いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

三位一体の沖縄論。 trinitarianism of okinawa affairs

2016-03-05 19:43:52 | 日記
 (1)辺野古移設問題では、裁判所に憲法にもとづく国民の平等な基本的人権の保障精神にのっとって「ガツン」と沖縄に過重の負担を押し付けるのは不平等であり、政府に対して米軍基地の県外移設を求める判断を示してほしいのが心境だ。

 翁長知事が前知事による辺野古埋め立て承認の取り消しをしたことに、政府がこれを停止する代執行を求めた訴訟で福岡高裁那覇支部が「窮余の一策」(the last resort)というか「和解案」を示して、国と沖縄県の対話促進、協議を求めたものだ。
 日米軍事同盟関係の米国、米軍を巻き込む国際的政治問題を含む高度な政治判断が求められる訴訟では、裁判所は三権分立の立場もあって多分に踏み込んだ判断はできにくいことが考えられる。

 (2)国と地方自治体(沖縄県)とが政策上の問題で訴訟に持ち込まれること自体が国の統治のあり方としては不自然な姿であり、地方自治の観点はあっても国と地方自治体が話し合いの上に解決策を模索するのは必要な統治形態であった。

 辺野古埋め立て問題では沖縄県と国が相互に訴訟合戦をくり広げて、裁判所としても判断のむずかしい立場に立たされていた。裁判所としては訴える利益があるのか手続き上の判断などいろいろな観点(政府の代執行の要件が満たされていない)から検討を重ねた末の窮余の「和解案」の仲裁裁定だったと考えられる。

 (3)安倍首相、官邸もその辺の事情を考えたのであろうか、裁判所の和解案が提示されて早くから米政府に政府関係者を秘密裏(報道)に派遣して調整にあたったとみられており、その結果としての今回の突然の安倍首相の和解案受け入れ表明だった。

 沖縄県の意向に近い辺野古埋め立て工事を中止して国と沖縄県が話し合い、協議を続けるというものだ。もちろんこれは裁判所の訴訟による決着を回避したい窮余の一策であるだけに、国と沖縄県との話し合い、協議で解決するような問題でもない。

 (4)政府は日米合意による辺野古移設が唯一の解決策との立場は重ねて主張しており、翁長知事は県外移設で県民の信任を受けたとして辺野古に基地をつくらせない主張を譲らない姿勢をあらためて示しているからだ。

 並行して焦点となるのは、代執行訴訟前に戻り翁長知事の前知事による辺野古埋め立て承認の取り消し判断の正当性だ。今後は和解協議の過程でこの問題が訴訟として浮上してくることが考えられているが、国も沖縄県も今後の裁判所の判断、判決には従うとしているので、辺野古埋め立て工事の再開を左右する重要判断になる。

 (5)翁長知事の裁量権の問題であり、早い司法判断を求めて辺野古移設問題の方向性を現実的にすべきだ。
 安倍首相としては秘密裏での早い段階での米国政府との調整接触で感触を得ての今回の突然の和解案受け入れ表明だったと考えられるが、米国は次期大統領予備選まっただ中でもあり次期大統領に誰が選ばれるかによって政治判断は分かれる。

 民主党政権が続けば政策的には現在と変わることは考えられないし、共和党政権とりわけ現在最有力候補とみられているトランプ候補が選ばれるということにでもなれば、その言動からも日米防衛負担はさらに厳しい注文が増えることになるだろう。

 (6)安倍首相としては国と沖縄県の和解協議を続ける中で、米国新政権の方向性を見定めての対応ということになる。最近、米国政府関係者からは普天間飛行場の移設計画の先延ばしの言及もあり(秘密裏の日米調整接触を配慮したものか)、今回の和解案受け入れで日本側としても当初の予定計画の見直しに迫られる。

 辺野古移設が障害となっても、普天間飛行場の早期の移設明け渡しが周辺住民の願いであり、和解協議で三方(国、沖縄県、宜野湾市民)の利益、三位一体を共有できる話し合いにできるのかが注目される。

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難民五輪選手団。 olympic team belongs to the poor and needy

2016-03-04 20:07:41 | 日記
 (1)日本の女性スポーツ界をけん引する卓球とサッカーが世界選手権と五輪最終予選という大事なゲームを同時期に戦っている。これまでの結果は好対照で福原愛(27)、石川佳純(23)、伊藤美誠(15)の卓球女子団体は準々決勝でドイツを破ってメダル(3位以内)を確実にした。

