諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

日本人の信仰。その3

2018年12月28日 18時10分58秒 | 信仰
続きです。

キリスト教禁止令が出ても信仰は続きます。隠れキリシタンと言うヤツです。

特に多かったのは私の故郷の福島県・会津地方。二本松など当時の人口の3分の1はキリシタンだったと言う話もあります。見つかったら殺される。それでも信仰を捨てない。

イエスだって十字架にかけられた時、父なる神に対して恨み事を言ったのに、日本人キリシタンは正々堂々と処刑される。

仙台では外国人宣教師が仙台藩に捕まり水牢に入れられようとする場面に、数人の日本人キリシタンが現れ、一緒に水牢に入ることを希望。そして宣教師と共に水牢で処刑されています。日本人は神に対してここまでの覚悟があるのです。

人に限らず生物は生きる本能が有ります。敵に追われれば逃げる。自分の命を守る。それは間違いなく本能です。

その本能を無視させて信仰の為に死を望む。「キリスト教では神を信じろ」と言います。イエスも十字架に付いた。イエスに従って自分も処刑される。それが正しいのか。

私はそこに疑問を覚えてキリスト教の歴史を学問的に学んだのですが、イエスにはモデルがいる。イエスは創造された人物だとの考えに行き付きました。

キリスト教を学問として学ぶとどうしてもその結果に行き付きます。これは私だけではありません。そう結論づける人が大変多い。そうとしか考えられないのです。

その学問的事実を知らずにイエスを妄信して自ら死を選ぶ。本能に逆らって。

本能に従うことは悪であります。本能にしたがって犯罪を犯していたら社会は成り立たない。それは規制すべきです。

しかし、本能に従わざる負えない欲求もある。食欲とか。

その欲求に反すれば生きていけない。だから人間は清濁ある。濁もまた人間。清だけでは人間は生きていけない。それがキリスト教に限らず宗教全般的に矛盾している部分だと思いますね。

そして時は流れ徳川幕府が終焉し明治時代に。開国してキリスト教宣教師がまた来日して布教を始める。

私の通っていた学校も明治時代に来日して宣教師によって創立しています。

更に時は過ぎ第二次世界大戦勃発。アメリカ等のキリスト教国との戦争に突入した。日本のキリスト教徒また迫害される羽目になる。

そして終戦。日本は敗戦国に。そしてGHQによるキリスト教教育が推奨される。高山右近が悲劇の宗教者ととしてキリスト教国によって英雄として持ち上げられもした。しかし、キリスト教の信仰心し冷え切ったままとなった。

その一因となったのが広島と長崎に落とされた原爆。キリスト教にあらずんば人にあらず。無慈悲にキリスト教国であるアメリカは2つの原子爆弾を日本に落とした。

特にショッキングだったのは長崎に落とされた原爆。本来は北九州佐世保に落とす予定だったが、雲が立ち込めて視界不良に。

そこで計画を変更。急遽長崎に計画を変更。長崎でも火災等で視界が優れない。目的地が不明に。しかも日本の戦闘機も現れる。B29も操縦が不安定になる。目標物を把握しないまま原爆を落とした。

長崎県はキリスト教徒が多く住む街です。しかしキリスト教徒と通常の日本人は仲が悪い。いざこざが絶えない。キリスト教徒はヤクザ紛いの態度。長崎市民はキリスト教徒を毛嫌いした。キリスト教徒も玄関にれキリスト教徒の紋章を飾る。

それだけでなくキリスト教徒等は長崎市内の山を隔てた場所に自分たちの街を造った。一般人と別れて住んだ。そのキリスト教徒の街のど真ん中に原爆が落とされた。


続く。





コメント (2)
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