院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

時代は死ななきゃ変わらない

2012-12-16 06:15:54 | 歴史
 学者は死ぬまで自分の学説を撤回しない。科学的な真実を突き付けられて、明らかに間違いだと指摘されても、学説をひっこめない。科学的な真実のほうが誤りだとまで言って、主張を曲げない。それが彼の「存立基盤」だからである。

 同じことが学問ではない領域でも見られる。女性を蔑視している人は、一生女性を下に見続ける。理屈ではない。彼の感情的な蔑視は死ぬまで続く。蔑視は理屈ではないから、そのような考え方を理屈で曲げさせようとしても、できない。

 世の中は漸進的に変わっていくのではない。同じ個人が女性に対する蔑視をやめるわけではない。その個人が死んで初めて蔑視がなくなる。つまり、蔑視する人が死に絶えることによって、やっと蔑視は消滅するのである。だから、世の中の考え方が変わるには一世代を要する。

 明治政府が四民平等を訴えても、平等にはならなかった。初めのうち士族の反乱などが耐えなかった。大名は爵位を与えられた。その後も戦前まで履歴書のような書類には「華族」「士族」「平民」の区別を記載する欄があった。「士族」は「平民」を下に見た。

 そのようなセンスの人が死に絶えても、「元華族」「元士族」という考え方は残った。概念として残ったのではなく、「元華族」は「元平民」にはとても住めぬ大邸宅に住んでいた。

 「元華族」が死んで、大邸宅が老朽化で壊され敷地が人手に渡って、やっと四民平等が実現された。それまで二世代を要した。私が子供のころには「元華族」という言葉は生きていた。

 時代は同じ人の中で変わるのではない。その人が死に絶えて変わるのだ。時代は死ななきゃ変わらない、と言っているのである。

前号までのあらすじ

2012-12-15 04:36:36 | 漫画
 現在の漫画雑誌には週刊だからだろうか、「前号までのあらすじ」というコラムがない。私が幼少のころの漫画雑誌は月刊で、漫画一つひとつに100文字か200文字程度の「前号までのあらすじ」が付いていた。

 この「あらすじ」が読めるような年齢になったころ、「あらすじ」の内容の濃さに驚いた。前号までのストーリーが、いっさいがっさい書いてある。これだけの文字数で、それまでの全ストーリーを言われてしまうと、自分が何か月もかかって読んできた行為はいったいなんだったのだろうと、気が抜けてしまった。

 むろん私は幼少だったから、上のように言語化できたわけではない。ただ、「気が抜けてしまう」という感覚ははっきりと覚えている。

 自分が手に汗を握って読んできた漫画は、こんな100文字程度の「あらすじ」でまとめることができるのか。大人ってなんて凄いんだろう。自分のこれまでの感動を100文字でまったく漏れなく言ってしまうなんて・・と思った。

 今、「前号までのあらすじ」がないのは、漫画が出版される頻度が圧倒的に多いことと、漫画の質が上がってしまって、微妙な表現が絵で表されており、文章にできないからかもしれない。

 昔の「あらすじ」は誰が書いていたのだろうか?漫画がまだ俗悪なものとして大人たちに受け入れられていなかった時代である。そんな中でも、あのように立派な「あらすじ」を書く編集者がいたことに、驚きの念をもつ私である。

だるま産業

2012-12-14 06:00:57 | 生活
 小学4年生のとき、群馬県前橋市に住む伯父のところへ遊びに行った。東京から前橋へは高崎で一回乗り換えなくてはならなかった。電化されていたのは高崎までで、高崎から前橋へはSLで行った。県庁の所在地なのにずいぶん田舎だなと思った。

 伯父の家には、大小のだるまが沢山あった。非日常的なだるまという張りぼての人形が、30個も40個も家に置いてあるのは異様だった。(当時の前橋の住宅がぜんぶこうだったとは言わない。伯父は必ずしも趣味がよい人とは言えなかった。)

