無何有庵(むかゆうあん)は、荘子の提唱した理想郷「無何有郷」から名前を頂きました。
「無何有」は「無にして何ぞあらん」の意。つまり、超然悠然とした、自然のままの心境で、自然のままで何のこしらえもしないこと。そして、一見何もないようなところにこそ豊かな存在があるということです。
・・・・何もないこと、無為であること。しかしそこには価値観の転倒があり、一見無駄で役に立たないようなものほど実は豊かであるというものの見方を含んでいます。作為がなく自然なこと。また、そのような境地。
老子の無為自然(むいしぜん)の思想を継承・発展させ、理想郷は形あるものの無い世界、 人為の加えられない絶対無の理想の地というような意味をこめて、命名いたしました。
荘子に「虚室生白」という言葉があります。
部屋はからっぽなほど光が満ちる。何もないところにこそ自由な、とらわれのない心がある。
「無何有」はそんな荘子のとくに好んだ言葉で、何もないこと、無為であること。
そこでは普段の価値観がひっくり返される。何の役にも立たないと思われるものほど、豊かな存在なのだというわけです。
荘子の思想は老子の思想の後継であり、追随者といって過言でありません。終始一貫して老子の「道」と「無為自然」の哲学を守ります。しかしその表現となると、地味で玄妙で難解な老子の文章と異なり、奇想天外、お茶目で支離滅裂な誇大表現を致しますが、一方では誰にも分かりやすい教えを説くような人柄であったように感じます。
いずれにしても、無何有庵では、誰もが平等に楽しむことができ、学ぶことができ、表現することが出来るスペースであって欲しいと切に願います。
謙虚に、感謝の気持ちを育み、隣人を楽にしてあげる(働く・・はたを楽にする)力を養っていきたいです。
そのためには、玄米をよく噛んで消化していくように、どんなことがあっても笑顔を絶やさず、お互いを認め合っていくことが大切です。
己の幸せだけを望んでも、まわりが不幸せでは幸せになれるはずがないのです。
滅私奉公という言葉がありますが、いかに己を出さないようにコントロールするかが行であり道であるとわたしは思います。
無何有庵に訪れる全ての方が、そう思っていただけることを心から願います。。
「無何有」は「無にして何ぞあらん」の意。つまり、超然悠然とした、自然のままの心境で、自然のままで何のこしらえもしないこと。そして、一見何もないようなところにこそ豊かな存在があるということです。
・・・・何もないこと、無為であること。しかしそこには価値観の転倒があり、一見無駄で役に立たないようなものほど実は豊かであるというものの見方を含んでいます。作為がなく自然なこと。また、そのような境地。
老子の無為自然(むいしぜん)の思想を継承・発展させ、理想郷は形あるものの無い世界、 人為の加えられない絶対無の理想の地というような意味をこめて、命名いたしました。
荘子に「虚室生白」という言葉があります。
部屋はからっぽなほど光が満ちる。何もないところにこそ自由な、とらわれのない心がある。
「無何有」はそんな荘子のとくに好んだ言葉で、何もないこと、無為であること。
そこでは普段の価値観がひっくり返される。何の役にも立たないと思われるものほど、豊かな存在なのだというわけです。
荘子の思想は老子の思想の後継であり、追随者といって過言でありません。終始一貫して老子の「道」と「無為自然」の哲学を守ります。しかしその表現となると、地味で玄妙で難解な老子の文章と異なり、奇想天外、お茶目で支離滅裂な誇大表現を致しますが、一方では誰にも分かりやすい教えを説くような人柄であったように感じます。
いずれにしても、無何有庵では、誰もが平等に楽しむことができ、学ぶことができ、表現することが出来るスペースであって欲しいと切に願います。
謙虚に、感謝の気持ちを育み、隣人を楽にしてあげる(働く・・はたを楽にする)力を養っていきたいです。
そのためには、玄米をよく噛んで消化していくように、どんなことがあっても笑顔を絶やさず、お互いを認め合っていくことが大切です。
己の幸せだけを望んでも、まわりが不幸せでは幸せになれるはずがないのです。
滅私奉公という言葉がありますが、いかに己を出さないようにコントロールするかが行であり道であるとわたしは思います。
無何有庵に訪れる全ての方が、そう思っていただけることを心から願います。。