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幼稚園男児の「私がやりました!」

2016年11月30日 | O60→70(オーバー70歳)
▶︎11月18日の同級会の最中、カミさんからラインの「こんな感じ」というメッセージが入りました。拡大してみると、わが家の愛車フィットが脱輪してました。「事故ったの?」という返信をして、そばにいた本田技研再雇用社員(フィットを買う時、社員紹介でサービスを受けました)の小松くんに画像を見せて、「ちょっと電話してくる」と中座しました。
▶︎幸い事故ではなくて、駐車場での悪どいいたずら(犯罪ですけど)でした。千枚通しみたいなもので、何か所も執拗に刺されたようです。隣に駐車していたオデッセイはバンクに加えて、車体にも傷をつけられたそうです。帰宅して、詳しく様子を聞いたら「タイヤ交換の約3万円は痛いけど、すぐ110番してね----」以下のカミさんの話です。警察官が1人が駆けつけ、オデッセイの親子連れもちょうどやって来て、事情聴取をしたそうです。
▶︎オデッセイの持ち主は、表情を曇らせ「これをやった奴、ホンダ車に恨みでもあんのかな?」とつぶやいた、その矢先、警察官が腰に下げている拳銃を見た幼稚園男児の息子さんが、たまたま、偶然手にしていたおもちゃのピストルを「バン、バーン、バン、バーン、バン」と言いながら、興奮しきって乱射し、警察官の前にやって来るなり「私がやりました!」と頭を下げたそうです。カミさんは、「あ〜〜ぁ、白状しちゃたっ!」と言うしかなかったとのことです。
▶︎そんな話をしたり、聞いたりしていたら、まぁ、車をそっくり盗まれたわけでもないし、とにもかくにも「幼稚園男児の成り切り自白」に、2人で大笑いしちゃいました。
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『世界共和国へ』 (その34)

2016年11月30日 | O60→70(オーバー70歳)
【173ページ】
カントは感性と悟性を区別すること、いいかえれば、「感じられたもの」と「考えられたもの」を区別することを貫いています。なぜなら、それらを区別しない思考、たとえば、或るもの(たとえば神)が「考えられる」ということからただちにそれが「在る」ということを論証してしまうような思考は、形而上学になってしまうからです。
カントは感性と悟性を鋭く切断しました。ゆえに、彼は、道徳性を道徳感情によって基礎づけようとしたハチソンに反対しました。カントの考えでは、道徳法則は理性的なものであり、感情あるいは感性には道徳性はない。「道徳感情」があるとしたら、それは道徳法則をすでに知っていることから生じるのであって、その逆ではない。しかるに、あらかじめ感情に理性的なものがあるというのは、道徳(理性)の感性化=美学化です。
カントの考えでは、感性と悟性は、想像力によって綜合されます。しかし、いいかえると、それは、感性と悟性は想像力によってしか綜合されないということです。

【174~175ページ】
悟性と感性の分裂ということは、具体的にいうと、ひとが自分でそう考えているのとは違った在り方を現にしているということです。たとえば、資本制社会では誰でも平等だと考えられているのですが、現実には不平等である。とすれば、悟性と感性の分裂が現にあるわけです。その分裂を想像力によって超えようとすれば、文学作品が生まれる。文学による綜合が「想像的」なものだということは、誰も否定しないでしょう。
しかし、ネーションもそのような意味で「想像的」な共同体なのです。ネーションにおいては、現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解消されています。(中略)
私は最初に、いわゆるネーション=ステートとは、資本=ネーション=国家であるとのべました。それは、いわば、市民社会=市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれているということです。これらはいわば、ボロメオの環をなします。つまり、どれか一つをとると、壊れてしまうような環です。

(ken) 173ページの「感情あるいは感性には道徳性はない」というカントの言葉にも刺激を受けますね。(つづく)
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