 聞けば、高崎がだるまの名産地で、だるま市というのがあって、買っているうちに貯まったのだという。50年以上前の話である。

 だるまと言えば、選挙事務所に置いてある。昔は片目のだるまで、当選したらもう片方の目を墨で描いたものだが、昨今は片目のだるまは身体障碍者を連想させるので、最初から両目のだるまを置くようになった。

 このたびの総選挙で、高崎のだるま工場は大忙しになったそうだ。選挙が公示される前から生産に入り、フル生産にかかったらしい。

 そこで思うのは、もう50年以上も(いや、もっと前から)だるまだけを作って衣食している人がいるのだな、ということである。

 だるまという何の役にも立たないもの、床の間や玄関に飾るのにも似合わないものを作っている工場や職人がいるのだ。選挙の時だけ異常に忙しくなるだるま工場。このような「無駄な」産業をもっている我が国は、昔からほんとうに豊かだったのだと感に耐えないのである。

鶏頭論争

2012-12-13 06:55:34 | 俳句
 中学のときだったか、国語で俳句の授業があった。教科書に俳句がいくつか載っていた。うろ覚えだが、次の3句が出ていたように思う。

    芋の露連山影を正しうす  蛇笏

    遠山に日の当たりたる枯野かな  虚子

    鶏頭の十四五本もありぬべし  子規

 少年だったから、むろん各句の良さは分からなかった。しかし、前2句はなんとなく「こういうのが俳句なのだな」と思わせた。

 最後の「鶏頭の十四五本もありぬべし」だけは、まるで意味が分からなかった。これは、ただの報告ではないか。このようなのが俳句ならば、なんでも俳句になってしまうではないか、と思った。

 教科書に載っているのだから、さぞ名句なのだろう、分からないのは自分が未熟なせいだろうとも考えた。

 何十年も後になって、「鶏頭論争」というものがあったと知った。この句を駄作だと思ったのは私だけではなかったのだ。

 戦前、長塚節や斉藤茂吉などの歌人がこの句を称揚した。「子規句集」に編者の虚子も取り上げなかったこの句が、歌人たちによって日の目を見ることになった。

 戦後、俳人の志摩芳次郎が、この句はただの報告に過ぎないと指摘し、「花見客十四五人は居りぬべし」など、いくらでも類句が作れるとこの句を切り捨てた。私も同じ考えである。

 俳人の山口誓子や西東三鬼は、この句を「心の深処に触れた」と持ち上げた。しかし、この論は子規が病床でこの句を詠んだと知ってのことである。名前を伏せて素人の句会に出されれば、一顧だにされない句だと私は思う。

 だれが見ても駄句と分かるこの句に、ああのこうのと屁理屈をつけて持ち上げる了見が私には分からない。長塚節も斉藤茂吉も山口誓子も西東三鬼も自分の作品だけを作っていればよかったのだ。彼らの「鶏頭論」は私には、ほとんど妄想に思えてしまう。妄想が活発なのは詩人の資質でもあるが。

量り売りの記憶

2012-12-12 04:57:58 | 生活
 当地には惣菜を量り売りしてくれるスーパーがある。もしかしたら、量り売りは全国的な傾向なのかもしれないが、少なくとも名古屋のスーパーにはなかった。そもそも量り売りを放逐してトレーに詰めて売って、人件費を浮かせたのはスーパーだった。

 トレー入りは一人前分の品物がないと、独り者や独居老人には不評だった。今は一人前分がスーパーで買えるので、私は妻が留守の時に重宝している。

 スーパーが発達する前は、ほとんどすべての食品が量り売りだった。幼少のころ、油、醤油、酒は量り売りだった。三丁目の夕日の時代である。ビンをもって買い物に行かされた。

 酒屋には一斗樽が並んでいた。その樽の下の部分に穴が開いていて、そこに木の栓がしてあった。樽には油、醤油、酒がはいっていた。買いに行くと、店員が樽の下の栓を開いて、もってきたビンにそれらを詰めてくれた。

