(1)市民が裁判に関わるのは裁判員裁判よりは検察審査会のようなチェック機関がふさわしいと書いたが、裁判員裁判による1才児虐待死事件での「求刑の1.5倍」の罪刑判決に対しての是非について争われた上告審判決で最高裁(the supreme court)はこれを「不当」として破棄しいづれも求刑どおりの判決(報道)を言い渡した。
裁判に「市民感情(civilian feeling)」を入れて、いかして社会正義のパラダイム(paradigm)をより現実的に判断しようという大義名分ながら、実は複数の公判を同時に抱える裁判官台所事情の解消のために取り入れられたのが裁判員裁判制度だ。
(2)法科大学院設置のうえ新司法試験による裁判官の育成が思ったほど合格率があがらずに思惑外れに終わり、10年連続で犯罪が減少しているとはいえ日本も個人権利、社会利益保護主張を裁判で争う傾向が増えて比較裁判官不足が司法課題ともなっている現実だ。
冒頭の裁判員裁判「求刑の1.5倍」の罪刑判決に対して争われた上告審で、最高裁は「他の裁判結果との公平性が保たれた適正なものでなければならず」(報道)と判例比較を重要視してそのうえで「従来の量刑傾向を前提とすべきではない事情が具体的、説得的に示されるべきだ」として「1.5倍」の判決が「具体的、説得的な根拠が示されているとは言い難く甚(はなは)だしく不当」(同)としてこれを破棄した。
(3)つまり司法シロウトの「市民」に裁判参加を求めて、現実社会での社会正義の「市民感情」を裁判にいかそうという裁判員裁判制度に極めて高度の専門的な司法判断、理由、説明を強く求めるという相矛盾した最高裁の裁定だった。
もちろん裁判員裁判といえども人の未来の方向性を決める決定的な司法判断をするわけだから、罪刑の根拠判断、説明に甘いものがあっていいというものではない。パラドックス(paradox)としてそれが市民が裁判に関わる方法としての裁判員裁判の不適性を示すものだ。
(4)そのために裁判官も同時に裁判員裁判に参加しているわけで、そこで総合判断した判決に対して経験も知識もあるそして専門教育を受けた裁判官と同じレベルの高度に専門性の高い「司法判断」を求めるということになると、当初の高度な専門性、経験、知識、教育に頼るだけでない社会正義の現実的「市民感情」を裁判にいかすという大義名分に反する、最高裁の「自己批判(self criticism)」という判断になる。
国民の中からアットランダムに選ぶ裁判員に司法の高度な専門性、経験、知識、教育を求めるなどできないのが裁判員裁判の制度だ。
(5)最高裁は過去の判例、量刑傾向を共通認識として評議を深める(報道)ことを求めているが、そもそも裁判員裁判制度はそういう従来の裁判官のプロ意識に対して「市民感情」であたらしい司法判断に風穴を開けようというのも趣旨ではなかったのか。
そうでなく今回の最高裁が言うような司法論展開では、やはり経験も知識も判断、専門教育もある裁判官で公判を維持すべきだとなる。
裁判に「市民感情(civilian feeling)」を入れて、いかして社会正義のパラダイム(paradigm)をより現実的に判断しようという大義名分ながら、実は複数の公判を同時に抱える裁判官台所事情の解消のために取り入れられたのが裁判員裁判制度だ。
(2)法科大学院設置のうえ新司法試験による裁判官の育成が思ったほど合格率があがらずに思惑外れに終わり、10年連続で犯罪が減少しているとはいえ日本も個人権利、社会利益保護主張を裁判で争う傾向が増えて比較裁判官不足が司法課題ともなっている現実だ。
冒頭の裁判員裁判「求刑の1.5倍」の罪刑判決に対して争われた上告審で、最高裁は「他の裁判結果との公平性が保たれた適正なものでなければならず」(報道)と判例比較を重要視してそのうえで「従来の量刑傾向を前提とすべきではない事情が具体的、説得的に示されるべきだ」として「1.5倍」の判決が「具体的、説得的な根拠が示されているとは言い難く甚(はなは)だしく不当」(同)としてこれを破棄した。
(3)つまり司法シロウトの「市民」に裁判参加を求めて、現実社会での社会正義の「市民感情」を裁判にいかそうという裁判員裁判制度に極めて高度の専門的な司法判断、理由、説明を強く求めるという相矛盾した最高裁の裁定だった。
もちろん裁判員裁判といえども人の未来の方向性を決める決定的な司法判断をするわけだから、罪刑の根拠判断、説明に甘いものがあっていいというものではない。パラドックス(paradox)としてそれが市民が裁判に関わる方法としての裁判員裁判の不適性を示すものだ。
(4)そのために裁判官も同時に裁判員裁判に参加しているわけで、そこで総合判断した判決に対して経験も知識もあるそして専門教育を受けた裁判官と同じレベルの高度に専門性の高い「司法判断」を求めるということになると、当初の高度な専門性、経験、知識、教育に頼るだけでない社会正義の現実的「市民感情」を裁判にいかすという大義名分に反する、最高裁の「自己批判(self criticism)」という判断になる。
国民の中からアットランダムに選ぶ裁判員に司法の高度な専門性、経験、知識、教育を求めるなどできないのが裁判員裁判の制度だ。
(5)最高裁は過去の判例、量刑傾向を共通認識として評議を深める(報道)ことを求めているが、そもそも裁判員裁判制度はそういう従来の裁判官のプロ意識に対して「市民感情」であたらしい司法判断に風穴を開けようというのも趣旨ではなかったのか。
そうでなく今回の最高裁が言うような司法論展開では、やはり経験も知識も判断、専門教育もある裁判官で公判を維持すべきだとなる。