのように見えるのです。その意味で、経営は社員の総意によってなされるかのように見えます。実際、資本制企業を経営だけでみれば、「労働者の自主管理」とさほど違いはありません。しかし、この経営は窮極的に、資本(株主)に拘束されているのです。社員の総意がどうであれ、経営者は資本の要求――利潤の実現――を満たさなければならない。
市民革命以後の国家・政府・国民の関係は、このような株主・経営者・労働者の関係に類似するものです。絶対主義王権国家において、国家の存在は明白でした。しかし、市民革命以後、それは隠れてしまいます。それを見ようとすると、われわれは国家ではなく政府を見いだすことにしかなりません。もはや資本家は存在しない、という意味で、もはや国家の主権者は存在しない。だが、資本が存在するという意味で、国家はあくまで存在するのです。このことは通常は見えません。しかし、株主が経営者を解任したり企業を買収したりする場合、ひとはまさに「資本」があるということを実感するでしょう。同様に、国家が存在するということを人が如実に感じるのは、戦争においてです。つまり、他 の国家との戦争において、国家の本質が出てくるのです。
(ken)「戦争」と「国家」の関係がよく理解できます。そして、「経営は窮極的に、資本(株主)に拘束されている」「国家はそれ自身のために存続しようとする」というフレーズが強く印象に残りました。(つづく)