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『世界共和国へ』 (その13)

2016年11月09日 | O60→70(オーバー70歳)
『世界共和国へ』 (その13)

【93ページ】
彼ら(イエス・マホメット・仏陀)はカリスマ的な個人です。それは次のことを意味します。第一に、彼らは祭司階級に属さないがゆえに、国家機構に対立するということ。第二に、彼らが都市に基盤をもち、かつまたそこでのみ広がったということ。普遍宗教が、農業共同体ではなく、都市に始まるというとこは重要です。(中略)ユダヤ教やイスラーム教はいうまでもありませんが、仏教でも、農民は布教の対象とみなされなかった。仏教はもっぱら都市の商人階級に広がったのです。キリスト教でも、農民に価値がおかれるようになったのは、ルター派やロシア正教の近代版においてにすぎません。

【94~95ページ】貨幣経済と普遍宗教
普遍宗教の問題を交換様式から見るとき、参考になるのは、ニーチェの考察です。彼は、負い目という道徳感情が、「負債という極めて物質的な概念」に由来するといっています。《負い目とか個人的責務という感情は、われわれの見たところによれば、その起源を存在するかぎりの最も古い最も原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手、債権者と債務者の間の関係のうちにもつている》(『道徳の系譜』、木場深定訳)。さらにニーチェは、「正義」もまた経済的な価値の概念に由来するという。《人々はまもなく「事物はそれぞれその価値を有する、一切はその代価を支払われうる」というあの大きな概括に辿り着いた。――これが正義の最も古くかつ最も素朴な道徳的規準であり、地上におけるあらゆる「好意」、あらゆる「公正」、あらゆる「善意」、あらゆる「客観性」の発端である》(同前)。
ニーチェの考えは、普遍宗教の出現が、呪術=互酬的交換を廃棄し、貨幣による交換が支配的になった時点で生じるということを裏書きしています。

(ken) 普遍宗教や日本の仏教において、「農民に価値が置かれなかった」というのは、昭和30〜40年代を福島県の中山間地域で育った私の感覚としても理解できました。また、ニーチェの『道徳の系譜』は名著であることを再認識し、元から備わっていると信じてきた感情が、実は交換様式と深く関係していることも、新鮮で興味深い考え方でしすね。少し時間ができたら、本棚に並べている『ニーチェ著作集』を読み直したいと思っています。
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校閲のお仕事の昼休み!

2016年11月09日 | ここで一服・水元正介
▶︎昨日は出先でのお仕事(新聞の校閲)。お昼休み時間の散歩は、JR浜松町駅そばの旧芝離宮恩賜庭園でした。まずは目の前の池を眺めながら、喫煙所でメビウス3ロングを一服しました。
▶︎振り返ると、松の幹に藁のこもが巻かれ、すっかり冬支度です。
▶︎笹の葉を一枚いただいて、ちょっと気まぐれに笹舟をこしらえて、川面に浮かべてみました。都会のど真ん中で、なんと長閑な子どもじみたお遊びもいいものですね。
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皮むき器とベトナム土産のスプーン!

2016年11月09日 | O60→70(オーバー70歳)
▼11月2日は炊事当番、チープな皮むき器を描いてみました。
▼もう1枚は、Facebookで見かけたベトナム土産の水牛の角で作ったスプーンです。
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