諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

幽霊との対峙。 その1

2013年12月09日 01時24分05秒 | 霊体・恐怖

今回のお題、何時書こうかズッーと考えておりました。まぁ、幽霊を信じない人は大勢居ると思いますし、幽霊を見たことある人も錯覚の可能性はあると思います。

しかし私は見ました、幽霊を。しかも目の前で。2メートルも離れていない距離でです。そして確信し断言します。幽霊は絶対います。間違いないです。本当に絶対います。

そこで私、思いました。幽霊が実在するのであれば神も絶対いると。

実際に幽霊を見て感動しました。かなり嬉しかった。勿論、恐怖心もありましたが、それ以上に嬉しかった。私は間違っていなかったと思いました。

っと言う事で、今回はその幽霊と対峙した時の経緯をお話したいと思います。時は今から11年前の10月です。

私は以前にも書いた通り従兄弟を祟りとしか思えない事故で亡くし、神の存在、霊体、そして祟りについてズッーと引きずってました。

どうして従兄弟はあんな死に方をしたのだろうか。そして従兄弟は自分の死を予期していた。生前に縁のある者の前に現れ挨拶を交わしていた。そして最後に私の所に来た。私は寝ていた。従兄弟と会った弟は私は留守だと言い、従兄弟は残念がって帰って行った。そして数日後に事故死しました。

私は悔やみました。人生ってパチンコの玉の様なモノじゃないですか。最後に私と言うピンに当たっていれば死ぬ事は無かったのではないか。私なら何らかを察知して従兄弟に忠告が出来たのではないか・・・・。

本当に悔やみました。そして恨みました。祟りを起こした悪霊どもを。何度も事故現場に通いました。こんなところで死んだのかと思いましたよ。そして祟り殺した悪霊に挑発続けました。私を祟ってみろと。私は死んでも良い。死んで悪霊になってでも従兄弟を祟り殺した奴に復讐したい。

「出て来い、出て来い。祟れるものなら、祟ってみろ。地獄に落としてくれるわ」と何度も念じたものでした。

私は本来、楽天的な男でした。目立ちたがりだったし、ユーモアもあり、リーダー的なタイプだったと思います。

しかし、従兄弟が死んでから変わったと思います。何も感動しなくなったし、何も信じなくなりました。何も望まなくなりました。

中学から高校、大学とプロテスタント系の学校に通いキリスト教も学びましたが、宗教には矛盾しか感じられませんでした。

牧師でもあった副校長は自分の権力を高める為、行使する為にキリスト教に入ったのではないかと思えたし、聖書を学んでもピンと来ませんでした。

第一、イエスキリストは十字架に掛けられた時、神に対して恨み言言っているし、絶対神・ヤハウエはアブラハムの自分への信仰心を試す為に、アブラハムの息子・イサクを生贄に出せと要求してます。自分に対しての信仰心も判らない神が絶対神なんて信じられませんでした。

犬なら人の精神状態、または自分に対して敵意があるか好意があるか人のアドレナリンの分泌状態を嗅いで的確に判るのに、そんな事も判らない神なんて信じられるかと思いました。

イエスキリストに対しても同じ磔で死んだ戦国時代の徳川方の一兵卒、鳥居強右衛門の武士道の方がはるかに上です。イエスは鳥居強右衛門の精神力の前には足元にも及ばないと思いました。故に私はキリスト教では納得出来ませんでした。

逆に新約聖書の「マルコによる福音書」の内容と、その数十年後に書かれたマタイ、ルカ、ヨハネの福音書の内容の差から、イエスキリストも存在を疑問視するようになりました。ただ単にイエスはバクテスマのヨハネにくっついていた大工にすぎなかったとしか思えません。

一体、神とは何のなのか。本当に神がいるのであれば神の存在を知りたい。神の姿を見たい。神の正体を知りたいと言う気持ちが段々と強くなって来ました。

 

つづく。

 

コメント
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