長期政権は必ず腐敗する。
残念だが、安倍政権も歴史が証明する腐敗の法則からは逃れられない。一度首相の座から転落するといった苦杯を舐めた安倍総理自身は、腐敗からは逃れているかに見えるが、その取り巻きはそうではない。
長期政権が腐敗するのは、そこに驕りがあるからだ。もちろん奢った奴が悪いのは間違いない。しかし、問題の根底を見つめ直せば、何故に長期政権が可能となったのかを考える必要がある。
私は安倍政権の外交は高く評価するが、内政、特に経済政策に関しては低評価である。にもかかわらず、安倍政権が長期政権と化した大きな理由は、野党が駄目だからだ。
あれほど長い時間をかけて騒いだ森友問題は、結局詐欺師夫婦が逮捕されただけ。加計問題でも安倍政権は無傷で終わった。今、新型肺炎問題を放り出して騒いでいる桜の会の問題も、結局野党議員のパフォーマンスだけで、安倍政権には痛痒程度の結果である。
何故に日本の野党は、これほどダメなのか。
思うに野党政治家は、自分が正義の立場に立って政権を攻撃することしか頭にない。政権の腐敗を暴き出す正義の政治家の姿に酔い痴れて、自らを客観視することが出来ないのだろう。
民主主義においては、政治の評価は有権者たる国民が判断を下す。
ところが、野党政治家は正義の政治家に拘り過ぎて、国民のための政治家という視点が欠落している。国内政治において、あれほど失策を重ねる安倍政権の下で苦労する国民の姿は目に入っていない。
あくまで安倍政権の不正を糺さんと戦う正義の政治家の姿を鏡に映して満足するだけで、国民は自分を賛美していると思い込んでいる。実際には、冷たい目線で距離を置かれているだけだ。
国民は安倍政治に不満を抱きつつも、国民の為に働く気がない野党政治家を頼る気がない。だから選挙では勝てない。
おかしいのはマスコミも同様で、野党政治家を煽っている一方で、国民の冷たい視線を無視して済ませている。その結果が、新聞の購買部数の減少であり、TVの視聴率低下である。
マスコミが嫌悪するネトウヨ(ネット上に多くみられる右翼的言動)の巣窟だとインターネットを忌避する一方で、自分たちが賛美されるネット環境の構築には及び腰である。
そのせいか、インターネット上にはフェイク・ニュースが溢れ、まともな記事を探すのに苦労する。私がネット情報を素直に評価できないのは、あまりに杜撰な記事が多過ぎるからだ。
本来ならば報道のプロの厳選された報道が、ネット上にあるべきなのだが、多くの場合、新聞やTV報道の横流し的記事に留まっている。そのせいで、保守も革新も、怪しい報道が多くて閉口する。
仕方ないので、私はなるべく現場(シャッター通りや、外人が集まる観光地等)を見て、自分で判断するように努めている。でも、これは物理的、時間的に無理がある。
やはり信頼できる報道は、残念ながら新聞、雑誌、TV、ラジオを疑念を持ちつつ丁寧に判断するしかない。
敢えて野党議員に注文付けたい。マスコミの主張に乗る前に、自分の目で、自分の足で、自分の耳で現場から情報を得る努力をしてほしい。そこで得られる情報は、おそらくマスコミの主張とは違うはずだ。
面倒くさいのは分かるが、それこそがドブ板選挙である。有権者の生の声を真摯に聞かない限り、野党政治家に政権への道は開けないと思います。
負けても輝く選手がいるのは確かだ。しかし、負けたことが良い印象に繋がらない選手がいるのも事実だ。
何度も書いているが、プロレスは格闘演劇だ。シナリオはあってないような即興劇であり、予定調和があるクラシックの演奏ではなく、アドリブが輝くジャズの演奏に近い。
鍛え上げた肉体から繰り出す迫力満点の技の攻防は、観客を驚嘆させ、闘志むき出しの戦いに観客は沸き立つ。だから、プロレスの面白さは勝敗ではない。
しかし、試合である以上、勝ち負けは必要だ。優秀なプロレスラーは、試合に負けても輝く。いくら勝者の祝杯を掲げようと、輝けない勝者さえいるのがプロレスの世界だ。
そして残酷なことに、試合に負けても輝けないプロレスラーもいる。そんな残念なレスラーの一人が安生洋二である。
安生といえば、アメリカのグレイシー柔術の道場に、道場破りに行って、無様にボコボコにされた写真の印象が強すぎる。私は当初、これは新興のプロレス団体であるUWFインターが仕掛けたギミックなのかと思ったぐらい見事な負けぶりであった。
真相は分からないが、安生自身は勝つつもりで道場破りに行ったのは本当らしい。ただ顔面を惨めに腫らした泣き顔の写真がプロレス専門誌に出たのはまずかった。これではプロレスは総合格闘技に勝てないとの印象が強すぎて、プロレス界にとってマイナスにしかならなかった。
生で見たことは一回しかないが、安生選手自体は実にプロレス向きの良い身体をしている。格闘技志向を強く打ちだしたUWFの流れを汲むだけに、鍛え方は本格的だと思う。そこいらのマイナーな団体ではないUWFは、その点しっかりしている。
実際、安生はUインターの道場では一番強かったらしい。だがグレイシーに負けてしまった。敵地に乗り込んで、相手の道場でに試合なので、元々不利なので、その点を割り引いてもいささか腑に落ちない。
なんで道場破りなんて危ないことをしたの?
