(1)音楽のCDとライブ音は同じ音を出しても、全然違う。ライブ音は音を増幅させているのでボリューム(volume)、ダイナミズム(dynamism)があり、伝わる幅が大きくその分音階はひろがる。CDのようにち密さ、正確さはないが、感情、感覚の接点は大きく伝わる力、訴える力は大きい。
(2)感動、グルーブ感につながる力だ。この人間の力を「いいかげんさ」(at random)とみなしているが、人間の「いいかげんさ」は余裕であり、機械のようにち密さ、正確さにしばられない大きな感覚、感情の幅を構成していると考える。
(3)この人間の「いいかげんさ」、「余裕」こそが機械、無機質(生命のない物質)なものにない大きな人間の能力、力だ。機械にはなくて人間にあるものを専門分野では「ゆらぎ」というそうだが、「ひらめき」にもつながる。
「幅」の大きさ、余裕は、機械にはなく人間にある特性だ。機械は幅の大きさをできるだけ小さくしてち密さ、正確さを求めるものだが、人間の「ゆらぎ」はいいかげんさ、余裕をもたらすと考える。
(4)人間は自由であり、想像的であり、いいかげんである。AIでもまだ小説を書くことはできないといわれて、人間がAIをしのぐ数少ない能力でもあるが、多分そのうちAIも経験値を集積してその能力を持つようになることであろう。
(5)この人間の「ゆらぎ」とAIが絶妙に重なり合うのが今日的将棋、碁の世界であり、AI時代の先頭を行く藤井聡太棋士(19)が初めて10代で全8冠中3冠達成という快挙を成し遂げた。これまでのあの羽生善治九段の22才を大幅に短縮するというから、実力ははかりしれないものがある。
機械、AIのち密さ、正確さに人間の余裕(ここではいいかげんさは遠慮しておくが)、ひらめき、ゆらぎが加わっているとすれば、「全能」と呼ぶにふさわしい能力、力だ。
(6)音楽では会場でCD、レコード盤を聞く鑑賞会はあるが、ライブでの音の幅、感情、感動には勝ることはまずない。人間のいいかげんさの能力、力であってもいいが、ライブ音のすばらしさは別にある。
人間のいいかげんさと書いてきたが、人間の存在、機能、分子、細胞の働きそのものもすべて解明されているわけでもなく(ほとんど解明されていないといっていいのかも)人間と機械を比較すること(comparative theory of mortal and machine)も無用なことで、それも人間のいいかげんさだ。
(2)感動、グルーブ感につながる力だ。この人間の力を「いいかげんさ」(at random)とみなしているが、人間の「いいかげんさ」は余裕であり、機械のようにち密さ、正確さにしばられない大きな感覚、感情の幅を構成していると考える。
(3)この人間の「いいかげんさ」、「余裕」こそが機械、無機質(生命のない物質)なものにない大きな人間の能力、力だ。機械にはなくて人間にあるものを専門分野では「ゆらぎ」というそうだが、「ひらめき」にもつながる。
「幅」の大きさ、余裕は、機械にはなく人間にある特性だ。機械は幅の大きさをできるだけ小さくしてち密さ、正確さを求めるものだが、人間の「ゆらぎ」はいいかげんさ、余裕をもたらすと考える。
(4)人間は自由であり、想像的であり、いいかげんである。AIでもまだ小説を書くことはできないといわれて、人間がAIをしのぐ数少ない能力でもあるが、多分そのうちAIも経験値を集積してその能力を持つようになることであろう。
(5)この人間の「ゆらぎ」とAIが絶妙に重なり合うのが今日的将棋、碁の世界であり、AI時代の先頭を行く藤井聡太棋士(19)が初めて10代で全8冠中3冠達成という快挙を成し遂げた。これまでのあの羽生善治九段の22才を大幅に短縮するというから、実力ははかりしれないものがある。
機械、AIのち密さ、正確さに人間の余裕(ここではいいかげんさは遠慮しておくが)、ひらめき、ゆらぎが加わっているとすれば、「全能」と呼ぶにふさわしい能力、力だ。
(6)音楽では会場でCD、レコード盤を聞く鑑賞会はあるが、ライブでの音の幅、感情、感動には勝ることはまずない。人間のいいかげんさの能力、力であってもいいが、ライブ音のすばらしさは別にある。
人間のいいかげんさと書いてきたが、人間の存在、機能、分子、細胞の働きそのものもすべて解明されているわけでもなく(ほとんど解明されていないといっていいのかも)人間と機械を比較すること(comparative theory of mortal and machine)も無用なことで、それも人間のいいかげんさだ。