携帯電話が普及し、とりわけ携帯メールが広まってからだと思う。
いつでも、どこでも電話が出来る利便性は認めるし、携帯メールの便利さは確かだと思う。しかし、会話(コミュニケーション)を完全に代替するものではない。その普及に反比例して、むしろ人と人とのコミュニケーションは下手になったのではないかと感じることがある。
数年前のことだが、ある居酒屋で友人たちと飲んでいた時のことだ。となりの席には20代とみえる若い男女が6人座っていたのだが、妙に静かなのだ。驚いたことに、全員が下を向いて携帯電話にメールを打ち込んでいる。
もちろん会話はほとんどない。どうやら合コンのようだが、ぎこちなさよりも会話のない静けさが不気味だった。それでいて、お勘定の時には文句が出るでもなく、皆そろって割り勘で精算していた。二次会に行こうと一人が発言すると、うなづいて静かに付いて行く。
二次会でも携帯のメールだけで、会話なしなのだろうか?
世代ギャップといえば、そうなのだろう。でも、あれでコミュニケーションが成立していることが不思議だった。まあ、彼らはそれで満足なのだろうが、あれを社会人としてやられたら困る。絶対、問題になるだろうと思っていた。
その問題が現実化しているようだ。
近年、顧問先などで時折耳にしていた。仕事ができない若者が増えていることを。とにかく話が伝わらない。いくら熱心に説明しても、耳から耳へと通り抜けているような印象がある。
人の話を聞いていない。いや、よくよく確認すると、話は聞いているのだが、その理解が不可解なのだ。聞いた内容を説明しようと努力しているようだが、整理がうまく出来ていない。だから黙り込んでしまう。
どうやら頭の中で整理して、まとめようとしているようだが、自分の考えと相手の主張が混同したりして、かえって混乱している。ここまで聞き出すだけで数時間かかる始末。
決してバカではない。世間的には一流とされる大学を卒業しているし、資格もいくつか持っている。整理された知識なら、むしろ私よりよく理解しているように思える。エクセルで複雑な計数表を作る作業ならたいしたものだと思う。
ただ、模範解答がない答を作り上げるのが致命的に弱い。会話のなかから要旨をまとめて文章化するような作業が苦手であるようだ。会話の要点を把握しきれていない印象が強い。
何度か話してみて、周囲の評判などから判断すると、決定的に会話力が弱い。目と鼻の先にいる相手に平然とメールを送る。一言話せば済むのだが、どうもメールのほうが楽らしい。つまるところ、声をかけるのが苦手らしい。
ちなみに仕事を終えてオフになっても、会社の人たちとは距離を置いている。むしろ、いそいそと携帯に向かってメールを打ちまくっている。この調子では、プライベートも会話よりもメールなのだろう。これではコミュニケーション能力が低いのも無理ない。
頭がいいだけにプライドが高く、ミスをするのを異常に怖れる。だから間違った答をするのを恐れて黙り込む訳だ。あげくにPCの前で固まって、ひたすら考え込んでいる。
なぜ、一人で悩む?なぜ、相談しない?そう問い詰めると、黙り込むばかり。真剣に悩んでいる風なので、或る意味性質が悪い。
結局、こちらで簡単な例文を作ってあげて、この要領でもう少し詳細に表現するように指示すると、今度は時間内に仕上げてきた。もちろん訂正すべきところは多々あるが、これを丁寧に繰り返すことで、ようやく議事録が完成した。
正直、私一人で書き上げたほうが何倍も早いが、それではこの新人いつまでたっても仕事を覚えられない。社長も半ば諦めていたようだが、使える目処がたったと喜んでいる。
当人も素直に仕事が出来たことを喜んでいるところを見ると、真面目であるのは間違いないようだ。まさか、こんな指導をする羽目になるとは思わなかった。
ただ、この一件以来、やたらと私に相談してくるのには閉口している。社長に顧問料値上げを請求しようか、現在思案中だ。
こんな若者が実際に出てくるようなった背景には、コミュニケーション能力が十分育っていないからだろう。いくら携帯メールを打つのが早くても、実際の会話ほどは多くの情報が含まれない。その場の雰囲気、語調の強弱、表情などは、その場で読み取らねば分らない。
だからこそ、ブロードバンド化が進んだ今日でさえ、実際に会って会議をしたり、打ち合わせたり、雑談(けっこう大事だ)をすることが重要なのだ。
それと、もう一点。やはりマークシート方式の試験の弊害はあると思う。あれは採点者が楽をするシステムであり、子供の学習能力を限定してしまう。やはり、作文は大事だ。自分の目で見たことを文章にまとめるのには作文が一番だ。
これは一朝一夕で身につくことではない。携帯メールが書けるだけでは、本当の意味での国語力は身につかない。人と人との会話を通して、相手の考えを学び、雰囲気を読み、その状況を頭のなかで整理して文章化する。目で見て、耳で聞き、身体で感じることを軽視してはいけないと思います。
いつでも、どこでも電話が出来る利便性は認めるし、携帯メールの便利さは確かだと思う。しかし、会話(コミュニケーション)を完全に代替するものではない。その普及に反比例して、むしろ人と人とのコミュニケーションは下手になったのではないかと感じることがある。
数年前のことだが、ある居酒屋で友人たちと飲んでいた時のことだ。となりの席には20代とみえる若い男女が6人座っていたのだが、妙に静かなのだ。驚いたことに、全員が下を向いて携帯電話にメールを打ち込んでいる。
もちろん会話はほとんどない。どうやら合コンのようだが、ぎこちなさよりも会話のない静けさが不気味だった。それでいて、お勘定の時には文句が出るでもなく、皆そろって割り勘で精算していた。二次会に行こうと一人が発言すると、うなづいて静かに付いて行く。
二次会でも携帯のメールだけで、会話なしなのだろうか?