 味噌もパック入りというのはなく、これも樽に盛ってあって、シャベルですくって量り売りをしていた。豆は升で量り売りされていた。乾燥した大豆を一合升に入れて、盛り上がった部分を丸い棒で切って売られていた。

 ケチャップ、マヨネーズの量り売りというものはなかった。これらは、まだ新しい商品で、一部の上流家庭しか買わなかった。みなビン詰だった。

 惣菜の量り売りはなかった。なぜかというと、惣菜をのものが売っていなかったからだ。惣菜は各家庭で作るもので、出来合いのものが売られるようになったのは、ずっとあとのことである。

 スーパーが量り売りをするようになって、昔の商習慣を思い出した次第。

津波の歌

2012-12-11 05:34:11 | 教育
 東北地方で園児に「津波の歌」を覚えさせていると報道された。小さい時から防災意識を育てているとの好意的な報道だった。

 歌は「たかいところへ、にげましょう」、「いのちはじぶんで、まもりましょう」という内容だ。私は疑問に思った。園児にはまだ物事の全体を見ることができない。そんな園児に、津波は怖い、死ぬぞ、逃げろと叩き込むことに、どれだけ意義があるのだろうか?

 この歌は園児をいたずらに恐怖させるだけではないか?大人は津波に恐怖した。今後も恐怖しなければならないだろう。だが、園児にこの歌を教えることは、大人の恐怖を子供に分け与えることによって、大人の恐怖を軽減させているだけではないか?

 私が幼少のころ、衛生教育が盛んだった。学校の廊下にトラコーマ(眼病で眼球が赤くただれる)のカラー写真や、骨軟化症でぐにゃぐにゃになった全身骨格の写真が貼ってあって、小学1年生の私は恐怖した。

 あのときの恐怖が、その後の私の衛生観念をはぐくんだとは思われない。与えられたのは、ただ恐怖のみだった。

 トラコーマの写真も疑問だが、何十年何百年に一度来るか分からない「津波の歌」も疑問である。いずれも大人の自己満足ではないか?

劇場での飲食

2012-12-10 06:59:53 | 芸能
 中村勘三郎が亡くなった。先代の勘三郎は人間国宝だったという。人間国宝が出演する舞台を飲み食いしながら鑑賞できたのだろうか。少なくとも私が幼いころは、歌舞伎は飲み食いしながら観る娯楽だった。

 祖母に連れられて歌舞伎座に行ったときには、酒と重箱に入れた弁当を持って行った。弁当を食べながら観た演目は「土蜘蛛」だった。主役が蜘蛛の糸のような細い紙を撒くところだけ面白く、ほかは意味が分からなかった。

 場末の映画館には売店があって、そこで買ったせんべいや牛乳を飲み食いしながら映画を観た。当時から禁止されていたが、場内でタバコを吸っても注意されなかった。最近、映画館に行ったことがないが、今でも食い物を売店で売っているのだろうか?それを場内で食べてもOKなのだろうか?(たぶん駄目だろう。)

 学生時代、モダンジャズのライブハウスでは飲み食いしながら演奏を聴いた。たとえナベサダが来ても飲食した。演奏がよいと、客は大騒ぎをした。ところが、最近はそうでない。ライブハウスの客のお行儀がよくなってしまった。演奏が始まると、みな飲食をやめてしまう。演奏に対して声掛けをしない。拍手だけである。まるでクラシックの演奏会のようだ。

 昔、ライブハウスは飲食が主で、音楽はBGMに過ぎなかった。ところが今、ロックのライブでも音楽だけが主で、客はペンライトなどを持って音楽に集中している。大騒ぎはするが、それはアーティストが大騒ぎを奨励するからで、規律正しい大騒ぎである。

 大昔、歌舞伎役者は河原乞食と言われた。今は芸術家である。モダンジャズの演奏家も芸術家である。

 AKB48は昔なら「ジャリタレ」(砂利タレント)と言われたところだが、今やスターである。庶民に娯楽や暇つぶしを提供して食べていく人たちの社会的地位が格段に上がった。

 その代わりに、大学の教室で飲食しながら授業を聴いている学生が出てきたという。私の学生時代には信じられない行為である。学者先生よりも役者やミュージシャンの地位が高くなってしまったということだろうか?