武道を掲げる道場への敵対的行為は、命がけの行為である。武道とは、極論すれば相手を殺す手段の体系化である。格闘演劇とは目指すものが違い過ぎる。異種格闘技が格闘演劇として輝くためには、武道者側にプロレスへの理解と共感が必要不可欠である。
グレイシー柔術側に、そのような理解と共感があるはずもない以上、安生は五体満足で生きて帰れただけでも幸運だったと私は考えている。おそらく、Uインターとの興行を有利に運ぶために行った行為だとの推測が一番理にかなう。
安生本人は、けっこう自身の強さに自信があったようなので、余計に惨めである。思うに安生はグレイシー柔術をスポーツ競技だと勘違いしていたのではないかと思う。
私は武道をスポーツだとは考えていない。武道とは突き詰めれば相手を如何に殺すかを極めた殺人術である。ルールとマナーにより洗練されたスポーツとは本質的に異なるものだ。
厄介なことに、武道は世間に受け入れられるため、ある程度のスポーツ化を受け入れざるを得ない。体重制とかフェイスガードと呼ばれる防具、あるいは試合時間、禁止技などは、武道をスポーツ化させるための制約である。
だが武道を本気でやっている人間にとって、それらの制約は絶対ではない。私が武道の怖さを知ったのは中学生の時だ。町道場で柔道をしていたクラスメイトから、授業では使えない技を教わり、それを我が身で受けて、その怖さを思い知った。
その時、教わったのはプロレスでいうボディスラムである。相手を抱え上げて背中からマットに落とす痛め技である。しかし、私は背中ではなく、頭頂部からマットに落された。
そのマットが高跳び用の柔らかいものであったから、私は少し首を痛めただけで済んだ。同時に彼が、私をゆっくりと落したことにも気が付いた。もし、本気で投げ落されたら、高跳び用のマットでも首の骨が折れていたかもしれないと気が付かざるを得なかった。
顔面蒼白の私が、危ねえ~と叫ぶと彼は平然と「だって、柔道は武道だから当然だよ」と答えた。別に昂ぶるでもなく、誇示する訳でもなく、静かに自明の理としてそう答える彼が本気で怖く思えた。
学校の柔道部ではなく、町の道場出身であるからこそ、柔道の怖い部分を当然のものとして彼は身に着けていたのだろう。
思うに安生選手は、スポーツの延長としてグレイシー柔術を捉えていたのだろう。だからこそ、その怖さを知らなかった。そうとしか思えない。ちなみに経歴を調べたら、NZで少年期を過ごし、日本に戻ってからも武道とは無縁のスポーツ青年であったようだ。
その時期にプロレスで活躍する高田伸彦に憧れてのUWF入りだから、ある意味仕方ないかもしれない。プロレスラーとしては、そこそこ試合が出来ているので、決して弱い選手ではない。ただ武道の怖さを知らずにいたことが、あの道場破りに繋がったのだろう。
その後、本格的に総合格闘技向けに鍛錬をしたようだが、残念ながら総合での試合成績は黒星ばかりである。プロレスラーでも総合に強い人もいるので、決してプロレスラーが弱い訳ではない。
身体的な才能には恵まれていたと思うので、多分武道家としての精神の欠如が敗因ではないかと思っている。言い換えれば、社会人としては真っ当な感覚の持ち主なのだと思う。
だって、この現代社会で武道家としての覚悟を持って生きていくなんて、それこそ異端だと思うから。まァ滅多にいませんけどね。
幼い頃から日本共産党とは縁が深かった私だが、未だかつて選挙で共産党に投票したことはない。
だが忘れることが出来ないため、わりと共産党の動向には注意を払っている。
つい先週のことだが、志位委員長が政府高官の発言に激怒していたとの報道があった。志位氏にとっては、日本共産党は平和を目指し、平和を守る政党であるのだから、いつまでも危険視するのはおかしいと怒っている。
その報道を読みながら、私としては、どっちもどっちでしょうとため息つくしかない。
私が共産党の人たちと知り合ったのは小学生の頃だ。私が足繁く通っていたキリスト教の集まりの若手の多くが、共産党の下部組織である全学連や、民青のメンバーであったことから、自然と関心を持つようになった。
