子供がお祭りなり映画なりを楽しんで戻ってきたとする。待ち構えていた大人のインタビュアーが子供に「どうだった?」と訊ねる。子供はたいてい「面白かった」と答える。
そこでインタビュアーからすかざず出されのが「どういうところが?」という愚問である。子供は一瞬たじろぐ。当たり前である。子供にとっては全体が面白かったのだから。
子供は分析的に体験しているわけではない。からだ全体で体験しているのだ。そこに「どういうところが?」という分析をしいる質問である。多くの子供はなんとかやり過ごすけれども、答えはおざなりになる。そんな答えでもインタビュアーは満足する。
夏休みの読書感想文も同じである。「面白かった」だけでは済まされない。もっと何かを書かなくてはならない。仕方なく子供はあらすじを書いてお茶をにごすことになる。
「どういうところが?」という質問にに理路整然と答えるには才能が必要である。大人でも答えるのは難しい。しかし、この愚問はずっと続いている。
こんどテレビを、そのつもりで見ていてもらいたい。インタビュアーは子供に対して「どういうところが?」という質問を、懲りもせずに続けているはずだから。
そこでインタビュアーからすかざず出されのが「どういうところが?」という愚問である。子供は一瞬たじろぐ。当たり前である。子供にとっては全体が面白かったのだから。
子供は分析的に体験しているわけではない。からだ全体で体験しているのだ。そこに「どういうところが?」という分析をしいる質問である。多くの子供はなんとかやり過ごすけれども、答えはおざなりになる。そんな答えでもインタビュアーは満足する。
夏休みの読書感想文も同じである。「面白かった」だけでは済まされない。もっと何かを書かなくてはならない。仕方なく子供はあらすじを書いてお茶をにごすことになる。
「どういうところが?」という質問にに理路整然と答えるには才能が必要である。大人でも答えるのは難しい。しかし、この愚問はずっと続いている。
こんどテレビを、そのつもりで見ていてもらいたい。インタビュアーは子供に対して「どういうところが?」という質問を、懲りもせずに続けているはずだから。