諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その9

2023年12月16日 10時52分32秒 | 永井直勝
続きです。

ここでチョットご注意を申し上げます。今まで書いて来たブログは何の本も読んでいません。誰の説でもありません。

重度HSPの私が永井直勝になったつもり、豊臣秀吉等々になったつもりで書いています。全ては妄想であり推理です。歴史ばっかりは確かめる事が出来ませんので、断言は出来ません。妄信はしないでください。あくまでも私の考えに過ぎませんので。

さて、永井直勝を殺す方法です。

徳川家康の次女に督姫がいます。徳川と北条が争っていた時、徳川が優勢でしたが、北条家は国力で徳川を上回っている。どちらも共倒れになる。そこで和平となり、その条件として督姫は北条氏直の正室に迎えられています。

二人の間には二人の娘が産まれたみたいですが、共に夭折したみたいです。

その後、北条氏は小田原征伐で秀吉に降伏。戦いに反対していた北条氏直は命を免れたが高野山に追放。それで督姫は家康の元に戻っていた。

秀吉はその督姫に目を付けた。この督姫と永井直勝を殺してやりたい程憎んでいる者を婚姻させる。その直勝を憎んでいる者とは秀吉の養子であり、池田恒興の息子・池田輝政。

池田輝政も正室を亡くしている。二人が結婚するには何の障害も無い。豊臣家と徳川家の親睦による結婚とすれば大義名分が付く。

池田輝政は徳川との小牧長久手の戦いで、父・恒興、長兄・元助、義兄・森長可を討たれている。徳川には恨みを感じている。徳川方に付く心配は無い。

しかも輝政の妹は豊臣秀次の正室・若政所だった。秀次は豊臣家を継ぐ身分だったが、秀吉に子が産まれた為、一族郎党処刑された。

しかし、正室であっても若政所は処刑を免れた。幸いな事に秀次・若政所との間には子供は出来なかった。輝政は豊臣家には恨みを持っていない。そう秀吉も考えていた。

徳川家との婚姻でも豊臣家を裏切る可能性は少ない。好都合だ。徳川家へのスパイとしても期待できる。

直勝にとっては自分が討った池田恒興の次男が、主君である家康の婿となる。もう、絶体絶命です。

当時の徳川家は豊臣家の臣下である。池田輝政は養子であるが秀吉の息子なのである。殺されても文句は言えない。

敵討ちは武家の誉。輝政が直勝を手討ちにしても家康は輝政を咎める事は出来ない。秀吉の息子なのだから、輝政には意見も出来ない。

この戦略??は、妹・旭姫を離縁させて家康の正室として徳川に送った秀吉の戦法だと考えられますが、秀吉も高齢だったので、多分、黒田勘兵衛も関与していると思います。

絶対に破られない軍略??。軍師・勘兵衛と永井直勝の戦いでもあります。

この事態の顛末は家康以下、徳川家臣団も確信した。永井直勝は池田輝政に確実に殺されると。

輝政は直勝だけでなく徳川家も憎んでいる。せめて直勝を討たなければ気が済まない。それが戦国時代の習わし。直勝を討つ事は池田家の名誉回復にもなる。

正負の法則。私の人生もこの法則に支配されている感じがするが、恒興を討った正が仇となり負となって返ってくる。永井直勝も正負の法則の禍を受ける。

さしもの永井直勝も死を覚悟したと思えます。

しかし、直勝はただでは死なない。せめて死の美学を見せてやる。そう考えて池田輝政と対峙したと思えます。


続く。







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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その8

2023年12月15日 11時33分14秒 | 永井直勝
続きです。

豊臣秀吉の軍師は黒田勘兵衛。軍師として頭が切れる男。でも切れ過ぎる。全幅の信頼は寄せられない。この男も天下を狙っている。秀吉が欲しいのは愚直なまでに自分に仕えてくれる人物だ。当然、黒田勘兵衛以上に軍師の才が有って。