消えた年金問題

2012-12-09 02:19:05 | マスコミ
 平成24年12月5日(水)の「報道ステーション」で「消えた年金」に関する報道をしていた。

 90歳近い古老(男性)の年金記録が消えているという。古老が戦時中に、ある会社に30ヶ月勤めた。会社との口約束で彼の年金負担金分は支払われていた。だが、現在その記録は残っていない。

 古老は執念で戦時中に消えた年金記録を捜したが、ない。古老の友人も同じような目にあっており、戦時中の年金記録が消えていたが、その記録を回復できないまま死去した。さぞ、くやしかっただろうと、その古老は涙を流した。

 「報道ステーション」は、このたびの「消えた年金」問題で、なぜこのようなドキュメントを放送したのだろうか?戦時中の混乱と、ここ数年問題になっている5000万件の「消えた年金」は無関係である。

 「消えた年金」の問題は、あくまでも昭和50年ころの年金帳簿のコンピュータ化が行われたときに起こった。当時、日本人でキーボードに慣れている人は一部だった。慣れない人々が年金帳簿をキーボードで入力した。慣れていないから入力ミスをしたのではない。やりたくなかったから仕事がおざなりだったのだ。

 入力業務をさせられた組合は、一定のストローク数を打ったら10分休憩させろと迫って、実現させた。いやいややっていたから、人名の読み方が分らないものは、テキトーに読んでひらがな入力をするという信じられないような仕事をした。ときには人名の入力さえ省くことさえがあった。

 現在、そのおかげで帳簿とコンピュータデータとの突合作業をしいられて、3000億円かかってもまだ半分しか同定できす、人名がないのだから残りは絶望的だという。

 だから、「消えた年金」問題はひとえに入力者(組合)の怠慢によるものであり、戦時中の混乱とは何の関係もない。つまり、今回の「報道ステーション」の報道は視聴者を混乱させ、真実を分らなくさせるだけである。「報道ステーション」のプロデューサーは、いったい何を間違えたのだろうか?それともたんに無知なのだろうか?

日本医師会とは何か?(4)

2012-12-08 06:48:25 | 医療
 三師会と呼ばれるものがある。医師会と歯科医師会と薬剤師会である。三師会とひとまとめにされても、相互交流があるわけではない。いずれも学術団体を自称しているが、利益団体である。

 別に看護協会という組織がある。これも利益団体で、寝たきり老人の喀痰吸引を家族以外の無資格者が行うことに頑強に反対したのは、医師会ではなく、じつは看護協会である。

 場合によっては医師会よりも看護協会のほうが強い。とにかく人数が圧倒的に違うからである。彼らは独自に国会議員を立てている。

 医師会はTPP参加に反対している。世界に冠たる国民皆保険制度が崩壊するというのがその理由である。国民皆保険制度は完全な計画経済で、それを牛耳っている健康保険支払基金と医師会は犬猿の仲である。

 しかし、医師会にとっては民間の保険会社よりも健康保険支払基金のほうが、まだ生ぬるい(査定が甘い)のである。民間の保険会社が医療に介入してくると、医師会は今よりも確実に利益が減る。だからTPPに反対しているのだ。

 医師会も看護協会も、トラック協会や遊技場協会と同じく職能団体である。つまり、圧力団体である。トラック協会が自らの利益を追求するするように、医師会も看護協会もどうどうと利益を追求すればよい。

 医師会は自らを学術団体だなぞと、変にきどる必要はもはやない。医業は聖職だと言われていた(錯覚されていた)時代は、すでに終わっている。パターナリズム(父権主義)が許されなくなって、患者も「すべてお任せします」とはならなくなったのだらから、あとは契約でクールにやるしか方法がないではないか。