早く大人になりたかった私にとって、子供の私に日本のあるべき未来の姿を語ってくれる若者たちは憧れの存在であった。その頃、すなわち昭和50年代は、日本共産党が最も勢力を持っていた時代である。彼らの語る夢は、現実的な夢に思えた。
だが、その頃から共産党内部では混乱が生じていた。
元々、日本共産党はソヴィエトの指導の下、マルクス主義に基づく共産革命を実現することを目的としている。そして当初の目的達成の手段は、武力革命であった。これを51年綱領といった形で明文化していた。
しかし、戦争への忌避感が強い日本の大衆に、武力革命を前面に出すことへの拒否感は強かった。だからこそ共産党内部で激烈な論争が繰り返されていた。多数決的な意味ならば、明らかに話し合い、すなわち選挙による政権奪取を目指す意見が強かった。
だが共産党を主導している宮本議長は、バリバリの武闘派である。当然に武力革命路線を捨てることは許さなかった。確認するが、共産党は党の指導に従うことを強制する独裁政党である。それゆえに多数派である平和革命路線の主張はなかなか通らなかった。
それでも数は力である。結局、51年綱領から党章草案といった形での路線変更が行われたが、問題はその中身である。一言で云えば、どっちつかずである。平和的な方向を大事にしたいが、いざという時に武力革命の手段は残しておく。
私の周囲の若者たちは、これを日和見だと批難していた。ただし彼らが少数派であることは、子供である私にも分かった。この武力革命支持の少数派は、やがて過激派と呼ばれるようになる。
一方、多数派を率いていたのは、不破書記長であった。このメタルフレームの眼鏡をかけたオジサンは、一見厳しそうなのだが、宮本議長の前で借りてきたネコ状態であった。
時代は変わる。大菩薩峠事件、浅間山荘事件、日本連合赤軍のリンチ事件と、共産党の武力革命の可能性は細るばかりであるが、共産党は決して武力革命路線の放棄をしなかった。
呆れたことに、武力革命どころか、革命という言葉自体を党の綱領から消すソフト路線を打ち出したのは、宮本議長の死後である。その頃から党の顔は、不破書記長から志位委員長へと移りつつあった。
私は志位氏のことは全く知らなかったが、彼が次代のリーダーであることはわかった。そして、彼がソフト路線の主導者であることも分かった。だから、今回の政府高官による、共産党への危険視発言に対して、彼が怒るのも分からんではない。
でも、だったら未だにどっちつかずの内容を含有した党章草案を否定しろよと言いたい。過去における日本共産党の迷走を直視し、それを総括して反省しない限り、共産党が平和志向の政党だとは認められない。
私が日本共産党へ票を投じたことがないのは、若い頃の失望が原因であった。あの中途半端さは、かつて戦って正義を確立しようと夢を語っていた若者たちへの裏切りに他ならなかったからだ。
そして、現在も票を投じる気にならないのは、過去の反省をしていないからだ。それどころか、武力革命を志向した過去そのものを、なかったことにしている卑劣さが許せない。
ついでだから書いておくと、既に日本政府は共産党を危険な組織だとは考えていないはずだ。危険な部分はとっくになくなっているこを知っている。にもかかわらず公安を中心として、共産党を危険視するのは、官庁の予算獲得のお題目として有効だからに他ならない。またボーナス査定の頃になると、元・過激派が公安に逮捕されるという茶番劇にも必要不可欠だからだと邪推している。
更に付け加えておく。確かに日本共産党には、もう日本を動かす力はない。ただ近年、気になるのは、シナやコリアに良い様に利用されているように思えてならないからだ。
そんな訳で、私はまだまだ共産党には注意を払う必要がると考えております。
ある日ぃ、森の中、クマさんと踊った~♪ 花咲く森の中~、クマさんと踊ったァ~♪
んな長閑なお話ではない。
凶暴な父親に育てられた兄弟たちと、彼らの繰り返す強奪事件を追いかける刑事の織り成す迫力満点のミステリーが表題の作品である。タイトルの熊と踊れ、とは、父親が子供に戦い方を教える時の喩えである。
とんでもない教え方があるものだ。その父親の教えは、本書を読んでもらうしかない。
しかし、戦う相手を熊と想定するのは狂気に近いと思う。熊を身近で観察すれば分るが、ありゃ筋肉の塊であり、両腕の鋭い爪だけの一振りで馬や牛を一撃で倒す腕力の持ち主である。
