院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

高層ビルの貧乏性

2012-08-16 05:58:27 | 経済
 東京に高層ビルが続々と建っているけれども、あれは豪華でもなんでもない。

 東京は土地が高いから、上に伸ばしただけである。高層ビルの床面積に匹敵するほどの平屋なら豪華だが、高層ビルならば養鶏場みたいな過密空間に過ぎない。

 高層マンションは上に行くほど値段が高いというが、要するに一軒あたりの土地は一坪にも満たないだろう。高層階の住人は今は嬉しいかもしれないけれども、高層マンションはいずれスラム化する。億ションの住人は、建築の償却を考えると、ものすごい損をしている。

 マンション会社は眺望を売り物にしている。でも、そんなの価値でもなんでもない。庭木の一本も植えられるのが人間らしい生活である。

 ドバイは世界一の高層ビル、ブルジュ・ハリーファをなぜ建てたのだろうか?ドバイの土地代なんて知れているだろう。だとすると、あれは単なる成金趣味である。

 以上のようなことが言えるのも、私が地方の土地代が安いところに住んでいるからである。

森重文君のこと

2012-08-11 05:02:59 | 学術
 森重文君と気軽に呼んだが、私が彼を一方的に知っているだけで、彼の方は私のことを知らない。

 彼を知ったのは高校時代、「大学への数学」という少々マニアックな雑誌においてだった。この雑誌には、高校生にとって相当に難しい問題が載っていた。私はほとんど解けなかった。

 だが、どんな問題でも解いてしまう高校生がいた。それが森重文君である。その実力は驚異的で、雑誌にかかわる数学の先生をして、「怪物くん」と呼ばしめていた。私も驚いていた。

 森君は、小学校から算数、数学ともに100点以外は取ったことがないという。当然のことのように彼は京大数学科にはいった。それで、いったん彼の消息は私の視野から消えた。

 ふたたび出会ったのが、彼が数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞したときだった。あの広中平祐が受賞した賞である。日本人では3人しかいない。

 彼や私の受験年は、大学紛争のため東大と東京教育大(筑波大)の入試が中止となった年だ。彼は、東大の受験がなかったから京大へ行ったらしい。だがそれは、彼にとってかえって幸運だった。彼は京大だったからこそフィールズ賞が取れたと言われている。

 天才というものの人生行路を、森君は40年近くをかけて私に見せてくれた。

女性のハンディ

2012-08-10 05:31:49 | 文化
 昔、車夫や円タクの運転手に女性はいなかった。

 自動車の運転を女性がするようになったのは、モータリゼーションが始ってからだが、男性よりも遅れた。当時、女性は自ら運転が下手だと思い込んでいて、思い込んでいたからかえって運転が下手だった。

 今、オリンピックの種目を見ると、マラソンや陸上はもろんだが、女子の重量挙げやボクシングまである。すべての種目が女性でも行われるようになった。

 世の中全体がそうなってきて、女性の重機運転手や溶接工が見られるようになった。これらは、世界的な現象で、女性の首相が見られるようになったのと軌を一にしている。

 趣味の方面でも、歴史好きの女性は「歴女」、鉄道好きの女性は「鉄子」、登山好きの女性は「山ガール」、カメラ好きの女性は「写ガール」なぞと呼ばれている。昔は女性には珍しかった趣味だから、あえて名づけられたのだろう。

 一方、サウジアラビアなどは、まだ女性の運転が認められていない。だが、世界の趨勢には逆らえず、いずれはかの地の女性も解放されるだろう。

 だが、完全に男女が同じになるのは不可能である。当たり前のことだが、出産と授乳は男性には置き換えられない。

 仕事のスキルがもっとも鍛えられる時期と、出産授乳の時期が重なる。これがなくならないと、女性が男性と一般社会で伍していくのは難しいだろう。社会が今とはまったく別の体制とならない限り・・・。

オーケストラさえ「口パク」

2012-08-09 05:47:28 | 芸能
 激しいダンスを伴う歌手は、みんな「口パク」だそうだ。体を強く動かしていては、歌がまともに歌えないからだという。

 伴奏も当然カラオケだ。つまり、テレビを見ているわれわれは、音楽と歌に合わせた踊りだけを見せられているとことになる。

 先日、珍しくオーケストラ付きの歌番組を見た。そこで、オーケストラボックスに入っているオーケストラが、あまりに上手いので驚いた。

 ところが、伴奏には出てくるコーラスラインがいない。また、音だけ聞こえるマリンバがそのオーケストラに加わっていない。

 やっと、伴奏のオーケストラも「口パク」だと分かった。どおりで上手すぎるはずだ。

 最近のテレビの歌番組は、そこまでやるか?ということを、やるのである。

床屋が苦痛

2012-08-08 05:02:43 | 生活
 子供のころ床屋が苦手だった。一箇所にじっとしているのが苦痛だった。今でも苦痛だから、早く開放されたい一心でヒゲ剃りをパスすることもある。

