院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

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書評・滝川一廣著『学校に行く意味・休む意味』

2012-12-25 07:18:11 | 読書
 「学校に行く意味・休む意味」滝川一廣著・日本図書センター・1500円を読んだ。面白くて一気呵成に読んだ。おかげで今日の休日の半分が潰れてしまった。

 滝川は児童精神科医で現在、学習院大学の教授である。滝川の書くものは昔からそうだったが学者臭がしない。この本もそうである。

 本書は不登校を取り扱っている。不登校は一時騒がれたが、今は下火になっている。しかし、不登校の子供が減ったわけではない。

 学校は行くのが当然と思われていたころ、なぜか元気なのに学校へ行けないという一群の子供たちがいた。中学までは義務教育だから、親も教師も学校へ行かせるのに必死になった時代があった。当時は不登校は「病気」とされていた。

 やがて不登校への考察が深まり、ついに文科省が「不登校は病気ではない」と宣言した。それによって、不登校問題は一件終息したかに見えた。それは当然と言えば当然で、学校というシステムが「来なくてもよい」と宣言したのだから、不登校が問題とはならなくなったのだ。

 だが、そこに至るまでは、百家争鳴の議論が行われた。空回りのような議論が多かったと記憶する。根本に「学校は行くものである」という思い込みがあると、空回りは乗り越えられなかった。

 途上国の貧しい子供たちはいちように「学校へ行きたい」という。私はそれを、かなえられない希望は大きいのだな、くらいに思っていた。我が国の不登校は与えられすぎだから、かえって拒否するのだと思った。

 本書では滝川は学校というものが、どのようないきさつで出来たかにまで及んで考察している。滝川は「学校の聖性」ということを昔から言っていたが、本書でも「学校の聖性」が崩壊してきたことに触れている。庶民にとって、学校の権威がなくなって、逆にバッシングの対象にまでなっている現在、そんなところに子供が行きたいと思うだろうか?というのが滝川の主張のひとつである。

 滝川は多くはないが、いじめ問題にも言及している。その際、今年7月に起こったいじめ自殺について、警察の手が学校と教育委員会に入ったことを論じ、そこにマスコミや周囲が学校や教育委員会をいじめている姿を滝川は見た。この観点は私が7月にこの欄に書いた記事と同じである。

 だからというわけではないが、一読をお薦めする。本書は滝川特有のホンモノの議論で満ちており、このブログの愛読者なら巻置くあたわずになることは請け合いである。