マクロビオティックな歯医者さんの食と暮らし                   食養塾 無何有庵の日々

無(む)と空(くう)の癒しの時間の中で、心食動息の一つ一つを共に考えていきたいマクロビオティックなスペース。

見よぼくら一銭五厘の旗

2016年09月29日 15時14分19秒 | 庵主の日記
NHKの朝の連続ドラマ「とと姉ちゃん」も残すところあと2話になりました。
モデルとなった「暮らしの手帳」を初めて知ったのは21歳のとき。
ソウルメイト(と勝手に思っている)のお母さんの愛読書でした。
彼もまた、「暮らしの手帳」を大切に思っていて、ことあるごとに会話の中に登場しました。
そんなこともあって、「暮らしの手帳」は私にとっても大事にしている雑誌の一つです。
かの商品テストは、カタログハウスさんの通販生活という雑誌が手本にしているのは周知のことと思います。

NHKだけに、どこまで踏み込むのかなと思っていましたが、ラスト週で反戦の旗揚げとなりました。もちろん、とてもさらっと、ですが。松見歯科の待合室ライブラリーにも、暮らしの手帳の戦争特集の号を出していたのですが、どなたかお持ち帰りになられたのか、紛失中です(悲しい~;;)。

そんなやこんなやなので、花森安治氏の詩を全文で記したいと思います。
お読みください。

見よぼくら一銭五厘の旗

美しい夜であった
もう 二度と 誰も あんな夜に会うことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物もつけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして一面にちりばめられていた

昭和20年8月15日

あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた
 
どの夜も 着のみ着のままで眠った
枕許には 靴と 雑のうと 防空頭巾を 並べておいた
靴は 底がへって 雨がふると水がしみこんだが ほかに靴はなかった
雑のうの中には すこしのいり豆と三角巾とヨードチンキが入っていた
夜が明けると 靴をはいて 雑のうを肩からかけて 出かけた
そのうち 電車も汽車も 動かなくなった
何時間も歩いて 職場へいった
そして また何時間も歩いて家に帰ってきた
家に近づくと くじびきのくじをひらくときのように すこし心がさわいだ
召集令状が 来ている
でなければ
その夜 家が空襲で焼ける
どちらでもなく また夜が明けると
また何時間も歩いて 職場へいった
死ぬような気はしなかった
しかし いつまで生きるのか
見当はつかなかった
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか
戦争が終るかもしれない などとは
夢にも考えなかった
 
その戦争が すんだ
戦争がない ということは
それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし
戦争のないことは すばらしかった
 
軍隊というところは ものごとを
おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る
軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた
しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった
(じっさいには一銭五厘もかからなかったが……)
しかし いくら腹が立っても どうすることもできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘か
そうだったのか
〈草莽(そうもう)の臣〉
〈陛下の赤子(せきし)〉
〈醜(しこ)の御楯(みたて)〉
つまりは
〈一銭五厘〉
ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭五厘なのだ 
一銭五厘が 一銭五厘を
どなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も
鹿児島の部隊も おなじ冗談を おなじアクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りだされたら 
着いたその日に 聞かされたのが きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おくになまりの一銭五厘を聞かされた
 
考えてみれば すこしまえまで
貴様ら虫けらめ だった
寄らしむべし知らしむべからず だった
しぼれば しぼるほど出る だった
明治ご一新になって それがそう簡単に
変わるわけはなかった
大正になったからといって それがそう簡単に変わるわけはなかった
富山の一銭五厘の女房どもが むしろ旗を立てて 米騒動に火をつけ 
神戸の川崎造船所の一銭五厘が同盟罷業をやって
馬に乗った一銭五厘のサーベルに蹴散らされた
昭和になった
だからといって それがそう簡単に変わるわけはないだろう
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ と
どなられながら 一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた 
へとへとになって眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>
ぼくらだ 君らだ
 
あの八月十五日から
数週間 数カ月 数年
ぼくらは いつも腹をへらしながら
栄養失調で 道傍でもどこでも すぐに
しゃがみこみ 坐りこみながら
買い出し列車にぶらさがりながら
頭のほうは まるで熱に浮かされたように 上ずって 昂奮していた
 
戦争は もうすんだのだ
もう ぼくらの生きているあいだには
戦争はないだろう
ぼくらは もう二度と召集されることはないだろう
敗けた日本は どうなるのだろう
どうなるのかしらないが
敗けて よかった
あのまま 敗けないで 戦争がつづいていたら
ぼくらは 死ぬまで
戦死するか
空襲で焼け死ぬか
飢えて死ぬか
とにかく死ぬまで 貴様らの代りは一銭五厘でくる とどなられて 
おどおどと暮していなければならなかった
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって
日本にとって
あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年
おまわりさんは にこにこして 
ぼくらを もしもし ちょっと といった
あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って
かしこまりました なんとかしましょう といった
申し訳ありません だめでした といった
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわりと 七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります と
総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては まず国立劇場の立派なのを建てることです と大臣も にこにこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに ベニヤ板を
打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから 窓には
いろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに
家来たちは 大きな顔をして キャバレーで遊んでいた
 
