九州へ出張するために、JRに乗って移動中です。
香川を出るまでは
まだまだ田舎道なので田んぼのあぜに
真っ赤な彼岸花が満開でした。
今日は、台風前とは思えない、いいお天気です。
雲一つない、すっきりした青空は、すっかり秋の様相で
瀬戸大橋からの景色は、穏やかで、橋の上からでは波もなく静かでした。
そうこうしながら、博多を通過するところです。
最近特に感じることがあります。
出会う人から発せられる
光のようなものです。
どんなもの?と聞かれると、説明しにくいのです。
目に見えるものではないので、
光を見るというよりは、感じるといった不確かなものです。
この夏、何度か東北の子どもたちと交流する機会にめぐまれました。
私は、その子どもたちに、光を感じる子どもたちと、感じることのできなかった子どもたちとふた通りの感じ方をしたのを強く感じました。
暖かい春の陽射しのような気持ちの時と、冷たい冬の寒空のような気持ちになる時。
ボランティアの仲間に、可愛らしく思えた子どもと、そう思えなかった子どもがいたと
ストレートに表現してしまって、怒らせてしまいました。
たしかに、これは失言でしたが
どう表現をすればいいのか私のアタマもココロも、整理がつかなかったのです。
ただ、違和感を感じていました。
そして、今思うに、光を感じることができた、できなかったという、表現で言葉にできそうです。
東北の子どもたちに限らず大人も、傷ついているということです。
可愛く感じた、つまり光を感じた子どもや大人たちは
私たちを信じ、ココロを開き、天真爛漫に笑っていました。
そして、どうしても可愛く思えなかった、つまり光を感じることができなかた子どもや大人たちは、
私たちを、心底信頼してくれていなかったのかもしれません。
光を感じることができなかったのは私ですから、私たちではなく私をと言った方がいいかもしれません。
いずれにしても、ボランティアで、少しの時間を過ごしただけで、主催していたのではないので
袖が擦れ合ったくらいの交流でしたから、気のせいと言われればそうかもしれません。
きっと、どちらも傷ついていることには変わりないと思うのですが、
歴然と、光を発する量が違っていたと感じたのです。
3・11の災害で、がれきの撤去や、炊き出しのボランティアをしていた時と、今では、
ボランティアのあり方はおおきく違ってきたようです。
ただ、総てを提供する「give」な方法から
共に生きる「共生」を考えて行かなくてはいけないのかもしれません。
光を感じることができなかったのは、giveに対して、不満や、感謝の気持ちを持たない言動を垣間見たことも
大きく影響していると思います。
ひとの笑顔を引き出すことは本当に難しいことデスね。
あれもしてあげよう、これもしてあげたい、と、自然に思う
人のココロが、そう簡単に伝わらないという瞬間にいたのです。
よかれと思うことも、そうではない。
ボランティアの難しいところです。
こんな書き方をすると、友人を怒らせてしまったように、主催者の方に誤解を招くかもしれません。
どうか、批判をしているのではないことをご理解いただきたいです。
友人曰く、「子どもは、みんないっしょや。俺は、みんな可愛かったけんな。たまさんがちゃんとかかわらんかったけんやないんか?」と怒られたけど、
そして、この夏は、珍しく気持ちが疲れていたのも事実だけれど、
それでも、光の子どもと、闇の子ども(この表現は言葉が見つからなかったので良くないと思うけど使いました。)がいた、そう見えたことは事実なんです。
みんなが、光に包まれるようなことをしたいです。
武生あたりまでくると、雲が広がってきました。
この空と同じように、ちょっと、ココロが疲れてきたので、
今日は、ここまでにしておいた方が、賢明です。
うまくまとまっていないけれど、ここしばらくのモヤモヤを整理しておきたかったので
徒然に書き留めておきます。
佐世保まで、あと一時間です。
香川を出るまでは
まだまだ田舎道なので田んぼのあぜに
真っ赤な彼岸花が満開でした。
今日は、台風前とは思えない、いいお天気です。
雲一つない、すっきりした青空は、すっかり秋の様相で
瀬戸大橋からの景色は、穏やかで、橋の上からでは波もなく静かでした。
そうこうしながら、博多を通過するところです。
最近特に感じることがあります。
出会う人から発せられる
光のようなものです。
どんなもの?と聞かれると、説明しにくいのです。
目に見えるものではないので、
光を見るというよりは、感じるといった不確かなものです。
この夏、何度か東北の子どもたちと交流する機会にめぐまれました。
私は、その子どもたちに、光を感じる子どもたちと、感じることのできなかった子どもたちとふた通りの感じ方をしたのを強く感じました。
暖かい春の陽射しのような気持ちの時と、冷たい冬の寒空のような気持ちになる時。
ボランティアの仲間に、可愛らしく思えた子どもと、そう思えなかった子どもがいたと
ストレートに表現してしまって、怒らせてしまいました。
たしかに、これは失言でしたが
どう表現をすればいいのか私のアタマもココロも、整理がつかなかったのです。
ただ、違和感を感じていました。
そして、今思うに、光を感じることができた、できなかったという、表現で言葉にできそうです。
東北の子どもたちに限らず大人も、傷ついているということです。
可愛く感じた、つまり光を感じた子どもや大人たちは
私たちを信じ、ココロを開き、天真爛漫に笑っていました。
そして、どうしても可愛く思えなかった、つまり光を感じることができなかた子どもや大人たちは、
私たちを、心底信頼してくれていなかったのかもしれません。
光を感じることができなかったのは私ですから、私たちではなく私をと言った方がいいかもしれません。
いずれにしても、ボランティアで、少しの時間を過ごしただけで、主催していたのではないので
袖が擦れ合ったくらいの交流でしたから、気のせいと言われればそうかもしれません。
きっと、どちらも傷ついていることには変わりないと思うのですが、
歴然と、光を発する量が違っていたと感じたのです。
3・11の災害で、がれきの撤去や、炊き出しのボランティアをしていた時と、今では、
ボランティアのあり方はおおきく違ってきたようです。
ただ、総てを提供する「give」な方法から
共に生きる「共生」を考えて行かなくてはいけないのかもしれません。
光を感じることができなかったのは、giveに対して、不満や、感謝の気持ちを持たない言動を垣間見たことも
大きく影響していると思います。
ひとの笑顔を引き出すことは本当に難しいことデスね。
あれもしてあげよう、これもしてあげたい、と、自然に思う
人のココロが、そう簡単に伝わらないという瞬間にいたのです。
よかれと思うことも、そうではない。
ボランティアの難しいところです。
こんな書き方をすると、友人を怒らせてしまったように、主催者の方に誤解を招くかもしれません。
どうか、批判をしているのではないことをご理解いただきたいです。
友人曰く、「子どもは、みんないっしょや。俺は、みんな可愛かったけんな。たまさんがちゃんとかかわらんかったけんやないんか?」と怒られたけど、
そして、この夏は、珍しく気持ちが疲れていたのも事実だけれど、
それでも、光の子どもと、闇の子ども(この表現は言葉が見つからなかったので良くないと思うけど使いました。)がいた、そう見えたことは事実なんです。
みんなが、光に包まれるようなことをしたいです。
武生あたりまでくると、雲が広がってきました。
この空と同じように、ちょっと、ココロが疲れてきたので、
今日は、ここまでにしておいた方が、賢明です。
うまくまとまっていないけれど、ここしばらくのモヤモヤを整理しておきたかったので
徒然に書き留めておきます。
佐世保まで、あと一時間です。