 一方の女子サッカーは長く日本女子サッカー界をけん引してきた澤穂希さんが昨年引退して、大黒柱の抜けた日本代表チームはアジアナンバーワンの実力ランクながら2ゲームが終わって勝利なしの1敗1分けで6チーム中5位と低迷している。
 上位2チームに与えられるリオ五輪出場資格は、日本女子サッカーの実力ランクに反して極めて厳しい状況に追い込まれている。

 (2)女子卓球日本代表は福原27才、石川23才、伊藤15才とベテラン、エース、若手と非常にバランスのいいチーム編成で、しかもベテラン福原、エース石川は実力に遜色もなく長らく日本代表として協力、連携、戦ってきた周知の間柄で経験、団結力、も高く、強く、特に団体戦では相乗効果(synergy)が作用して、高く働いての快進撃のように見える。

 (3)一方の女子サッカーは11年ワールドカップの優勝を澤さんの泥くさい体を張った戦いぶりと活躍、リーダーシップ力で果たして、アジアランクトップの評価ながらその財産の大黒柱の澤さんの引退であたらしいチーム編成の過渡期(a transition stage)を迎えて、女子日本代表としての戦い方に方向性が見えない中での手さぐり状態の中であれよあれよという苦戦のように映る。

 これまでの女子日本代表の評価、実力、ランクを受け継いでの今の日本代表は実力、評価「白紙」状態の中で期待だけが先行している機能不全結果が、硬さというか「きれい」に勝つ方法論にこだわってかってのメジャーではない日本女子サッカーを認めさせようというがむしゃらで泥くさい必死さがあまり伝わってきていない。

 (4)チーム編成の過渡期がリオ五輪出場を懸けた最終予選にかち合った不幸でもある。もちろんまだ本日の中国戦(前半を終わって1-0で負けている)を含めて3ゲームが残っておりリオ五輪出場が消えたわけでもないので、ここまできたら開き直ってかっての日本女子サッカー日本代表のようにがむしゃらで泥くさい戦いをするしかないだろう。結果は後からついてくるものだ。

 (5)IOCがそのリオ五輪に「難民五輪選手団」(olympic team belongs to the poor and needy)を財政支援の上に編成、結成して特別参加を認めることを決めた。
 中東、北アフリカなどからの大量の戦争、紛争難民が欧州を目指して支援、受け入れのあり方で国際問題化しているが、リオ五輪の年に非常に気の利いた(sensible)、タイムリーでインパクトのある人道上の(humane)配慮のある決定だった。

 (6)ドーピング問題で暗い話題の続くスポーツ、五輪組織、大会の中で、まさに戦争、紛争難民問題時代にワールドワイドな五輪精神性で自らの国から出場できない難民選手を財政、人的効果で支援しようという、久しぶりにあかるい実践、話題となった。

 各競技の出場資格を満たすことが条件で単に五輪に出場することに意義があるものでもなくて、多くの生命、安全、生活受難に苦しむ難民にとって大きな支え、励み、希望になることを願いたい。

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「まどろんだ」スキの過失とは。 what an accident of one moment into a doze

2016-03-03 19:29:37 | 日記
 (1)世界に類のない超高年令化社会を迎えている日本では、将来的に数百万人の認知症者が社会問題になることが考えられている。介護問題と同じようにそれ以上に認知症対策は政治、経済、社会にとって重要な課題となることは確実だ。

 少子高年令化社会の到来を早くから予測できながらほとんど効果的な対策を取ってこなかった政治、経済、社会であった。

 (2)結果として社会保障が成りゆかなくなり、財源不足を国家財政の大幅な赤字の積み重ねと今日的社会に消費税引き上げで国民の税負担投資に政治的不作為の責任を押し付ける無責任なやり方だった。

 同じ歴史をくり返してならない教訓だが、政府対策、対応も年金支給年令の先送りに減額のくり返しで効果的な対策がとれない現状だ。

 (3)認知症問題は経済と切り離すことはできない。認知症者を抱えて介護者も経済的負担が高く重く、介護と経済的自立(就業)を両立させなければならない人も多い。
 仮に自宅でつきっきりで認知症者を介護していても、四六時中目を離せないなどとはいかない。外出チェックセンサー、戸締りなど家庭、家族としても出来得る限りの事前事故防止の対応はしても、完全対策というものはない。

 ちょっとした(介護者が「まどろんだ」とか居眠りなどの)スキに認知症者が外出することは当然あるし考えられる。

 (4)その認知症者が踏み切りに立ち入ってJRの列車にはねられて死亡した事故で介護者の家族の監督責任が争われた裁判で、1審、2審は介護家族が「まどろんだ」過失(accident of one moment into a doze)があったとして同居の娘に監督責任があったとして、事故によりJR列車を止めたことによる損害賠償責任を認めた。

