諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

何故か三居沢不動尊へ参拝に行ったら・・・・・・・、ギクッ!!

2013年05月10日 01時57分28秒 | 霊体・恐怖

昨日、5月9日午後5時過ぎに、何故か三居沢不動尊に参拝に行きました。バイクで用足しをしていて急に瀧を見たくなり、チョット寄ってみようと思った訳です。

あっ、その前に三居沢に付いて説明しますね。

仙台は織姫・彦星の七夕祭りで有名ですが、それは江戸の時代から紡績が盛んな街だった事が一因です。

因みに紡績というと「女工哀史」、つまり「あゝ野麦峠」のイメージから貧乏で激務な仕事を連想しますよね。実際は腕の良い女工さんなら、一年間で平屋が2軒買える程の高収入が得られる大人気の職種です。

当時は紡績で戦艦大和を造っていた時代ですから当然ですね。まあ、激務だったかも知れませんが、あの映画、チョット盛りすぎです(笑)。

因みに私、大学のゼミが紡績でテキストは「女工哀史」でした。あの本は資料集で映画の話を期待した人は読めないと思います。詰まらなくて。

明治に入ってからは紡績工場に電気を供給する為、確か1880年頃に仙台市の中心部を流れる広瀬川の水流を利用した日本初の水力発電所が三居沢に建てられ、今も電気を造り続けています。

紡績工場が集中していた片平周辺には織姫を祀る藤坂織姫神社もありますが、三居沢に隣接する山の頂きには亀岡八幡宮が鎮座しています。そしてその昔はその場に瀬織津姫を祀る瀧澤神社が鎮座してました。

その時代の瀧澤神社の瀧は三居沢不動尊の瀧であると思われます。亀岡八幡宮にも瀧はありますが余りにも小さい。ちょっと離れてはいますが、どう考えても三居沢不動尊の瀧が瀬織津姫の瀧だと思えます。

さて、話はここからです。三居沢不動尊に着いてバイクを駐車場に停め参拝に向かったのですが、境内にて幾つかの白い物が揺れています。近寄ってみたら広げて干されている2枚の手拭いでした。手水舎??みたいな所に干してありました。

その時は無風状態でしたが、「あっ、瀧の水流が風を起こしているのだな」と思い更に近づくと・・・・・・ギクッ、、「これはオカシイ、これはまずい」と直感。体か硬直し、フリーズ状に・・・・。

何と干されている手拭いが左右に大きく揺れているんです。大きなのっぽの古時計の振り子の様に。しかも2枚の手拭いが左右逆に動き、交互にクロスしながら・・・・・・。

瀧の水流で風が起きているのであれば風を手拭いの表面で受けて前後に揺れないとオカシイのに、左右に独立して揺れているんです。クルマのワイパーのように。しかも2枚が交互に大きく揺れるなんて物理的に絶対ありえません。

横から風が来ているにしても面で風を受けているのではなく、手拭いの端、つまり線で風を受ける事となります。そんなの物理的に絶対有り得ません。。

それのえもんかけみたいなのに掛けて干されている手ぬぐいが行く手を遮るがごとく、瀧を見せないがごとく、広げた手の平を交差しワイパーで窓を拭くがごとく、激しく分かりやすく動いています。何度も言いますが、これは物理的に絶対有り得ない動きです(言っている意味、お分かりでしょうか・・・・)。

「うわぁー、これは本当にマズイ」と思いましてね、私、参拝せずに引き返しました。

神社仏閣は午後4時以降は行くものではないと言われていますが、夕方以降は人間タイムではなく、霊体の時間なんでしょうね。

真夜中に神社に参拝し、幽霊に出会ったので夜の参拝はするべきではないのは知っていましたが、夕方もやっぱりマズイのだなぁーと思いました。

三居沢不動尊は水子供養のお寺でもありますが、あの絶対ありえない手拭の動きは、この世に産れ出なかった赤ちゃんたちが遊んでて動かしていたのでしょうか。

この場は心霊スポットなのは知っていましたが、夕方からの神社仏閣は彼らの時間なのだと。そして彼らも神や佛に縋っているのだとつくづく思いましたね。現に瀬織津姫はその為の神様ですしね。

