院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

鶏頭論争

2012-12-13 06:55:34 | 俳句
 中学のときだったか、国語で俳句の授業があった。教科書に俳句がいくつか載っていた。うろ覚えだが、次の3句が出ていたように思う。

    芋の露連山影を正しうす  蛇笏

    遠山に日の当たりたる枯野かな  虚子

    鶏頭の十四五本もありぬべし  子規

 少年だったから、むろん各句の良さは分からなかった。しかし、前2句はなんとなく「こういうのが俳句なのだな」と思わせた。

 最後の「鶏頭の十四五本もありぬべし」だけは、まるで意味が分からなかった。これは、ただの報告ではないか。このようなのが俳句ならば、なんでも俳句になってしまうではないか、と思った。

 教科書に載っているのだから、さぞ名句なのだろう、分からないのは自分が未熟なせいだろうとも考えた。

 何十年も後になって、「鶏頭論争」というものがあったと知った。この句を駄作だと思ったのは私だけではなかったのだ。

 戦前、長塚節や斉藤茂吉などの歌人がこの句を称揚した。「子規句集」に編者の虚子も取り上げなかったこの句が、歌人たちによって日の目を見ることになった。

 戦後、俳人の志摩芳次郎が、この句はただの報告に過ぎないと指摘し、「花見客十四五人は居りぬべし」など、いくらでも類句が作れるとこの句を切り捨てた。私も同じ考えである。

 俳人の山口誓子や西東三鬼は、この句を「心の深処に触れた」と持ち上げた。しかし、この論は子規が病床でこの句を詠んだと知ってのことである。名前を伏せて素人の句会に出されれば、一顧だにされない句だと私は思う。

 だれが見ても駄句と分かるこの句に、ああのこうのと屁理屈をつけて持ち上げる了見が私には分からない。長塚節も斉藤茂吉も山口誓子も西東三鬼も自分の作品だけを作っていればよかったのだ。彼らの「鶏頭論」は私には、ほとんど妄想に思えてしまう。妄想が活発なのは詩人の資質でもあるが。