石川数正にはそれは求められなかった。スパイの可能性もある。軍師としては用いられない。

永井直勝ならどうか。

直勝は家康と敵対していた信康の小姓だった。家康を恨んでいる筈だ。自分が求めれば軍師として迎えられるのではないか。

そう思った可能性はあると思います。

そして朝鮮出兵が開始。秀吉と家康は佐賀県唐津市の名護屋城で会談。永井直勝は家康のボディガード兼秘書的な立場で家康から離れず同行していた。

秀吉は開口一番、「お前が小牧長久手の戦いで池田恒興を討った永井直勝か。
比類なき勇者よ。会いたかったぞ」と叫ぶ。

秀吉は直勝の素養を一瞬で見抜いた筈。そして秀吉は直勝に豊臣姓を贈った。

豊臣姓を贈る。これ即ち、豊臣家の一員として迎えると言う意味だ。「自分に仕えるのであれば、大名並みに取り立ててやろう」と言う意向とも取れる。

しかし、直勝はそんな言葉では揺れない。

直勝は十代前の長田親致の弟である長田忠致を嫌っている。匿っていた源義朝を騙し討ちした卑劣さを嫌っている。

長田忠致は義朝の首を持って平清盛の元へ走った。褒美を貰うためだ。得られたのは壱岐守だけ。それに怒った忠致は美濃と尾張位は貰って当然と主張。

清盛の長男・平重盛は忠致に対して怒り、命を狙うようになる。

そして長田忠致は逃げ帰り義朝の息子・源頼朝に仕えたが、頼朝が平家を滅ぼした後、用無しになって殺された。

それを教訓としている。だから直勝は金では動かない。更には家康に仕えていても自分の主君は松平信康ただ一人。故に秀忠の側近になるのは断っている。自ら出世の道は閉ざしたと言える。

直勝は自分には靡かない。そう確信した秀吉は考えた。それなら永井直勝は危険人物。排除するしかない。殺すしかない。どうやって殺してやろうか。

直勝は信長を七度も退けた長田重元の子。何時も家康の傍にいる。家康を暗殺すると同様に殺すのは困難。しかも剣技にも秀でている。どうすれば殺せるのか。

そして閃いた。家康の前であっても誰にも文句も言われず、堂々と殺せる方法を。


続く。





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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その7

2023年12月14日 08時52分36秒 | 永井直勝
続きます。

松平信康に話を戻します。

信康が自害したのは1579年10月5日。信長が亡くなった本能寺の変は1582年6月2日。たった2年8か月の差です。もっと早めに信長が討たれていたとしたら、信康も自決することは無かった。信康も付いていなかった。

信康が家康の後継者となっていたら、武田の赤揃えは井伊直政では無くて永井直勝が率いていたなっていた可能性があります。武田側とのパイプ役は直勝だってのですから。

井伊直政と永井直勝とでは武勇でも知略でも直政は、直勝に遠く及びません。直勝にとっても付いていない。本来は徳川家の最大の軍団を率いる武将になっていた筈です。

でも、家康は武将ではなく軍師としての直勝に期待していた節があります。

家康の愛読書は鎌倉時代の吾妻鏡です。源頼朝、北条政子、そして北条義時を自分の立場に当て嵌めていたと思うのです。

上杉征伐の時、石田三成が兵を挙げた。その時に「豊臣方に人質を取られている武将は、豊臣方に付いても構わない」と家康は言い放った。

これは北条政子の大演説と同様の事を言ったまでです。

北条政子は「上皇側は鎌倉に兵を進めている。上皇に歯向かえば我々は賊軍となる。家族が上皇側に仕えている者もいるだろう。ここにいる者達は朝廷に戻って上皇に付も良し。でも私は何時までも西方に従う意思はない。私は朝廷側と戦う決意をしました」と、己を鼓舞して鎌倉武士に語っています。