やっぱり神様仏様、そして神社仏閣は畏怖の念を持って昼間、出来れば午前中にに参拝しなければならないつくづくと思いましたわ。

いやぁー焦った、焦った。伊豆佐比売神社の件に続いて今回もまたまた驚きました。最近こんな事ばっかりです。

でも何で私、急に瀧が見たいと思ってこの場に来たのでしょうかねぇー。呼ばれた様な気がしたと言えなくもないのですが、霊の事を勉強させる為なのでしょうかねぇー。

私に何かを悟らせたいのか、鈍い私は今一答えが出ません。申し訳ない気持ちで一杯ですわ。やっぱり霊は存在する。それを確信した一日でしたわ。

 

ではでは。

 

 

 

 

 

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖婚(ヒエロスガモス)。 その6

2013年05月09日 12時39分47秒 | 神道

さて、最後に神社に祀られる神が、神とされるプロセスを述べます。

まあ、簡単に述べますと、神が処女(幼女が望ましい)の胎内に宿り、人間として生まれ、人間としての苦悩を体験し、散々な目に合い、終いには殺されて、やがては神として蘇り、民衆を救済すると言うのが一般的と言えます。

これはイエス・キリスト、熊野権現などが代表的です。特に死んで蘇ると言う点は、穀物神の典型的な特徴だと言えます。

菅原道真公の様に祟りを起こし、祟りを鎮めるために祀られるケースもありますが、神社に祀られる事で、祟り神から救済の神として蘇っておりますので、基本は同じだと言えます。

つまり神は、産まれる前から神で、人間として産まれてからも神であり、人間として死んでも神で、神として蘇っても神と言う事です。分かりますかねぇー。

そこで疑問が起こります。それは「私は神の生まれ変わりだ」と宣言する人たちです。

分かりやすくイエス・キリストを例にしますが、人間として産まれて、人々に治癒神として施しをして、ユダヤ教のラビ達から嫉妬され、恨まれ、弟子たちには見捨てられ、民衆から迫害され、最後は十字架にかけられて死亡しています。

つまり、人間の苦しみを知り、人間を理解し、人間を救済するために、人間として最悪の人生を歩み、苦痛極まりない殺され方でとことん人間としての苦しみを経験し、神に戻ったのです。

そんな神であるイエスが、「以前、人間やったことがあるんだけど、今一、人間の苦しみの事、理解できなかったんだよねぇー。しょうがない、もう一回、人間やってみっか」って、成るでしょうか。

神ともあろう者が、人間として生きても人間を理解できず、追試するかの様に人間をやり直す事があるのでしょうか。また、人間をやり直す意味があるのか、それほど神は能力がないのか・・・・・。

まあ、絶対神ヤハウエは、自分に対するアブラハムの忠誠心を知る為、アブラハムの愛する息子・イサクを神への生贄として捧げろ・・・・なんて言っていますから、神と言えども人間の心が分からないのかも知れませんが、私としては神はそんな愚かではないと思うんです。

じゃ、観世音菩薩の生まれ変わりである、ダライラマはどうなのだと言われれば、ダライラマを決めているのは人間な訳ですから、観世音菩薩の眷属を宿しているとは思いますが、観世音菩薩の生まれ変わりではないと思います。

人間が神を決めるのは間違いだと考えます。

それでは、天照大神を宿している青森の木村藤子氏はどうなのかと言えば、それも天照大神の眷属を宿しているからこそ、その霊能力は認めます。何故なら、私も天照大神・豊受大神の眷属に守られて、何とかこれまで生きてこれていますから、それは確信しています。

しかしながら、天照大神自身が出張って木村藤子氏に宿っているとは思えません。今の処、私の考えでは・・・・・。

まあ、これまで長々と書いて来ましたが、読み返してみますと、これって、私のエゴ以外の何物でもないですわねぇー。

全てにおいて確信がある訳ではありませんし、私の様な底辺でのたうち回っている者が発言すべき事ではないなぁーと、書きながら思っていました。

でも、これだけは確信しています。神は畏怖すべき存在であると・・・・・。

神の犠牲により我々は生かされています。それは忘れるべきではありません。

だからこそ、自分が神の生まれ変わりだとか、「♪瀬織津姫~ 貴方を~ 抱きしめたい~」なんて、神と同等の様な発言をし、更には自分の神に対する考えを、自分が神であるかの如く、他人に強制する行為は間違っていると思いましたので、今回、このお題で書き込んだ次第です。

