長野種馬所へ海軍岩村田飛行場建設

2022年08月13日 | 読書

戦争の体験を語れる方が年々少なくなってきています。

今年は沖縄返還から50年の節目の年。

本来ならば、もっと取り上げられるべきものだったのに、ウクライナに関心が行ってしまいました。

新聞ではずっと掲載されてはいたものの、身近で話題にあがることはありませんでした。

人は人の痛みには我慢ができるものなのですね。

 

昨日の講演。

私にとってはとても身近な長野牧場のことです。

そこに昭和20年4月に突如、飛行場建設の話が持ち上がりました。

海軍です。

日本には空軍はなかったのかしら・・・・・・無知ですね。

幅200メートル、長さ1500メートルの滑走路と、飛行機を隠すための地下格納庫を緊急に設置したい。

そりゃあ急に土地の提供を言われた方だって、簡単ではありません。

しかし逆らえる相手ではなく、6月には近くの小学校に部隊が入ってきます。

そして6月下旬には高等科全員軍作業に出勤となります。

高等科って5.6年生位ですか。

 

牧草を根から掘り起こし搬出して、40cmの盛土。根っこは子供が並んで手渡しで運び出したと回想にあり。

地均ししてローラーで地固め・・・・・・ローラーは1台あって女学校の生徒が兵隊と一緒に引いたと、これも回想。

滑走路の部分には石切り場・・・・・ここは石の産地・・・・・・から牛車で運んできたを、滑走路の周辺に積み上げたものを、手渡しで走路まで運ぶ。

石の量は、三井地区8000台、平賀地区5000台。

1台で1合2勺(3.6坪)の広さに敷ける計算なのか。

作業分担 安藤組 野沢高等女学校 三井国民学校 平賀村

平賀国民学校 岩村田高等女学校 岩村田中学校他地元の住民も動員。

まだ機械もない時代の上に物資不足であるから、もう人海作戦で子供まで動員したのだろう。

三井国民学校の学校日誌が残っていたと解析してくださった。

私たちもう77年前の字が読めない。

児童約140名が6月27日から日曜日も夏休みも無く、もちろん授業もなく作業に従事。

飛行場ではない時は農業の勤労奉仕。

体験者の回想。

児童は石を並んで手渡しで運ぶる

高等科2年の男子は、排水溝の土掘り、自分の身長まで掘るようにと。

地元の石工が集められていた。

海軍は、もうここと決めていたのでしょうが、地元にも種馬所にも唐突のこと。

この頃まともな飛行機が作れる状況ではなく、ベニヤで作られた飛行機。

飛行機の軍需工場が多くこの地に疎開してきていた。

松代には昭和19年11月から大本営の建設も始まっていた。

陸軍の士官学校も実質疎開してきた。

 

終戦になり、部隊は解散。

飛行場建設の工事もそのまま放置、当然撤去されることもなく。

講師は

〇唐突で無謀な飛行機計画であったが、だれもそれを口にできなかった。

飛行機は向かい風でなければ飛ばないのに、南向きの滑走路では、夏の一時期しか南風が吹かない地域である。

火山灰土の土地で、地下に格納庫を掘るのは不可(資材がない)と。

戦争末期になってこの国は迷走していたのだろうね。もう反対も意見も言えなかったと思う。

講師は最後に

8月は戦争のことを考え語り継いでいってもらいたいと締められました。

講師は佐久市臼田文化センターの上原美次さんです。

先生のお話に私の感想がまぜこぜです。

読みいただきありがとうございました。

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コメント (4)
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