ヌマンタの書斎

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日米開戦 トム・クランシー

2013-10-11 15:50:00 | 

常に敵を必要とする国、それがアメリカだと思う。

それは国の成り立ちからくる体質といっていい。元々はキリスト教のプロテスタントと呼ばれた新派が自らの信仰の自由を求めて逃亡した先に作り上げた国である。

ピューリタンと呼ばれたキリスト教の一派ではあったが、同じキリスト教のカルバン派やルーテル派とはなんとか価値観を共有できた。だから「キリスト教の信仰」の自由を掲げて建国したが、なぜかカッコ書きの部分は表に出さなかった。

このあたりの曖昧さは、おそらく当時開明的思想を掲げた秘密結社フリーメイソンの影響ではないかと私は考えている。自由、友愛、平等など当時としては進歩的で開明的な思想を看板に掲げたことが、後にアメリカを大いに困惑させることになる。

よくアメリカを移民の国だと云うことがあるが、あまり正確な表現ではない。少なくても建国当初は入植者の国であった。すなわちキリスト教徒たちが、自ら理想としていた社会を築き上げ、新たな入植者たちは当然そのルールに従い社会の一員となることを期待されていた。

ところがなまじ宗教色を隠したものだから、当初にはほとんど考えていなかった新たな移民たちが現れ、あれよあれよと増加した。すなわちプロテスタントとは対立していたはずのカトリック教徒である。だが、これは同じキリスト教徒同士であることから、ある程度一定の価値観を共有できた。

だが、この自由な新大陸に予定外の新たな移民がやってきた。それがアフリカ黒人奴隷であり、謎多き極東の大国シナからのクーリー(苦力)と呼ばれた労働者たちであった。

自由、平等を掲げつつ黒人は奴隷であり、シナ人に至っては理解不能の異民族であった。彼らは必ずしも価値観を共有する親しき隣人ではなかったが、まだまだ少数派であったため許容できた。が、その人口は増えるばかり。

もともと広大な面積を持つアメリカであり、工業を発展させた北部と、農業主体の南部では考え方に違いが出るのは必然であった。その違いが壮絶な内戦に発展するのに時間はかからなかった。これが南北戦争である。

日本では黒人解放戦争だと勘違いする向きもあるようだが、実際は国家の在り方を賭けての信念の争いでもあり、残酷にして苛烈な戦争であった。南北戦争以前は緩やかな地方政府の連合体に過ぎなかったが、北軍の勝利により初めて強力な指導力を持つ近代国家に変貌した。

余談だが日露戦争と南北戦争は近代技術を大量破壊兵器、大量殺戮兵器として活かした最初の戦争である。以前の戦争とは比較にならぬほど大量の戦死者を出したことは銘記すべき事実である。そして近代戦争は武器弾薬だけでなく民生品までをも総動員する必要がある総力戦であることを知らしめた戦争である。このことを教えない日本の歴史教科書は屑だと断じたい。

さて本題に戻ると、南北戦争の結果アメリカは大きく変質した。もはや宗教上の自由を求めての国ではまとまれない。でも、まとまらなくては、これからの戦争を勝ち抜けない。では多様な価値観を持ってしまったアメリカ国民を如何にまとめたらよいか。

当初は経済的豊かさであったと思われる。南部から奪った膨大な資産はアメリカ東海岸に豊かなミリオネア(百万長者)を産みだす源泉となった。他人より豊かになることが堂々たる目的になった。だからこそ未開の西部を開拓(原住民にとっては簒奪)することが目標となった。

このアメリカの政策は西海岸を超えて遠くハワイ、フィリピンにまで及び、中米、南米までをも勢力圏とするに至った。ただ中南米はヨーロッパ諸国の植民地であったため、直接の支配は避けた。ただしモンロー宣言にみられるように中南米はアメリカの勢力下であるとの線は譲らなかった。

アメリカは更に豊かになるために太平洋の先の日本とシナに目をつけた。あまりに遠方であり理解が難しいシナについては日本との山分けも考えはしたが、肝心の日本がそれを拒否した。ここに後の太平洋戦争の発端がある。

日本を追い詰めた結果、無謀にも愚かな極東の小国は自ら開戦の火ぶたを切ってくれた。おかげで太平洋全域をアメリカの勢力下に置くことができた。だが、日本がくれた最大の贈り物は、もう一つあった。

日本が卑劣にもハワイを不意打ちしてくれたおかげで、世界恐慌以来貧困に苦しみもがいていたアメリカ国民は、見事なまでに一致団結して政府に協力してくれた。白人も黒人も自ら軍に志願した。民間企業は生産ラインをフル稼働して軍需物資の供給に協力してくれた。ようやくアメリカは不況から脱したのだ。

日本という共通の敵の存在が、南北戦争以来引き裂かれたアメリカ国民をはじめてまとめ上げてくれたのだ。敵、万歳!敵の存在こそがアメリカを強くする。

ただし中途半端な敵ではダメだ。朝鮮戦争は思い出すのも嫌なほど悲惨な戦争であったし、なにより片手間に戦ったヴェトナム戦争はむしろアメリカをバラバラにしてしまった。どうやら共産主義との戦いでは、アメリカ国民はまとまらないらしい。

だからこそ、イラクのフセインがクウェートを侵略してくれたのはありがたかった。再びアメリカ国民は政府に忠誠を叫んでくれたではないか。敵だ、敵こそがアメリカには必要なのだ。

そう考えればバブル経済に浮れ、円高を武器にアメリカの資産を買い漁った復活した日本を敵として描けば大ヒット間違いなし。そう考えたかどうかは知らないが、トム・クランシーが表題の作品を書き始めた時、絶対にヒットすると確信を抱いたのは当然であった。

冒険小説やクライム小説などを好む私だから、トム・クランシーの一連の作品は大半は目を通している。でも、日本人であるがゆえに素直に楽しめなかったのは、この作品だけだ。アメリカ人には楽しいのだろうけど、敵役としては複雑である。

だからこそ、最後の神風攻撃の場面には虚心ではいられなかった。やりかねないよな、日本人なら。そう思っていたら数年後にアルカイーダというテロ集団がそれを実践してみせた。トム・クランシーもさぞや複雑な思いであったろう。

今月初め、そのトム・クランシーの訃報が伝えられた。いささか複雑な想いはあるが、エンターテイメント小説の巨星が消えたことには、謹んでお悔やみを申し上げたいと思います。

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