北条政子も北条家の為に子を失った。子を殺した。

家康も信康を自害させた。同じ境遇だから北条政子の檄文を真似て発言したと思えます。

この檄文は北条家の軍師と言える大江広元が作成したのは間違いないでしょう。

そう、家康は自分にとっての大江広元を欲していた。

そこで白矢を当てたのが永井直勝だったと思われます。

永井直勝の本当の名は長田伝八郎直勝。

家康は「長田姓は源義朝を討った長田忠致の姓故に不吉。故に大江流長井氏を名乗れ」と直勝に命じています。それで正式名・永井伝八郎大江直勝を名乗る様になったのです。

この事実からも直勝に自分にとっての大江広元になって欲しいと、直勝に期待したのだと思えます。

さて、石川数正が秀吉側に付いた。そうなると徳川方の戦略が丸分かりとなる。臣下の礼を取ったとしても徳川方としてはそれは不味い。

故に家康は自軍の戦略を武田の戦略に変えている。そうなるとやはり武田方に精通している直勝が陰で指揮していたと考えられる。

石川数正を手に入れた秀吉だが、徳川にはまだ優れた軍師がいると秀吉は感づいた。

武田の戦略に精通している者は誰か。秀吉はそう石川数正に問うたと思う。そして数正は答えた筈だ。永井直勝の名前を。

豊臣秀吉は確信した筈だ。徳川家の軍師は永井直勝であると。


続く。


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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思う。その6

2023年12月13日 09時55分52秒 | 永井直勝
続きます。

松平信康が自決後、永井直勝は出奔します。

そりゃそうです。主君がその父親の家康に殺された。私だったら気が狂います。そんな外道の徳川家には用はない。逆に家康の首を狙いたい程だったと思います。

出奔中は実家の大浜にもどって野山を駆け回り、狂ったように武術に励んでいた様です。しかも、伊賀者、甲賀者とも付き合いだした。

元々、太鼓捌きなど器用な方だったので剣術も大幅に向上したとの話があります。比類なき剣士に急成長した。2刀流だったそうです。

しかし、1年後、家康の小姓として迎えられています。本人は嫌だったみたいです。父の長田重元の強い説得に渋々応じたのでしょう。長田重元は家康の父である松平広忠に仕えていたのです。

諸説はあります。父としては直勝を引き続き徳川家に仕えさせたかったのでしよう。

でも直勝にとって家康は主君・信康の仇。命を捨てて討つ事も考えていた筈。

こんなケースは戦国時代稀です。親子ではありながら信康の小姓が家康の小姓になる。主君の仇の小姓になる。家康も命を狙われる可能性は考えていた筈。前代未聞です。

それでも直勝を小姓にしたのは、武田側に通じているからでしょう。

信長は武田家を滅ぼした。その武田家の残党を徳川家で取り込みたい。

武田の残党も信長や秀吉には下らない。家康だから下った。そのパイプ役を直勝は担ったと思われます。

そして本能寺の変。信長が討たれた。家康は逃げた。神君伊賀越えだ。

一般的な話しでは忍者出身??とされる服部半蔵が道案内をしたと伝わっているが、我々がイメージしている服部半蔵は同行していなかった。息子の二代目・服部半蔵が同行していたに過ぎない。この二代目は凡人だった。

私が思うに、神君伊賀越えを主導したのは永井直勝だっでしょう。その地に詳しいし、伊賀者・甲賀者共面識がある。

それにどう連絡を取ったのか、逃亡途中の入り江で直勝の父・長田重元が船を用意して待っていた。そのまま家康一行を自らの大浜の屋敷に匿っている。

神君伊賀越えは長田重元・永井直勝親子によって成功したと言える。

伊賀越えでは別行動をとった穴山梅雪は殺されている。そうなると武田家のパイプ役としては永井直勝の独壇場になったと推察されます。

家康は小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦った。小牧長久手の戦いの大将は池田恒興だ。彼が主導した。秀吉は協力者的立場にあった。