 小学校の同級生が、床屋でなんの苦もなく大人しくしているのに驚嘆した。自分にはとてもあんなマネはできないと、その級友を尊敬した。

 日常臨床をやっていると、ときに美容院が我慢できないという患者さんがいる。とてもよく理解できる。床屋が我慢できないという患者さんはいない。美容院が床屋より3倍時間がかかるからだろう。

 私の友人は床屋が好きで、時間をかけてみっちり調髪してくれないと損をしたような気分になるという。こちらのほうが多数派かもしれない。

 ついでに言うと、私は温泉に長く浸かっているのが好きでない。さっさと済ませて、上がりたいから、温泉旅館は私にとってさほど心地よいところではない。だから、温泉旅館がビジネスホテルよりもずっと高価なのが、私には不満である。

「靴磨き」という職業

2012-08-07 04:57:10 | 社会
 街角に座って客の靴を磨く「靴磨き」という職業は私が成人してからもあった。

 戦後しばらくの間は、戦争孤児などが浮浪児化して、「靴磨き」をすることがあった。私も少年時代にそのような子どもたちを見たことがある(東京の人形町のあたりだったか)。これを流行歌にした「東京シューシャインボーイ」という歌まであった。

 イギリスでは産業革命後、貧富の格差が拡大してから、貧乏人が金持ちの靴を磨くことがあったらしい。とにかく「靴磨き」の仕事は客の足元にうずくまるような卑屈な姿勢をとらねばならず、貧富の差を強調するような光景となった。

 亡父は、人間の前に足を突き出して、その人間をかがませて靴を磨かせるのイヤだと、終生「靴磨き」を利用しなかった。

 その「靴磨き」もだんだん減少し、ついに絶滅した。20年ほど前のことだろうか。私が見たうちで最後まで残ったのは、東京丸の内地下街の「靴磨き」だった。地下道の一角にパーティションで一畳ほど区切られたスペースがあり、最後の「靴磨き」はそこで行われていた。そのうちに、そのパーティションも消えてしまった。

 「靴磨き」が絶滅したのは、むろんわが国が裕福になって、社会保障が充実したことがあるだろうが、本皮でない靴を履く人が増えて、需要がなくなったことも大きいだろう。

 亡父に習って、私も「靴磨き」を利用しないうちに、その職業そのものがなくなってしまった。

ベドウィンに見る「もてなし」と「敵意」

2012-08-06 05:07:41 | 日本語
2012-07-29 の記事で引用した精神科医の生田孝氏は同じエッセイの中でベドウィンの掟について述べている。

 ベドウィンは砂漠で出会った者は誰でも歓待するという。それが砂漠の民、ベドウィンの掟だそうだ。

 食糧や水がいくら少なくなっていても、砂漠では来客を歓迎する。そのこころは、来客を追い払って、砂漠で殺されるよりはマシだからだそうである。

 ここには「もてなし」と「敵意」が同時に存在する。「もてなし」と「敵意」は常に裏腹である。

 そのように考えると、hospitality と hostility が同根であっても、なんの不思議もないと生田氏は指摘している。

車夫(人力車引き)たちのオリンピック

2012-08-05 06:35:06 | スポーツ
 明治時代に日本のどこかで徒競走だかマラソンだかをやった。そうしたら上位を占めるのはいつも車夫だった。そこで、その大会では車夫を排除することになった。

 車夫は走るのが仕事だから、そういう人が大会にでるのはズルいとされた。車夫ならトップを占めて当たり前だというわけである。

 このときから、車夫は走りのプロだと見なされて、アマチュアの大会に出てはいけなくなった。

 オリンピックのアマチュアリズムも、このような事情から出てきたものだろう。昔はオリンピックにはプロは出られなかった。

 それが最近、あやしくなってきた。どんな種目でも、プロが存在すればプロが出てもよくなった。

 プロでもアマチュアに負けることがある。それで、プロが出てもよくなったのだが、元来プロはアマチュアには負けてはいけないものだった。プロはアマチュアよりも圧倒的に強かった。

