上田雅利さんと言われてもその節の人でなければご存知ないだろうが、今年デビュー40年を迎えて解散したバンドを集結して全国コンサートを展開中のニューミュージック時代をきりひらきリードしたバンド、チューリップのドラマーだ。
先月大阪公演のあと眼に異常を訴えて失明の危機もある網膜はく離と診断され緊急手術を受けた。手術直後のコンサートは満足に視界もないまま(本人ブログ)移動をスタッフに支えられながら何とか乗りこなした。同コンサートでは来場者に緊急手術後を感じさせないものだったと言われる(本人はブログでおわびのコメントを発表)。
生来から眼に難病をかかえての光線を調整(adjustment)するためのサングラスが欠かせないドラマーとしての活動だった。
チューリップはアマチュア時代からコンポーザー、ミュージシャンの財津和夫さんが福岡のアマチュアミュージシャンを集めてつくったバンドなのでチューリップの誰もが財津和夫さんに尊敬の念を抱いているのは当然だが、その中でも上田さんは自らの言葉でコンポーザー、ミュージシャン「財津和夫」への敬意(respect)を発信しているひとりだ。
「財津さんのアマチュア時代の未発表曲にはすばらしい曲がたくさんある」と評価して、財津さんの全国ソロコンサートにもドラマーとして参加したことがある。
ドラマーの方(かた)は総じてそうだけれど、上田さんは日常の基本練習を欠かさずにそのための体力づくりのランニングも日常化して大変練習熱心なドラマーです。
その上田さんが実はチューリップ8年目の80年1月にメンバーとして最初にチューリップを脱退している。その深層心理は知るよしもない。
当時の財津和夫さんはニューミュージックのリーダーとして自ら時代と音楽をきりひらいた音楽への強い想い、完成、向上心が強く、関係者の話によるとコンサート終了後に毎回のように反省会を開いていた。それが1時間を超すこともよくあって、財津さんがコンサート終了後シャワーをあびて濡れた身体にバスローブを巻いて素足に靴をはいたままメンバーの前にあらわれて反省会ということもあったという。
後になって1997年以降の集結したチューリップのコンサートでリハーサルスタジオを訪れたチューリップと縁の深い元東海ラジオディレクターの塩瀬さんが、わきあいあいに打ち合わせをする財津さんを見てチューリップの安部さんに「あんなやさしい財津くんを見るのは初めてだ」と言うと、安部さんも「ぼくも初めてです」という話も伝わっている。
そんな財津さんの音楽に懸ける一途な想い、プレッシャーに反発しての上田さんの脱退だとすれば、財津音楽を高く評価、発信、尊敬している姿勢とのあまりのギャップの大きさにこれは不釣り合いだ。
この時に財津さんと学生時代からの親友で一緒にチューリップをつくりあげたベースの吉田彰さんも脱退している。吉田さんはその後チューリップとは感情的にも距離を置いてきた。
そうだとすれば、日本のビートルズを目指してつくったチューリップが「心の旅」のヒットでレコード会社、所属事務所の意向でアイドル路線に軌道修正されたことが誘因とも考えられる。
財津さんは「心の旅」ヒット後、独自の音楽観を主張して財津音楽の高い音楽性のもとに「青春の影」、「サボテンの花」、「虹とスニーカーの頃」と名作を発表して、音楽性の高いチューリップ・サウンド・ストーリーを実践して自らの音楽人生を歩んできた。
ともあれ、40年のチューリップの歴史(実働18年)の中でバンド在籍8年の上田さんだが、発信するチューリップ、財津サウンド、コンサートにかける想いはメンバーと同じだ。準備も怠りない用意周到だ。
予測の出来ない眼の病状でコンサート期間中の緊急手術となったがやむを得まい。その想いは欠かすことができない。
これから東京、福岡、名古屋と今年のチューリップコンサート(来年夏まで続く予定)の佳境、メインストリートに入ってきて、今こそ上田雅利にラブコール(love call to Ueda)を。
先月大阪公演のあと眼に異常を訴えて失明の危機もある網膜はく離と診断され緊急手術を受けた。手術直後のコンサートは満足に視界もないまま(本人ブログ)移動をスタッフに支えられながら何とか乗りこなした。同コンサートでは来場者に緊急手術後を感じさせないものだったと言われる(本人はブログでおわびのコメントを発表)。
生来から眼に難病をかかえての光線を調整(adjustment)するためのサングラスが欠かせないドラマーとしての活動だった。
チューリップはアマチュア時代からコンポーザー、ミュージシャンの財津和夫さんが福岡のアマチュアミュージシャンを集めてつくったバンドなのでチューリップの誰もが財津和夫さんに尊敬の念を抱いているのは当然だが、その中でも上田さんは自らの言葉でコンポーザー、ミュージシャン「財津和夫」への敬意(respect)を発信しているひとりだ。
「財津さんのアマチュア時代の未発表曲にはすばらしい曲がたくさんある」と評価して、財津さんの全国ソロコンサートにもドラマーとして参加したことがある。
ドラマーの方(かた)は総じてそうだけれど、上田さんは日常の基本練習を欠かさずにそのための体力づくりのランニングも日常化して大変練習熱心なドラマーです。
その上田さんが実はチューリップ8年目の80年1月にメンバーとして最初にチューリップを脱退している。その深層心理は知るよしもない。
当時の財津和夫さんはニューミュージックのリーダーとして自ら時代と音楽をきりひらいた音楽への強い想い、完成、向上心が強く、関係者の話によるとコンサート終了後に毎回のように反省会を開いていた。それが1時間を超すこともよくあって、財津さんがコンサート終了後シャワーをあびて濡れた身体にバスローブを巻いて素足に靴をはいたままメンバーの前にあらわれて反省会ということもあったという。
後になって1997年以降の集結したチューリップのコンサートでリハーサルスタジオを訪れたチューリップと縁の深い元東海ラジオディレクターの塩瀬さんが、わきあいあいに打ち合わせをする財津さんを見てチューリップの安部さんに「あんなやさしい財津くんを見るのは初めてだ」と言うと、安部さんも「ぼくも初めてです」という話も伝わっている。
そんな財津さんの音楽に懸ける一途な想い、プレッシャーに反発しての上田さんの脱退だとすれば、財津音楽を高く評価、発信、尊敬している姿勢とのあまりのギャップの大きさにこれは不釣り合いだ。
この時に財津さんと学生時代からの親友で一緒にチューリップをつくりあげたベースの吉田彰さんも脱退している。吉田さんはその後チューリップとは感情的にも距離を置いてきた。
そうだとすれば、日本のビートルズを目指してつくったチューリップが「心の旅」のヒットでレコード会社、所属事務所の意向でアイドル路線に軌道修正されたことが誘因とも考えられる。
財津さんは「心の旅」ヒット後、独自の音楽観を主張して財津音楽の高い音楽性のもとに「青春の影」、「サボテンの花」、「虹とスニーカーの頃」と名作を発表して、音楽性の高いチューリップ・サウンド・ストーリーを実践して自らの音楽人生を歩んできた。
ともあれ、40年のチューリップの歴史(実働18年)の中でバンド在籍8年の上田さんだが、発信するチューリップ、財津サウンド、コンサートにかける想いはメンバーと同じだ。準備も怠りない用意周到だ。
予測の出来ない眼の病状でコンサート期間中の緊急手術となったがやむを得まい。その想いは欠かすことができない。
これから東京、福岡、名古屋と今年のチューリップコンサート(来年夏まで続く予定)の佳境、メインストリートに入ってきて、今こそ上田雅利にラブコール(love call to Ueda)を。