(私は医師会の熱心な会員ではないので、医師会について誤った記述があるかもしれない。誤りがあればご指摘願いたい。訂正するのにやぶさかではない。)

日本医師会とは何か?(3)

2012-12-07 05:26:40 | 医療
 日本医師会は自らを学術団体であると言い張っている。確かに良心的な機関誌や学術雑誌を刊行してはいる。しかし、それらは当然のことながら総花的で、普通の学術団体のそれより専門性が少なく、専門医の参考になるようなものではない。

 最近「社会保障制度審議会」という諮問会議が国会に設けられたが、日本医師会の代表はその委員になれなかった。理由は日本医師会は学術団体ではなく利益団体だと規定されたからだ。この指摘は正しい。日本医師会は反発したけれども、容れられなかった。

 日本医師会員の年会費は年間約30万円と高い。このお金が何に使われていうかというと、もちろん機関誌や医師会館、医師会専従職員の報酬などに充てられている。だが、それでも多過ぎる。

 実は会費の多くの部分は政治献金に使われているのである。

 日本医師会は別に日本医師連盟という政治組織をもっているが、会員はすべて医師会員で、日本医師会と日本医師連盟は一心同体である。日本医師連盟から政治献金が行われる。

 これまで日本医師会は伝統的に自民党を支持してきた。しかし、このたびの総選挙では方針が変わった。日本医師会の考えに同調的な議員を支持し、政党は問わなくなった。

 誰を(どの党を)支持するかはわれわれ末端の医師会員は知らない。上層部の考えに任せているのが実情だ。

 日本共産党は配下の生活協同組合に政治色がないように、日本保険医協会という政治色が見えにくい医師組織をもっている。だから、反自民で日本共産党に共鳴する医師は、こちらのほうの組織に入っている。

 私は政治組織としての医師会や保険医協会には興味がないから、実はどちらにも所属したくないのである。

日本医師会とは何か?(2)

2012-12-06 06:57:59 | 医療
 私が7年前に開業したとき、日本医師会に加入したのは、惰性によるものだった。みんなとあまり変わったことがしたくないという、ただそれだけの動機だった。

 実際加入してみると、ほとんどメリットがないことが分かった。逆にデューティーを課せられた。

 学校医、休日急病診療所の当番、介護保険の審査員、産業医の派遣・・といったことは地域の医師会が受けもっていた。私は、会員の親睦委員会という部門と介護保険の審査員を割り付けられた。(幸い精神科医は休日急病診療所の当番を免除されている。なぜなら役に立たないから。)

 つまり、会費を払っているのに、直接自分の医業と無関係な仕事を割り付けられてしまった。メリットは会報が送られてきたり、インフルエンザの流行がこの地でどうなっているかといった情報が送られてくるだけである。精神科に必要な情報はなにもない。

 だから、本当は医師会を辞めたいのである。事実、開業して医師会に入らない医者もいる。当地は田舎だから、まだ医師会の組織率が高いが、大都市だと相当に組織率が低いと聞いている。

 医師会が地域の学校医や介護保険の審査員を引き受けていることによって、地域の医師会には発言力がある。これらから医者がみな引き上げてしまえば、地方行政は即困るからである。

 力が衰えたとは言え、日本医師会は国政にもまだ発言力を保っている。その源泉のひとつは団体献金である。次回はこれについて述べよう。

日本医師会とは何か?(1)

2012-12-05 05:07:40 | 医療
 勤務医時代、医者でない友人から「君は医師優遇税制があるからいいなぁ」と言われて困った。勤務医はただのサラリーマンで、医師優遇税制は適用されない。

 医師優遇税制は開業医に適用される税制であって、勤務医はその恩恵に浴せない。しかも、現在は開業医であっても、一定以上の収入があれば医師優遇税制は適用されない。

 私が医者になる前の医師優遇税制は、本当に「やり過ぎ」と思われるほどの優遇ぶりだった。開業医は(記憶違いかもしれないが)収入の半分くらいが無条件で所得控除されていたと思う。