 囲碁将棋の世界を見よ。プロとアマチュアの間には深い川があって、それはアマチュアには渡れない川である。

 オリンピックにプロが出てもよくなったのは、各国が是が非でも勝ちたいと思うようになったからではない。プロが弱くなっただけだ。

 プロとアマの境界が曖昧になったのは、なにもスポーツに限ったことではない。流行歌の世界も映画の世界も同じである。アマがプロのような顔をして出ている。

女優・津島恵子さん逝去

2012-08-04 08:21:59 | 芸能
 女優の津島恵子さんが逝去した。清楚な美人女優だったが、若い人には知らない方も多かろう。

 津島恵子さんは、私が小学校一年生のころ30歳そこそこなのに、ものすごいお屋敷に住んでいた。今の女優の億ションなんて、そのお屋敷から見ればウサギ小屋のようなものだ。

 なぜ私がそんなことを知っているかというと、そのお屋敷は私の住まいの近くにあったからである。むろん、私の住まいは三丁目の夕日に出てくるような、木造で隙間だらけの狭い家であり、住まいが近くでも格が全然違っていた。

 昔は(三丁目の夕日の時代は)貧富の差が、今よりもずっと大きかった。津島恵子さんの家は、敷地が広大なのに昼なお暗い鬱蒼とした林の中にあった。大きな門柱の中が林になっていた。その奥の見えないようなところに、瀟洒な家があり、それが津島恵子さんの自宅だった。

 近くには豪邸が並び、その中に小学校同級生で華僑のK君のお屋敷があった。すでに、この欄で述べたけれども、K君のお屋敷には室内に噴水があり、そのほとりに等身大の大理石の彫刻が置いてあった。

 K君のお屋敷には、右翼の大物、赤尾敏氏が出入りしていた。なぜ華僑と右翼の大物とが関係があったのか、今もって謎である。

 私が住んでいた住まいの一帯は、今はビルになっていて、老母がそのビルのごく一部のオーナーになっている。津島恵子さんの豪邸跡が今どうなっているかは知らない。

オリンピックの技

2012-08-03 05:15:59 | スポーツ
 人間は身体能力のすべてにおいて動物に勝てない。

 走りではチーターに勝てない。
 泳ぎはマグロに勝てない。
 ボールのキャッチでは犬に勝てない。

 だが、どんな動物もできないことが人間にはできる。

 たとえば、3回転ひねり。猫は高いところから落とすと、ちゃんと床を向いて着地するが、3回転ひねりで着地することはできない。

 たとえば、砲丸投げ。ゴリラは客席に向かって自分の糞を投げることがあるが、砲丸は投げられない。

 これらは人間が言語を使えることに関係がありそうである。どう関係があるのか、私の考察はまだ深まっていない。たとえば、イルカの芸をどう考えたらよいのだろうか?

選挙というシェア争い

2012-08-02 06:14:36 | 経済
 選挙で票を取るということは、選挙民という一定の消費者のシェアをどれだけ獲得するかということである。つまり、自分を買ってくれる人が多いほうが選挙の勝者である。

 だから、立候補者は「商品」と言って語弊があれば、「売り物」である。(これでも語弊があるかもしれない。)

 そのように考えると、これらの「商品」、「売り物」を、どれだけ買ってもらえるかという勝負になる。

 そこで、広告代理店の出番である。広告代理店は、どうやったら売れるかを考える商売である。ドリンク剤Aやドリンク剤Bを、どのように売り込めば買ってもらえるか、そんなことばかりを研究している。

 アメリカ大統領選挙では、広告会社がしのぎを削ることはよく知られている。広告会社がうまく売り込めば、その候補者は当選する。

 小泉元首相は劇場政治を行なったと言われている。ワンフレーズ・ポリティクスとか刺客などの言葉が流行った。そして、小泉さんは圧倒的に勝った。すごい売り込みの手腕だと思った。

 だが、小泉さんには広告代理店が付いていたという噂がある。だったら、うなづける。そして、政治家が広告代理店という広告のプロをブレーンにするのは、極めて自然なことで、悪いことでも何でもないと思う。

果実「アボカド」

2012-08-01 06:36:14 | 日本語
 食用にする果実「アボカド」の名称の由来は、メキシコの「アグアカテ」という果実らしい。

 つまり「アボカド」は日本での名称ということになる。

 この「アボカド」を「アボガド」と濁って呼ぶ人が多い。これは高校で習う化学の「アボガドロ数」の影響だと思うが、どうか?

 まあ、日本語として正しいのは今のところ「アボカド」の方である。でも、NHKの料理番組でも「アボガド」と呼んでいたから、そのうちに「アボガド」で統一されてしまうかもしれない。