ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

聖骸布血盟 フリア・ナバロ

2013-10-07 12:36:00 | 

昔は怒ると思っていた。

でも、その為人を考えればむしろ悲しむだろうと思っている。

素行が悪く、いささか情緒不安定であった子供の私を心配して、母は知人が関わっていた某キリスト教の団体に私を連れて行ったのは、たしか小学校5年生の時であったと記憶している。

私自身、不思議であったのだが、この団体に私はあっという間に馴染んでしまった。聖書の朗読を通じて知ったイエス・キリストの教えに私はそれなりに感心してしまった。

一番感化されたのは、神に対して過ちを謝罪することであった。神に許しを請う、これまで感じたことのない、まったく新鮮な感覚であった。

ひねくれものの私は、それまで先生であろうと警官であろうと素直に謝罪したことなんざなかった。素直に頭を下げながら、心の中ではソッポを向いていたのが当時の私であった。

大人なんて信じられるか!

あの頃、私は本気でそう思い込んでいた。大人というか、人間を心底信じることが出来ない子供であったからだ。

だからこそ、神に対して過ちを素直に告解することは、カタルシスに近い甘美な感覚を感じていた。私は悪い事を沢山していたが、それを悪い事だと認め、それを神に対して許しを請うことは、想像以上に心に平静をもたらした。

私が家族以外で、生まれて初めて帰属意識を持った社会集団がキリスト教会であった。妙な言い分ではあるが、ヒネクレ者の私が犯罪者にもならず、裏社会に潜むこともなく、日の当たる表社会で堅気として生きてこれたのは、悪いことは悪いと意識させるキリスト教の教えあってのものだと考えている。

だからこそ、政治的見解の相違から教会を離れることは断腸の思いであった。あの当時、私は彼らの愚昧な空想平和主義を理解できなかった。また、稚拙な私の理性は彼らを説得することも出来なかった。大好きな人たちではあったが、距離を置くことでしか解決策は得られなかった。

距離を置き、時間が経つと冷静に考えることが出来るようになった。とりわけ歴史を学ぶうちに気が付かざるを得なくなった。

キリスト教会って、イエス様の教えに反してないか?

欧米の帝国主義の先兵としてアジア、アフリカ、南米を侵略し、広大なキリスト教圏を目指したことはまだ理解できる。しかし、これってイエスの愛の教えに反してないのか。そんな素朴な疑問が口火であった。

だが、なにより許し難いと思ったのは偶像崇拝であった。旧約は当然だが、新約にもイエスが断固として偶像崇拝を禁じたことが書かれている。それなのに教会に行けば必ずイエス様の絵があり、彫刻があり、どう考えてもそれは偶像崇拝そのものだ。

私の疑問は冷たい怒りに代わり、キリスト教会への嫌悪感はいや増すばかりであった。その頃からだが、宗教を神と個人との関係に絞り、その間に如何なる人間の集団、組織等を介入させることを拒否するようになった。

今でもその姿勢に変わりはないが、さすがに年の功でキリスト教が生き延びるための方便が、十字架やイコンといった大衆に受け入れられやすい偶像崇拝であったことは理解できるようになった。敢えて断言させてもらうと、今のキリスト教の大半は、ヨハネやパウロといった弟子たちが変質させたイエスの教えを説いているに過ぎないと考えている。

そう達観してしまうと、今度はキリスト教が過酷な時代を生き延びるための様々な画策をしたことが興味の対象として楽しめるようになった。数年前に世界的大ヒットとなった「ダヴィンチ・コード」がその典型だが、今も現存すると言われる聖骸布も実に興味深いものだと思う。

現在、トリノに保管されているイエスの遺骸を包んだ布だとされる聖骸布は、まさにキリスト教の生き残りを賭けた戦いを留めた遺物だと思っている。ちなみに炭素測定法による鑑定によると、この布自体は13世紀前後に織られたものだと解明されてしまった。つまり偽物である。

しかし、偽物であったとしても、キリスト教がそれを聖なる遺物だと認め、多くのキリスト教徒がそれを崇めてきた以上、それは聖骸布として機能している。科学的判断ではなく、信仰上の信念こそが問われるのが宗教的遺物であるので、それで十分だと思っている。

ただ、この聖骸布には他にも謎が多い。15世紀に突如フランスに出現するまで、いったいどこで保管されていたのか。

その謎を題材に使って書かれたのが表題のミステリー。上下二巻の大作ですが、なかなかに読みごたえがあります。

でもねぇ、もしイエス様が知ったら、きっと悲しむと思うな。もちろん過ちを赦してはくれると思いますがね。

コメント
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