 最高裁まで争われて、最高裁は「同居の夫婦だからといって直ちに監督義務者になるわけではない」(判決報道)として介護家族に賠償責任はないとの判断を示した。

 (5)1審、2審の判断が介護家族の「まどろんだ」スキの「過失」という法的責任による損害賠償を求めるという教条主義的、法文絶対解釈に偏向した判断、判決を示して、「介護の実態を総合考慮して責任を判断」(最高裁判決報道)しなかったとして1審、2審の判断が最高裁で否決され確定した。

 最高裁による認知症者の事故責任に対する初めての判例であったので、1審、2審がただちに不条理(unresaonableness)な判断を示したということではなかったが、1審、2審と最高裁ではあまりの判断の落差に驚かされた。

 (6)今回の認知症者の事故責任は証拠能力、判断、解釈がどうのという問題ではなくて、介護家族の「まどろんだ」スキの過失(1審、2審の賠償責任認定判決)を認めるという法律上の解釈の問題であったから、これを否決した最高裁の司法判断、解釈とのこの質の落差の大きさは問題であった。

 裁判は公正で公平、不利益を回復する手段として3審制(1審、2審、最高裁)が採用されているが、どれもが裁判官、裁判員によって法律にもとづいて公正、公平に審理されるべきものであり、1審、2審の判断が軽く見られて最高裁の判断が(最終判断で確定判決ではあるが)とりわけ重いというべきものではないはずだ。

 (7)もちろん3審制のどれもが司法能力、判断力、適用力で水準能力を維持しているはずであるが、そう信じたいが、それでも証拠能力判断、解釈ならいざしらずに法文適用、解釈での判断水準でのこの落差だ。

 認知症者の介護家族の「まどろんだ」スキが過失責任を問われては、介護者の思い、心情、介護社会の現状不理解としかいいようがない。

 (8)JRは「会社の財産を守る観点から法令にのっとり公平に対処する」(報道)とこれからも認知症者の監督責任による事故責任の損害賠償を請求する姿勢だが、認知症社会問題化の中では踏み切り遮断機設置ぐらいでJRの責任が十分とはいえない社会構造性がある。

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米大統領選とオスカー。 a presidential election and oscar

2016-03-02 19:33:26 | 日記
 (1)米大統領予備選も前半の最大のヤマ場、天王山とみられるスーパーチューズディ(11州同時選挙)の投票が始まった。有力候補者のすべてがTPP交渉の合意に反対意思を表明しており、日本の経済動向にも注文が多く日本にとっても誰が民主、共和党の候補者選びでリード、抜けだすのかは無関心ではいられずに、日本の新聞でも特集が多く取り上げられている。

 (2)本日の新聞には民主、共和党の有力候補者の顔ぶれが写真付きで並べられている。悪役顔から若手ハンサムボーイに指を差して意味ありげな鋭い眼光を投げかける婦人、人生を達観したような物憂げな老人とまるで話題の映画のキャストをずらりと並べたかのような、見た目には重厚な布陣のシーンだった。

 (3)映画も世界的に斜陽化してハリウッドもスターウオーズの新作品が話題を集めたが、3D映画化とタブレット文化、情報化時代、社会の影響を意識したかのような作品の方向性で、重厚で脚本力、役者俳優の演技力で見せる映画作品は財政難といわれるアメリカ映画界からは伝わってこない。

 アメリカ映画界の最高の栄誉とされる今年のアカデミー賞が開催された。映画が斜陽化の中で時代はタブレット文化全盛で、今年の興味、関心はノミネート俳優がすべて白人ということになって黒人映画関係者から批判を受けてボイコット騒ぎになったことぐらいだった。

 (4)さらに米国大統領予備選真っただ中で冒頭のように幅の広い個性の強い「名優」たちが登場して全米の関心と注目を集めているとなれば、本家のアカデミー賞への関心もますます薄れていたのではないのか。

 そんなわけでもないのだろうが、アカデミー賞の主演男優賞のオスカー(oscar)に輝いたのはあのレオナルド・ディカプリオさんだった。映画「タイタニック」で二枚目俳優として世界的スターの仲間入りを果たして、これまでオスカーに5度ノミネートされて(報道)ようやくオスカー像を今年手に入れた。

 (5)今年作品賞ほか3冠の映画「レヴェナント 蘇(よみが)えりし者」で「荒野に置き去りにされ、復讐に燃える男を体当たりで演じた」(報道)ことが高く評価されてのオスカー受賞だった。
 報道によると司会者が今年のオスカー(金色)像は「白く」見えると今年の「白人」アカデミー賞の話題性を意識した発言も聞かれた。