 これらの税制は、当時の日本医師会長・武見太郎らの力だった。武見太郎は厚生大臣を呼びつけるほどの力をもってもいた。そのころ、何かを訴えて開業医が一斉にストライキを打ったことがあった。このストライキは国民にきわめて評判が悪く、その後の日本医師会衰退の一因となった。

 武見太郎の死によって、日本医師会の勢力はますます衰えた。現在でも医師優遇税制は残っているけれども、倒産防止のような税制で、かつての面影はない。(しかし、他の事業者よりは優遇されているのは確かで、開業医の倒産がないのはこの税制による。)

 勤務医で日本医師会に入っているのは病院長だけである。病院長でない勤務医はすべて日本医師会には入っていない。だから、医者イコール日本医師会員ではないことを強調しておきたい。

 それでは、日本医師会は開業医にとってどんなメリットがあるのか、おいおい述べていこう。

切符をチケットと呼ぶのは何故?

2012-12-04 05:20:23 | 日本語
 切符のことがチケットと言われ始めたのは案外古く、50年近く前、私が中学2年生のころだった。

 なぜそんなことを覚えているかというと、学校で売られているパンの購入を「チケット制にしよう」とクラスの秀才が訴え始めたからである。チケットって何?と思った。まだ ticket という単語を習う前だった。

 チケットが分からないから、秀才が何を求めているのか分からなかった。後になってチケットは切符のことだと知ったが、現金の代わりに切符制にするメリットが分からなかった。(未だに分からない。回数券のようにオマケが付いた覚えがない。)

 その後、「チケット」はすたれずに生き残って、現在ではプレイガイドで売っているものはすべてチケットである。コンサートの切符とは言わない。コンサートのチケットと言う。

 だが、それ以前はすべて「切符」と言ったのだ。映画も演劇も全部、「切符」だった。飛行機も切符だった。電車は未だに切符だから、なぜそれ以外のものをチケットと称するようになったのか、理由が分からない。

 いま「尊敬」のことを、わざわざ「リスペクト」と言う。どうしても外来語でないと意味が通じにくい用語は存在する。でも、切符、尊敬をあえて外来語で言う必要性を感じない。「リスペクト」は50年後も生き残っているだろうか?

名古屋の100メートル道路

2012-12-03 06:12:15 | 社会
 名古屋を東西に走るだだっ広い道路がある。あまりに幅が広いので名古屋の人はこれを(幅が)100メートル道路と呼ぶ。

 この道路は、先の大戦で名古屋が焼け野原になったときに、当時の市長が強引に(?)に造ってしまったそうだ。焼け野原に幅が100メートルの道路を造ったので、気がふれたかと市長は当時袋叩きにあったらしい。

 ところが時下ってモータリゼーションの時代になると、100メートル道路は他都市に類を見ない立派な道路となった。車が急増し、道路の需要が飛躍的に高まった。そこで初めて名古屋市民はその市長の先見の明をたたえた。

 最近はどうか?100メートル道路は名古屋を南北に分断してしまって、名古屋の発展を妨げているといわれるようになった。

 100メートル道路があったので今の名古屋の繁栄があるのではないか?今頃になって100メートル道路が邪魔だとは、あまりに身勝手である。いつの世でも、有権者は勝手なものだなあと、総選挙を前にして嘆息する。

意味の入れ違い

2012-12-02 05:01:32 | 日本語
 5年前のに書いたことだが、お忘れの方が多いと思うので、もう一度書く。

 「納豆」と「豆腐」は、どこかで意味が入れ違ったのではないか?

 「豆腐」は豆を腐らせるのだから、元来は納豆のことを指していたのではないか?そして、「納豆」は豆を納める(詰める)のだから、豆腐のことを指していたのではないか?

 「晒す」と「泊まる」も、どこかで意味が入れ違ったようだ。

 「晒す」は日が西に来るのだから、泊まることではないか?「泊まる」は水で白くするのだから、晒すというのが元来の意味ではないか?