院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

昭和30年代の農家は苦しかった(わが国の産業利権構造-3-)

2014-08-13 07:17:07 | 経済
 昭和30年代、すなわち「三丁目の夕日」の時代は都市経済が著しく発達しました。それに比べて、農村は経済発展から取り残され、大都市では高校進学率が50%を超えても、農村では子どもを高校にやるのは大変でした。「集団就職」には農家の口減らしという意味がありました。


(館林駅で集団就職の少年少女を見送る。(株)花膳(鶏めし)のHPより引用。)

 その少し前、歌謡曲の世界では島倉千代子の「東京だョおっ母さん」(昭32)や三橋美智也の「夕焼けとんび」(昭33)や守屋浩の「僕は泣いちっち」(昭35)が流行しました。いずれも東京に憧れる歌です。「夕焼けとんび」には「そこから東京が見えるかい?」ととんびに問いかけるシーンが出てきます。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(昭50)は守屋浩の歌の男女逆バージョンですね。

 極め付けは井澤八郎の「あゝ上野駅」(昭39)でしょう。集団就職をもろに歌った歌です。集団就職の映像がテレビでしきりに流され、私は父親から意地悪くも「おまえも中学を出たら、あのように働きに出られるか?」と問われ、沈黙するよりありませんでした。

 ですが、この時期に大都市へ出てきた若者で成功した者は稀有でした。たよる先輩も同僚もなく、多くは落ちぶれるか故郷へ帰ったといいます。戦前の丁稚奉公よりもひどかったともいわれます。丁稚奉公は制度として確立していましたが、集団就職は成算が不確かな実験に過ぎませんでした。

 都市と農村の所得の差、すなわち工農の所得差をなくすために食管制度が使われました。「生産者米価」、「消費者米価」という用語を聞いたことがある人は、けっこう年配です。簡単に言えば、米を市場価格より高く買い上げて、農業所得の少なさに補助が行われたわけですね。こうした補助のために農家は蝕まれていったのだと私は思っています。(つづく)