いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

虐待と教育の無償。 cruelty and education without compensation

2019-09-03 20:16:28 | 日記
 (1)子どもへの親などの悲惨な虐待(cruelty)が止まらない。警察、児相、自治体は事実を隠したり、伝えず、相変わらずの責任の押し付け合いで事態は一向に改善される気配もなく、本気で子どもを守る、救う気持ちがあるのか、子どもの命、未来が代償の情けない無念の気持ちだ。

 国は消費増税分で子どもの教育の無償化(education without compensation)で子育てを支援することを表明しているが、「こんな」家庭、親にも国の支援が及ぶのかと思うと国民投資(税負担)者としては複雑な思いにもなる。

 (2)もちろん国は同事件のたびに子ども虐待に対して対策を指示しているが、実効性がないのは痛ましい子どもの虐待がくり返されることであきらかだ。問題もはっきりしている。
 警察、児相、自治体の連携不足に責任の押し付け合いで、本当に子どもを守る、救う気概、気構えが見えないことだ。

 本ブログでもいじめ問題で学校、(問題)家庭、教委の連携強化、連絡会、報告会が必要だと書いたが、子ども虐待でも警察、児相、自治体の連携強化会議が必要だ。

 (3)責任の押し付け合いは認めずに、情報の共有性、問題の共通性、認識性、三位一体の対応が必要だ。自治体には子どもの虐待は出さない決意、気構えが必要で、専門窓口、担当常設で対応することを考えなければならない。

 国も子どもの教育の無償化で子育てを政策として支援するなら、それが有効に行き渡るように、活用できるように国と自治体が協力して法案整備も含めて強い決意で対応するしかない。
 「あおり運転」の防止に向けた対策、対応と同じで、国が主導して法整備、人員確保で守らなければならない子どもの未来だ。

 (4)そうしなければ国民投資(税負担)の教育無償化はいきたものにはならない。現在の体制では「子ども虐待」と「子どもの教育支援(教育の無償化)」が混在して足を引っ張り合うというパラドックス性だ。

 教育の無償化、公平公正な支給を考えるならば、まずは家庭教育の充実だ。それは法律に親の懲罰権があるからとしつけに名を借りた虐待を招くというお門違いの論点の問題ではなく、むしろ親として子どもを育てる「責任」論としての家庭教育の必要性だ。

 (5)親の資格というものがどういうものかは決めつけることはむずかしいが、成人になるまで育てる責任、義務(養育権)はもちろんどの親にもあり、国の責任として教育の無償化以前に親の子育ての責任、義務化をよりはっきりと示すことだ。

 国としても自治体としても国民としても、子どもの虐待を出さないという気概、気構えが足りない。

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