いつだって不平等。
これは人間だけではない。およそ地球で、いや、宇宙でだって生きとし生ける者は平等ではない。たとえ最初は平等な条件であったとしても、結果的には格差が生じる。
これは適者生存という大原則の下、過酷な生存競争を生き抜いたものこそが次世代を生きることを許されることを意味する。それは人間が生まれるはるか以前、おそらくは原始生命の頃から刻み込まれた宿命とでもいうべきものなのだろう。
この大原則に反感を抱き、敢えて逆らおうと志すのは、地球上ではおそらく人間だけではないかと思う。平等という名の理想を信じてしまったが故に、地上に数多の戦乱を引き起こす。
だが冷静に鑑みて見れば、その平等を目指し、一部の富める者への戦いだって立派な生存競争である。人より多く食べたい、人より多く子孫を残したい、そして人より多く幸せになりたい。この素朴な願いが幾多の戦いと悲劇を引き起こしてきた。それが人類の歴史である。
人間以外の生物で、この不平等に悩むものはいない。比較的知能の高いチンパンジーやイルカでさえ、この種の不平等を当然のものとして受け入れているように思える。だが。不平等を糺し平等な社会を求める戦いでさえ、適者生存競争の一種としてみるなら、やっぱり人間様も所詮月並みな生き物に過ぎないのだろう。
ただし、不平等を糺し平等な社会を求める戦いに勝利しても、結果的には新たな格差社会が生まれるのは避けられないと思う。人間に限らないが、生き物は例え同じ親から同時に産まれても、不思議とその能力は異なる。
能力が異なる以上、結果が異なるのは当然のことで、それを無理に平等に扱えばむしろ不満が高まる。その意味で、結果の平等を求めれば、新たな不平等が生まれてしまう。
それゆえ、私は結果の平等を求める事はしない。でも、機会の平等、すなわち均等な機会が与えられる社会であって欲しいと願っている。機会さえ与えられれば、新たな飛躍が生まれるし、それが結果的に社会全体を押し上げる力となる。
実は必ずしもそうでない現実も知っているが、理想として機会均等、結果不平等な社会こそが理想であると私は信じている。
そして自由、平等、友愛を掲げ、民主主義に基づく議会政治を特徴とした欧米の近代社会が、19世紀から20世紀にわたり繁栄し、今も衰えはみせども頂点に君臨するのも、この理想を掲げてあるからこそだと考えている。
だが冷静に歴史を鑑みれば、民主主義もまた流血の女神に引き入れれて実現したものであり、軍事力の強圧なくして実現しえなかったものだ。理念だけではダメで、実力行使あってこそ実現した事実から目をそらすべきではない。
そして21世紀に入り、欧米主導の近代民主主義社会は黄昏を迎えつつある。もはや自由、平等、友愛は輝ける暁の明星足り得なくなっている。その不安があるからこそ、隔離しての理想郷の維持といった願望があるのだろう。
既にアメリカではゲート・コミュニティといった形で、自分たちだけが住みやすい理想的な街を塀で囲って住まう人たちが現れている。これは、この先増えることはあっても、減ることは考えにくい。
表題の映画では、地球の軌道上に人工の生息域を建設し、高度な技術で麗しき生活環境を作り、あらゆる病気さえ瞬時で直せる理想郷が気付かれている。もちろん、そこに住むのは、一部の限られた特権階級であり、大半の人類は環境汚染で生きにくくなった醜い地上で、かろうじて生きている。
これが将来、ありうるべき未来の理想郷なのだろうか。
映画としてみると、いささか消化不良の面もあるのだが、それでも迫力あるイメージの鮮烈さは脳裏に焼き付いてやまない。名作とは言い難いが、印象が強く残る映画だと思います。
多分、印象が強いのは、これがそう遠くない未来にありうる現実だと予感できるからかもしれません。それはそれで嫌ですけどね。