世代ギャップといえば、そうなのだろう。でも、あれでコミュニケーションが成立していることが不思議だった。まあ、彼らはそれで満足なのだろうが、あれを社会人としてやられたら困る。絶対、問題になるだろうと思っていた。
その問題が現実化しているようだ。
近年、顧問先などで時折耳にしていた。仕事ができない若者が増えていることを。とにかく話が伝わらない。いくら熱心に説明しても、耳から耳へと通り抜けているような印象がある。
人の話を聞いていない。いや、よくよく確認すると、話は聞いているのだが、その理解が不可解なのだ。聞いた内容を説明しようと努力しているようだが、整理がうまく出来ていない。だから黙り込んでしまう。
どうやら頭の中で整理して、まとめようとしているようだが、自分の考えと相手の主張が混同したりして、かえって混乱している。ここまで聞き出すだけで数時間かかる始末。
決してバカではない。世間的には一流とされる大学を卒業しているし、資格もいくつか持っている。整理された知識なら、むしろ私よりよく理解しているように思える。エクセルで複雑な計数表を作る作業ならたいしたものだと思う。
ただ、模範解答がない答を作り上げるのが致命的に弱い。会話のなかから要旨をまとめて文章化するような作業が苦手であるようだ。会話の要点を把握しきれていない印象が強い。
何度か話してみて、周囲の評判などから判断すると、決定的に会話力が弱い。目と鼻の先にいる相手に平然とメールを送る。一言話せば済むのだが、どうもメールのほうが楽らしい。つまるところ、声をかけるのが苦手らしい。
ちなみに仕事を終えてオフになっても、会社の人たちとは距離を置いている。むしろ、いそいそと携帯に向かってメールを打ちまくっている。この調子では、プライベートも会話よりもメールなのだろう。これではコミュニケーション能力が低いのも無理ない。
頭がいいだけにプライドが高く、ミスをするのを異常に怖れる。だから間違った答をするのを恐れて黙り込む訳だ。あげくにPCの前で固まって、ひたすら考え込んでいる。
なぜ、一人で悩む?なぜ、相談しない?そう問い詰めると、黙り込むばかり。真剣に悩んでいる風なので、或る意味性質が悪い。
結局、こちらで簡単な例文を作ってあげて、この要領でもう少し詳細に表現するように指示すると、今度は時間内に仕上げてきた。もちろん訂正すべきところは多々あるが、これを丁寧に繰り返すことで、ようやく議事録が完成した。
正直、私一人で書き上げたほうが何倍も早いが、それではこの新人いつまでたっても仕事を覚えられない。社長も半ば諦めていたようだが、使える目処がたったと喜んでいる。
当人も素直に仕事が出来たことを喜んでいるところを見ると、真面目であるのは間違いないようだ。まさか、こんな指導をする羽目になるとは思わなかった。
ただ、この一件以来、やたらと私に相談してくるのには閉口している。社長に顧問料値上げを請求しようか、現在思案中だ。
こんな若者が実際に出てくるようなった背景には、コミュニケーション能力が十分育っていないからだろう。いくら携帯メールを打つのが早くても、実際の会話ほどは多くの情報が含まれない。その場の雰囲気、語調の強弱、表情などは、その場で読み取らねば分らない。
だからこそ、ブロードバンド化が進んだ今日でさえ、実際に会って会議をしたり、打ち合わせたり、雑談(けっこう大事だ)をすることが重要なのだ。
それと、もう一点。やはりマークシート方式の試験の弊害はあると思う。あれは採点者が楽をするシステムであり、子供の学習能力を限定してしまう。やはり、作文は大事だ。自分の目で見たことを文章にまとめるのには作文が一番だ。
これは一朝一夕で身につくことではない。携帯メールが書けるだけでは、本当の意味での国語力は身につかない。人と人との会話を通して、相手の考えを学び、雰囲気を読み、その状況を頭のなかで整理して文章化する。目で見て、耳で聞き、身体で感じることを軽視してはいけないと思います。