 これまでは重厚な役柄にも取り組んでいたディカプリオさんだが「アイドルのイメージが定着」(報道)してアカデミー賞からは敬遠されていたといわれていた。

 (6)すべて白人俳優ノミネートで批判も受けた今年のアカデミー賞で、世界的な人気俳優のディカプリオさんの悲願のオスカー受賞で話題性を変えようとでもしたのではないのかとのいらぬ詮索もしたくなるほどだ。

 なにしろ全米は役者揃い(players are all very bright)の大統領選候補者の争いの中で、焦点、関心がそちらに向かっている。

 (7)その大統領選も役者は揃っても政治家としては小粒で、政策、経済、国際情勢の深い論議はなくて中傷合戦に終始しているとの評判なのはいかがなものかと思う。米国政治も影響力低下がますます懸念される事態だ。

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国民、消費者に対して負うべき責任。it must take the responsibility against the nation & consumer

2016-03-01 19:48:25 | 日記
 (1)政治、政府は憲法にもとづいて主権者であり税投資負担者の国民の生命、安全、財産、権利を守る責務を有する。最高責任者は首相であり、大統領制では国民が直接選挙で選び議院内閣制では国民から選ばれた議員で構成する国会が選ぶ。

 政治の最高責任者と税投資負担者の関係を見れば、政治、政府の最高責任者は国民が直接選ぶのが合理的だが、国民の権利、利益の実現性を考えれば国会運営の円滑な政権運営担保が保障される国会での多数決原理が合理的ともいえる。
 国民の意に反して国政に行き詰まったり不利益、損益をもたらすことがあれば、最後は国民が選挙の審判で最高責任者に政治責任を負わせるのが民主主義政治のやり方だ。

 (2)企業の場合はどうか。株式会社では株主総会で経営陣は株主の信任を受けて(経営陣が大株主であるが)企業経営を任されて、企業利益追求と分配に責任を負う。
 もちろん企業利益追求と分配の対象となるのは国民、消費者であるから、企業活動で国民、消費者に不利益、損益を与えることがあればその責任は最高責任者の社長など経営陣が負うことになる。

 (3)2011年3月11日に発生した東日本大震災による東電の福島第一原発事故では事故から5年が過ぎようとしながら今でも全国に十万人単位での避難生活者が残り、帰宅困難地域が存在する。

 これに対して国民の生命、安全、財産、権利を守るべき政治も電力消費者に多大の苦痛と不利益、損益を与えた事業者東電もいまだに誰ひとりとして合理的な「責任」(reasonable responsibility)を取ろうとしていない。
 政治と原発事業者は当時の原発安全神話のもとに狭い地震災害列島の日本をぐるりと取り囲むように54基もの原発建設を推し進めて、結果として11年に福島第一原発事故により国民、消費者に多大の苦痛と不利益、損益を与えたのだ。

 (4)千年に一度といわれる前代未聞の東日本大震災といわれて、政治も原発事業者も取るべき責任をはるかに超えた自然の脅威に責任を押し付けた。そうなると原発推進の拠り所としてきた当時の原発安全神話は何だったのかとの疑念が残る。

 原発立地自治体、住民の理解、協力、同意のもとに原発建設事業はすすめられたのだから、原発安全神話を信じて協力、同意した国民、地元住民への政治、原発事業者の責任が自然脅威論でホゴにされていい問題ではない。

 (5)責任には原状回復、補償、賠償、支援の民事責任と事故責任の刑事責任がある。国、原発事業者は十分とはいえない被害者賠償、補償、支援責任に転嫁して、刑事責任については誰ひとりとして責任を取ったものはいない。

 同原発被害者の東電責任の訴えは、検察が証拠能力責任がないとして二度にわたって訴訟に持ち込まれることなく不起訴処分とした。これに対して検察審査会は大津波による原発施設の被害は事前の東電の試算検討で想定できたとして、対応しなかった当時の旧経営陣責任者3名の強制起訴を決定した。

 (6)自然の脅威論に責任のすべてを押し付けた政治、原発事業者であったが、結果として国民の生命、安全、財産、権利を守れずに多大の被害、不利益、損益を与えた責任は自然現象とは別次元の人類世界の中で一次的には政治、原発事業者が負うべき事柄だ。

 もちろん一般事件でもそうであるように、予見できずに知り得なかったではすまされる問題ではない。間違った原発安全神話の推進責任はある。
 
 (7)予見できたか知り得たかの前に、あまりの国民に与えた被害、不利益、損益への甚大さ、大きさに職務上の不履行責任として最高責任者が刑事責任を負うことが必要だ。

 それが政治、原発事業者が国民、消費者に対して負うべき本来的責務(it must take the responsibility against the nation and consumer)、業務だ。

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