いま 日本中いたるところの 倉庫や
物置きや ロッカーや 土蔵や
押入れや トランクや 金庫や 行李の隅っこのほうに
ねじまがって すりへり 凹み 欠け
おしつぶされ ひびが入り 錆びついた
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった
言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこちゃんなどといっしょに つっこまれたきりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)
いつのまにか 気がついてみると
おまわりさんは 笑顔を見せなくなっている
おいおい とぼくらを呼び
おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔をして いったい何の用かね といい
そんなことを ここへ言いにきてもダメじゃないか と そっぽをむく
そういえば 内閣総理大臣閣下の
にこやかな笑顔を 最後に見たのは
あれは いつだったろう
もう〈文化国家〉などと たわけたことはいわなくなった
(たぶん 国立劇場ができたからかもしれない)
そのかわり 高度成長とか 大国とか
GNPとか そんな言葉を やたらに
まきちらしている
物価が上って 困ります といえば
その代り 賃金も上っているではないかといい
(まったくだ)
住宅で苦しんでいます といえば
愛し合っていたら 四帖半も天国だ といい
(まったくだ)
自衛隊は どんどん大きくなっているみたいで 気になりますといえば
みずから国をまもる気慨を持て という
(まったく かな)
どうして こんなことになったのだろう
政治がわるいのか
社会がわるいのか
マスコミがわるいのか
文部省がわるいのか
駅の改札掛がわるいのか
テレビのCMがわるいのか
となりのおっさんがわるいのか
もしも それだったら どんなに気がらくだろう
政治や社会やマスコミや文部省や
駅の改札掛やテレビのCMや
となりのおっさんたちに
トンガリ帽子をかぶせ トラックにのせて 町中ひっぱりまわせば
それで気がすむというものだ
それが じっさいは どうやら そうでないから 困るのだ
 
書く手もにぶるが わるいのは あのチョンマゲの野郎だ
あの野郎が ぼくの心に住んでいるのだ
(水虫みたいな奴だ)
おまわりさんが おいこら といったとき おいこら とは誰に向っていっているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
しきりに袖をひいて 目くばせする
(そんなことをいうと 損するぜ)
役人が そんなこといったってダメだといったとき お前の月給は 誰が払っているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
目くばせして とめたのだ
あれは 戦車じゃない 特車じゃ と
葉巻をくわえた総理大臣がいったとき
ほんとは あのとき
家来の分際で 主人をバカにするな といえばよかったのだ
ほんとは 言いたかった
それを チョンマゲ野郎が よせよせととめたのだ
そして いまごろになって
あれは 幻覚だったのか
どうして こんなことになったのか
などと 白ばくれているのだ
ザマはない
おやじも おふくろも
じいさんも ばあさんも
ひいじいさんも ひいばあさんも
そのまたじいさんも ばあさんも
先祖代々 きさまら 土ン百姓といわれ
きさまら 町人の分際で といわれ
きさまら おなごは黙っておれといわれ
きさまら 虫けら同然だ といわれ
きさまらの代りは 一銭五厘で来る といわれて はいつくばって暮してきた
それが 戦争で ひどい目に合ったからといって 戦争にまけたからといって
そう変わるわけはなかったのだ
交番へ道をききに入るとき どういうわけか おどおどしてしまう
税務署へいくとき 税金を払うのはこっちだから もっと愛想よくしたらどうだ
といいたいのに どういうわけか おどおどして ハイ そうですか そうでしたね などと 
おどおどお世辞わらいをしてしまう
タクシーにのると どういうわけか
運転手の機嫌をとり
ラーメン屋に入ると どういうわけか
おねえちゃんに お世辞をいう
みんな 先祖代々
心に住みついたチョンマゲ野郎の仕業なのだ
言いわけをしているのではない
どうやら また ひょっとしたら
新しい幻覚の時代が はじまっている
公害さわぎだ
こんどこそは このチョンマゲ野郎を
のさばらせるわけにはいかないのだ
こんどこそ ぼくら どうしても
言いたいことを はっきり言うのだ
 