しかも熊は素早く動ける。走るのだって人間よりはるかに速い。四足で走るので、下りを走るのは遅いらしいが、それでも人間よりは速い。どう考えても、素手の人間が勝てる相手ではないと思う。
でも、居るというか、居たみたいですね、素手で熊と戦い、勝ち方を身に付けた人って。
夢枕獏氏の小説を読んで知ったのですが、古流柔術の禁じ手の一つに、相手の口に手を突っ込んで、舌を掴むと噛むことが出来なくことを利用する技があるとか。それを熊相手に試した武道家がいたようです。
本当かよと思いますが、一概に否定も出来ない。熊ではなく犬、特に野犬相手の話ですが、犬に襲われたら口の中に手を突っ込めと教わったことがあります。犬を飼ったことがある人なら勘づくと思いますが、噛む前に先に手を喉まで突っ込んでしまうと、如何な犬といえども口を閉じることが出来ません。
教えてくれた人は、野犬駆除に当たる猟友会の方でした。その時、教わったのは、口に手を突っ込み、犬を横倒しにして、その脇腹に膝を突き立てて除骨を折って内臓に損傷を与える方法でした。
なるほどと思ったけれど、犬の口に手を突っ込むタイミングの難しさと、あの恐ろしい吼え声にビビらず立ち向かう勇気の持ち様こそ最大の関門だと感じたものです。
ただ、やろうと思えば出来る技術だとも思ったのは確かです。でも、それは犬相手の場合。熊相手に、それを実践した人が、どうもいたようなのですよね。ちょっと信じがたく思いますが、武道家ならばありうるとも考えています。あたしゃ無理ですけどね。
もっとも実際に野山で野犬や熊と対峙する羽目に陥ったら、冷静ににらみ合い、こう着したら目線を外してゆっくりと後退するのが一番現実的だと思います。野犬も熊も本気で戦おうとうする相手とは、無理に戦おうとはしませんから。
ただし、襲われたら必死で抵抗することです。実際、クマに襲われた人が助かるのは抵抗した場合ですから。キノコ狩りに使う鎌を振り回して助かった老人や、背負ったリュックを振り回して、それを熊に奪われたら、そのリュックを咥えて逃げ去った熊の話を聞いたことがあります。
どんな場合でも、必死で生き残ろうとする意志こそが、最強なのだと思うのです。例に挙げた熊の口に手を突っ込んだ武道家だって、実際に熊を殺したのではなく、熊がビビって逃げたのだろうと思います。素手で勝てる相手じゃないですよ、熊は。
ところで表題の作品ですが、上下巻で千ページを超える大作です。ですが実話を元にしているだけに、展開はスピーディで、ワクワクしながら読めますので、お薦めの一作ですよ。
僕らは皆生きている。オケラだってミミズだって生きている。
もちろんゴキブリだって、ダニだって生きている。嫌われものではあるが、彼らは人間の食べ残しや、爪、垢、ふけまで食べてくれる貴重な生き物である。彼らにも生きる存在価値はあるんだ。
だから、安倍首相が嫌悪している社民党を始めとした泡沫野党にだって存在価値はある。どんな社会でも、皆の考え、意見、感情が全て一致するなんてありえない。
異論、反論があるのが当然だ。民主主義の素晴らしいところは、多様な意見の存在を認めていることだ。意見を堂々と表明できることのメリットの一つは、不満が発散できることだ。
安倍首相が野次を飛ばしたように、社民党に辻元議員の発言にたいした価値はない。私自身、そう思わないでもない。
しかし、今少し考えてみれば、決して多数派には成れぬ愚かな少数派の不満を発散する効果はある。これを封じてしまうと、むしろ却って陰湿化し、不満は溶岩の如く鬱積して、遂には地下に潜っての非合法活動に至ることは、多くの独裁国家、中世の王国などで見られた現象である。
簡単に言うならば、自由に発言できない社会は暴力による政治行動、すなわち政治テロの温床となり得る。その意味で、安倍首相の野次は寛容さが足りない。
日本に寄生している政治的ダニ、ゴキブリの輩を嫌悪するのは分かるが、彼らにはそれなりに存在価値がある。自由に発言(言うだけだけどね)があるからこそ、非合法な活動が地下に潜ることを防いでいる。
人間、年をとると鷹揚になるどころか、短気になることが多い。安倍首相には今少し我慢して頂きたいものである。