でも、何か、ユダヤ教、キリスト教、仏教の方々から攻撃されそうな事を多少なりとも書いてしまいましたが、これが私の現在の精一杯の考えで御座います。

更に更に考えを深めまして、皆様のように飛躍したいと思いますので、今日のところは平に御容赦下さいませませ。

 

ではでは。

 

 

 

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖婚(ヒエロスガモス)。 その5

2013年05月08日 08時03分41秒 | 神道

次にヒエロスガモスで説明します。

まあ、聖婚と同じ意味なんですけど、イエス・キリストでの話です。キリスト教の方が、日本神話よりシンプルで分かり易いですしね。

実際、「聖母」と言えば、日本人でも「聖母マリア」をイメージすると思います。

これ、説明する必要もないと思いますが、ヨセフと言う旦那がいるマリアが処女であるにもかかわらず、イエスをお腹に宿す訳です。

ヨセフとしては当然、マリアの不倫を疑うのですが、永遠の処女であるマリアが神の子を宿したことを理解し、イエスの誕生を祝福します。

これもイエスはヨゼフの子ではなく、神の子、或いは神自身を示している事になります。これは日本神話・神道と全く同じ思想です。

イエスを産んだマリアは、もう処女ではないのでは・・・・と言う疑問が浮かびますが、バチカンは苦肉の策で、聖母マリアには「腹門??」があり、腹門からイエスを産んだとして、永遠の処女を構築しています。

お釈迦様の母、摩耶夫人も右腋の下からお釈迦様を産んだとされていますが、これも同じ理由です。「神は処女からじゃないと産まれない、子供を産んでも処女じゃなければならない」と考えられているからです。

さて、ここでチョット疑問があります。何故、イエスの母が聖母マリアであり、妻がマグダラのマリア、つまり同じマリアと言う名前なのかです。

他にも、かなりローカルな例ですが、地元・宮城県利府町にある伊豆佐比売神社の「悪玉伝説」では、悪玉が坂上田村麻呂の子を宿し、二代目・坂上田村麻呂を産んだとしています。

これは私説ではありますが、神を養育する者は聖母でもあり、神妻でもあるからだと思うのです。

つまり、聖母マリアと神妻マグダラのマリアは同一人物。悪玉も田村麻呂の母であり、妻でもある。それでイエスが神の子であり、マリアが聖母である事をより確かに証明しているのだと思います。勿論、悪玉・田村麻呂の例もそうです。

うーん、こんなこと書き込むと「この悪魔っ」とキリスト教徒から迫害されそうですが、逆に神と人間は違うと言う理由付けにはなるとは思います。

ここで一度、聖母に付いて総括しますと、聖母は処女でなければならない。神は処女からでかいと産まれないのは例外もあるでしょうけど、全国共通事例と言えると思います。

そして、神功皇后を例に取れば、聖母は巫女でもあります。

巫女は処女であることは当然ですが、初潮前の幼女であることが望ましいと考えられます。

日本には土足厳禁及び、女人禁制の山や神社がありますが、何故か幼女は許されているケースは多いのです。

幼女でなけれは巫女にはなれない。本来の巫女としての資格はないからだと思います。

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖婚(ヒエロスガモス)。 その4

2013年05月07日 01時29分59秒 | 神道

古事記や日本書紀でも、聖婚の規定を満たして産まれた神の話が幾つかあります。

先ず代表的なのが「応神天皇」ですね。

応神天皇の親は仲哀天皇と神功皇后のように思われていますが、神功皇后は5歳で応神天皇を妊娠し、そのまま三韓征伐へ向かい、2年後日本に戻ってきてから7歳で出産したとされています。

実際、神功皇后が人間だとしたら5歳で妊娠、7歳で出産は無理ですわね。

更に応神天皇は、仲哀天皇が死んでから臨月よりも3ヶ月遅れて産まれたとの話もあります。人は臨月より早く産まれる事はあっても、遅く産まれる事は事実上無いので、これも応神天皇が仲哀天皇の子である事を否定する事例です。