工場の廃液なら 水俣病からでも もうずいぶんの年月になる
ヘドロだって いまに始まったことではない
自動車の排気ガスなど むしろ耳にタコができるくらい 聞かされた
それが まるで 足下に火がついたみたいに 突如として さわぎ出した
ぼくらとしては アレヨアレヨだ
まさか 光化学スモッグで 女学生バッタバッタ にびっくり仰天したわけでもあるまいが 
それなら一体 これは どういうわけだ
けっきょくは 幻覚の時代だったが
あの八月十五日からの 数週間 数カ月
数年は ぼくら心底からうれしかった
(それがチョンマゲ根性のために
もとのモクアミになってしまったが)
それにくらべて こんどの公害さわぎは
なんだか様子がちがう
どうも スッキリしない
政府が本気なら どうして 自動車の生産を中止しないのだ
どうして いま動いている自動車の 使用制限をしないのだ
どうして 要りもしない若者に あの手この手で クルマを売りつけるのを
だまってみているのだ
チクロを作るのをやめさせるのなら
自動車を作るのも やめさせるべきだ
いったい 人間を運ぶのに 自動車ぐらい 効率のわるい道具はない
どうして 自動車に代わる もっと合理的な道具を 開発しないのだ
(政府とかけて 何と解く
そば屋の釜と解く
心は言う(湯)ばかり)
 
一証券会社が 倒産しそうになったとき
政府は 全力を上げてこれを救済した
ひとりの家族が マンション会社にだまされたとき 
政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし
考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが
一個人がどうなろうとかまわない
という式の考え方では 公害問題を処理できるはずはない
公害をつきつめてゆくと
証券会社どころではない 倒してならない大企業ばかりだからだ
その大企業をどうするのだ
ぼくらは 権利ばかり主張して
なすべき義務を果さない
戦後のわるい風習だ とおっしゃる
(まったくだ)
しかし 戦前も はるか明治のはじめから 戦後のいまも
必要以上に 横車を押してでも 権利を主張しつづけ その反面 なすべき義務を怠りっぱなしで来たのは
大企業と 歴代の政府ではないのか
 
さて ぼくらは もう一度
倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から
おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだしてきて 錆びをおとし 部品を集め
しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にするということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ
それが ほんとうの〈民主々義〉だ
政府が 本当であろうとなかろうと
今度また ぼくらが うじゃじゃけて見ているだけだったら
七十年代も また〈幻覚の時代〉になってしまう
そうなったら 今度はもう おしまいだ
 
今度は どんなことがあっても
ぼくらは言う
困まることを はっきり言う
人間が 集まって暮すための ぎりぎりの限界というものがある
ぼくらは 最近それを越えてしまった
それは テレビができた頃からか
新幹線が できた頃からか
電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか
とにかく 限界をこえてしまった
ひとまず その限界まで戻ろう
戻らなければ 人間全体が おしまいだ
企業よ そんなにゼニをもうけて
どうしようというのだ
なんのために 生きているのだ
 
今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ
ぼくらの代りは 一銭五厘のハガキで
来るのだそうだ
よろしい 一銭五厘が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり書いて出す 何通でも じぶんの言葉で
はっきり書く
お仕着せの言葉を 口うつしにくり返して ゾロゾロ歩くのは もうけっこう
ぼくらは 下手でも まずい字でも
じぶんの言葉で 困まります やめて下さい とはっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く
 
ぽくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後(あと)へひかない



見よぼくら一銭五厘の旗: 花森安治
この作品は花森安治(はなもりやすじ・1911-1978)が1970 年(昭和45 年)10 月の『暮しの
手帖』第2世紀8号に掲げた“宣言”です。

https://www.kurashi-no-techo.co.jp/books/b_1034.html

https://www.kurashi-no-techo.co.jp/books/b_1021.html

お待たせいたしました。食改善のための講座「理のコース」を再開します。

2016年09月16日 18時01分19秒 | 食事改善の基礎 理(ことわり)のコース



松見歯科で20年来続けてきました食改善のお話の講座ですが、諸事情で半年以上お休みさせていただいていましたが、ようやく再開させていただけることになりました。

新患さんの初診プログラムのカリキュラムのひとつである「理のコース」の食の話は、現代栄養学では語られることのない!、西洋医学の常識が揺らぐような、松見歯科だからこそお伝えできる内容が満載です。


一大ブームとなった糖質制限食や、酵素ジュース、スムージーなどなど、本当にカラダに良い健康法なのでしょうか!?

今回のお話のテーマは、<カラダを壊す糖質、カラダを守る糖質>。
間違いだらけの食の常識を深く掘り下げて、本来あるべき食のあり方をお伝えしたいと思います。

松見歯科のスタッフは、何がカラダに良くて、何がカラダを壊しているのかを日々患者さまを通して実感しています。そして、患者さまもご自身が被験者となって体感されます。臨床は、目に見えるエビデンスです。

もちろん健康な体を構成する要素は食だけではありません。色々な物をカラダに取りこんで構成されています。
でも、口から取りこむ物質としての食は、自然や社会のようなものとは違い、私たちが自由に選択できる無二のものかもしれません。

だからこそ、環境に左右されないような健康なカラダ作りの要として、食のあり方を少し学んでみませんか?

気になっていた不定愁訴や未病、持病や慢性疾患、重篤な症状など、窮屈な状態からもう少し解き放たれて、元気を取り戻す糸口になることと思います。


食改善の基礎<理のコース>

開催日  平成28年10月29日(土)
時 間  10:00~14:00(9:45集合)

参加費  756円(玄米ランチ付き・炊き方実習あり)


ご参加希望の方は必ず事前にお電話でお申込みください。
松見歯科診療所 087-881-2323まで。




そろそろ社会復帰しています。

2016年09月14日 18時51分29秒 | 庵主の日記
12日は母の月命日でした。
母が亡くなりもう半年になりました…。
母の葬儀にはたくさんのご厚情を頂きまして、ありがとうございました。
遅くなりましたが、心からお礼申し上げます。

私は、相変わらず実家暮らしではありますが、先月末から松見歯科の受付嬢をやってます(笑)
ご主人の転勤などでスタッフの退職が続き、ピンチヒッターというところでしょうか。
母の病気療養のため始めた実家暮らしですから、もう半年以上も高松の家を空けてしまいましたその間に、家も診療室もいろいろ大変なことになってます!!!
片付けや整理に、エンジン全開、ネジを締め直さねばな我が家ですが、こうして、少しづつ母の死を乗り越えて行くのかなと思っています。

実家は、33歳の時、母と一緒に暮らすために購入した小さな家ですが、私の結婚後は母が一人で暮らすことになり、寂しい思いをさせてしまいました。
でも、高台の緑豊かで静かな環境にあり、母はこの家をこよなく愛していたようで、亡くなる前には、手放さないで欲しいと何度も申していました。 母にとってこの家はまさに終の棲家となってくれました。私は母への返しきれない恩返し…少しは親孝行ができたでしょうか。

母が他界して半年。実家の暮らしは、母が生きていたという再確認の毎日でした。

娘に負担をかけまいと節約をしていた暮らしぶりはそこかしこに…
慎ましく、爪に灯りを灯すようにして、残さなくてもいい蓄えをしてくれていました。

一番好きだった椿の花を道連れに、まさに落椿の如く次の世界に旅立った母。
実生の種から芽を出した小さな樹々を屋根の高さほどに育てたり、挿し木をして大きくした数々の花々など、母が手入れをしてきた庭には、この半年、一度も絶えることなく季節、季節の花が咲きほころび、毎日が驚きと喜びにあふれていて、私を慰め守ってくれているかのように、母の温もりと面影を感じます。
花のひと…春の花を独り占めにして最期を選んだ母は本当に花が好きだったんだなぁと、庭に咲きほころぶ花の数々に、母と会話しているかのように話しかける毎日です。

遺品の整理は、物寂しい作業でしたが、ほぼ片付けが終わり、後は、庭に残された鉢植えの樹々を、高松の畑に移植する大作業が残っています。高松と丸亀を毎日、水やりに通うことは無理ですので、悲しいですが、プランターの花々はどこかで諦めなくてはなりません。私も鉢植えと共に、もう少し陽射しが和らぐ季節を待って、高松の家に帰る予定です。なので、今しばらくは高松の家に通勤ということになります。

来月には、食改善のお話「理のコース」も再開いたします。
少しづつこれまでの仕事を見直しながら
活動を始めたいと思います。

そして、離れ難い丸亀の家は松見歯科の《食養塾 無何有庵》の活動の一部を移して《養生塾 はーとりーと》というホリスティックリトリートの拠点となるべく活用して行きたいと考えています。

母の病気療養は、昨年4月末に末期ガンと告知されはじまりました。本人が医療介入を望まず、自宅でセルフケアと自然な手当てにより対応致しました。最期の2週間はベッドの上で過ごすことになりましたが、完全に寝たきりの介護は4、5日でした。骨転移による痛みはありましたが、手当てにより、比較的軽く済んだように思います。
母の看取りの経験は、もしかしたらどなたかのお役に立てるのかもしれません。きっと母は自分の療養の始終をオープンにすることを誇らしげに天国から見守ってくれることでしょう。そして、《養生塾 はーとリーと》としてこの家を活用することを喜んでくれると思います。
ここでは、自然のお手当法や、療養食の作り方、医療や介護施設、自治体の利用法や、介護技術の体験など、プロの方などのレクチャーなども頂き、そして介護や看護だけではなく、日々の暮らしの中で役立つセルフケア、予防、食改善のアドバイスができればと思っています。

また、具体的な計画が立ちましたらご案内いたしますね。

これからも、よろしくお願いいたしますヾ(@⌒ー⌒@)ノ