勝敗は永井直勝が池田恒興を討って当初は有利だったが、家康が担いだ織田信雄が秀吉側に下ったので勝敗は決まった。豊臣の勝ちとなった。

家康は大分渋ったが、秀吉は妹・旭、そして母親の大政所を家康に人質として徳川に送り、家康は秀吉に臣下の礼を取るしかなかった。

大阪方との交渉役は石川数正が選ばれたが、徳川家での数正の立場は微妙になっていた。支えていた築山殿と松平信康は家康に殺されたからだ。

豊臣方に対しては人質として家康の子・秀康と共に、数正の息子も送られる事となった。

家康は長男の信康を殺している。次男・秀康の命も軽く見ている。何れ豊臣を裏切る魂胆が見えていた。そうなると何れは自分の息子も豊臣に殺される。それだけは避けたい。

それで石川数正は豊臣方に出奔したと私は考えています。忠義よりも息子を取った。これは家康への反論とも言えると思います。


続く。





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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その5

2023年12月11日 18時37分34秒 | 永井直勝
続きです。

ここで話はまたまた脱線します。石川数正が何故、豊臣方に走ったかです。予め語っておきます。

あんな「どうする家康」の話が信じられては、たまったもんじゃないので。

先ず最初に当時の徳川家ナンバー1は、家康ではありません。家康はお飾りとまでは言いませんが、徳川家の象徴と言って良いと思います。

徳川家の実質的ナンバー1は酒井忠次です。そして酒井忠次は織田家に付くことを主張した。

松平信康の妻は織田信長の娘・五徳姫ですから、築山殿と仲が悪かったのは間違いないでしょうが、五徳姫の密告書で信長が信康に自決を求めることは有り得ない。

信康は信長の娘婿なのです。真相がハッキリと分からないのに、徳川家を敵に回す事はしない筈です。

徳川家は武田側と織田側に別れた。武田側に付くことを主張したのは当然、築山殿と信康。そして石川数正。

織田方に付くことを主張したのは酒井忠次と消極的に賛成した家康。

石川数正は築山殿と信康の後見人と言えます。今川家に人質になっていた二人を数正は連れ出したのですから。だから築山殿・信康側に付いた筈です。

しかし、家康は決心した。織田側に付く事を。そして信康を自決させる事を。

その証拠ですが、秀忠の幼名を竹千代とした。家康の幼名も竹千代。竹千代の幼名は徳川家の主君を示すものである。だから信康の幼名も竹千代だった。

それなのにである。信康が生きているのに家康は秀忠の幼名を竹千代とした。竹千代は二人も必要ないのにである。つまり信康は消すつもりだった。

信康を廃嫡する手も考えただろう。でも、それでは三河方の信康擁護派は徳川家から離れる。信康には死んで貰わなくてはならない。

そして家康は信長にお伺いを立てた。「信康を自害させて宜しいですか」と。

信長は徳川家には口を出せない。口を出したら煩く思われる。徳川家臣団から憎まれる。武田側に靡く徳川家臣が出る。信長は「良きに計らえ」と言う他は無い。

ここで注目なのは家康は信長に築山殿を殺害する旨は語っていないこと。「五徳姫の義理の母も殺しますよ」とは言って無いのである。

それなのに家康は築山殿の首を刎ねた。これは徳川家を二つに割った張本人の築山殿への処罰と言える。家康は築山殿を憎んでいたと思われる。

信康に対してはどうか。

私は「逃げるなら、逃げても良いよ」と家康は思っていたと考える。現に幾つも幽閉地を変えた。その中には永井直勝の実家である大浜の屋敷も含まれる。

長田重元と永井直勝なら逃がすのではないか。そう期待していたと思える。

永井直勝はどう思っただろう。信康を逃がしたらお家断絶は当然。一族郎党処刑されるだろう。それを知っていて信康も逃げなかったのではないか。

信康が自決した時、多くの小姓らが殉死した。しかし、直勝は殉死しなかった。

多分、直勝の才を惜しんだ信康が止めたのだと考える。

直勝に生きて徳川の行く末を見て貰いたい。織田側に付いて良かったのか、武田側が良かったのか見極めて欲しかった。

だから信康は直勝の殉死を諫めたのだと思う。


続く。










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