つまり、応神天皇は産まれる前から神なので、父親がいない事を意味している訳です。そして神が聖母に宿り、人間として産まれた事を規定していると言えます。

加茂の玉依姫もまた聖婚と言えます。

玉依姫が川で遊んでいた時に丹塗矢が流れてきて、その矢が美しかったので持ち帰り枕元に置いていたら、その丹塗矢が立派な男に変身。そして、一夜を共にし、賀茂別雷尊が産まれたとされていますが、丹塗矢の男は不明です。

つまり、賀茂別雷尊も父親が誰だか分からない。それもまた聖婚であると言えます。

そうなると三輪の活玉依姫(三島溝咋姫)の方も同様です。

昔のトイレは川の上に建てられた小屋だったそうで(一応、水洗ですね)、そこから厠(かわや)と呼ばれているのですが、その厠で用を足していた活玉依姫の富登に(生々しい表現は避けました)、またまた川上から丹塗矢が流れて来て刺さってしまい、それを持ち帰ったら、またまた良い男に変身。一夜を共にして五十鈴媛が産まれます。

まあ、その丹塗矢は大物主なのでしょうけど、父親が誰だかわからないから聖婚で産まれた事になります。故に五十鈴姫は神であり、神武天皇と結婚したこ事で、天皇家は神々の血筋となる訳です。

ここまで来ると、木花開耶姫も同様です。

瓊瓊杵尊との結婚初夜で妊娠し、国津神の子と疑われなから、その場でうけひ(契約)を行い、屋敷に火を付けて海幸彦・山幸彦らを産んだ訳ですから、木花開耶姫は聖母でありますし、神武天皇に繋がる山幸彦・海幸彦らも神と言う事になります。

 

つづく。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖婚(ヒエロスガモス)。 その3

2013年05月06日 01時17分13秒 | 神道

話を日本神話に戻します。

近親婚が神である証明ならば、その神から産まれた「神の子」もまた神です。また、その子孫の神も神の系列。やはり神です。

それらの神については、例を上げるまでも無いでしょう。多くの神がそれに該当します。

以上が聖婚での神の証明の一つと言えますが、まだ神である規定はこれだけではありません。

日本人は古くから自然崇拝と言う宗教観念を持っており、「瀧」や「御神木」、「巨石」等を御神体として崇めています。しかし、自然物の「瀧」や「御神木」そのものが神ではありません。

神が自然物に憑依し化現するから自然物が神となるのです。

言っている意味、お分かりでしょうか。単純に言えば、「瀧」や「木」の自然物が神になることは無いという事です。

これは人間にも当て嵌ります。神が人間に憑依し、化現し神になる事はあっても、人間が神になる事は無いとしているのが神道です。

例を挙げると、「俺は神の子だっ」が口癖の豊臣秀吉が神として祀られていますが、秀吉は神ではありません。人間です。

徳川家康の場合は、南光坊天海や永井直勝あたりが苦肉の策で、家康を薬師如来の生まれ変わりとして奉り、北斗七星の神の傘下に入れ、眷属の彫刻で神威を高めて日光東照宮に祀っていますが、やはり神とは言えません。

強い祟を引き起こす平将門公も神道における神の規定を満たしておりません。

では、同じ祟神の菅原道真公も神じゃないとお思いでしょうが、菅原道真公は神道での神の規定を満たしています。つまり、菅原道真公は神なんです。

何故か分からんでしょ。私も正直シドロモドロなんですが、神は人間になる前から神なんです。

どう言う事かと言うと、神が人間として産まれたとしても初めから神なのですから、人間の父親はいないと言う事です。

道真公の父親は菅原是善とされています。

実際、本当かどうかは知りませんが、菅原是善の前に見知らぬ幼児が現れ、是善が「坊や、どこから来たのだ、父上、母上はどこにいるのだ」と聞いたところ、その幼児は「父上も母上もいないけど、おじさん(是善)の子供になってあげてもいいよ」と言う事で、養子として育てられた事になっています。その幼児こそが菅原道真公です。

つまり、道真公には実の父親がいない訳ですから、神道での神の規定を満たしていると言う事になります。

 

つづく。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする