子供向け映画にケチをつけるのは無粋だと思う。
実際、映像は楽しい。人間が立ち去った後、部屋に残されたペットたちの秘められた楽しみは、観ているだけで楽しかった。
ただ正直に云えば、楽しかったのはそこまでで、物語の過半を占める捨てられたペットたちと、家に戻ろうとするペットたちの物語は長過ぎるオマケに感じてしまった。
もっといえば退屈だった。よく出来た3Dアニメの描写が、かろうじて眠気を抑え込んだだけに過ぎない。実際、私は自宅のCS放送で観たのだが、途中から領収証の整理をしながらの、ながら観であった。
子供向けに楽しく作ろうとの製作者側の意図は分かる。分るけれど、これは大人が観るには退屈に過ぎる。ペットと人間との関係、あるいは人間側のエゴの描き方が甘すぎる。
多分、同じような漫画を日本人の漫画家が描けば、ペットを愛玩道具として勝手に振り回す人間の汚いエゴを抉り出すと思う。日ごろ、日本人はあまり意識していないが、日本の子供向け漫画って、けっこう厳しい内容を含んでいる。
だが、アメリカでは漫画は子供向けの意識が強く、子供には楽しい夢を見させるべきとの固定観念がある。一概に否定できないが、子供というか育児に関する常識が異なるので、良い悪いといった判断は避けたい。
でも、いくら大人が子供に汚い現実を見せたくないと願っても、結局のところ子供たちはその現実に気が付いてしまう。私としては、子供のうちに汚く残酷な現実を、いくぶんか毒気を薄めて知らしめるべきではないかと考える。
そのあたりの感覚は、国、社会、宗教、民族などにより差はあるだろうと思う。だがアンデルセンが残酷な童話を、敢えて書いていたように、幼いうちからある程度、子供に冷酷な現実に対するワクチンとして、厳しい物語をみせる方が良い様に思う。
まァ万人が納得する答えはないでしょうけれどもね。率直に言ってこの映画、小学校に上がる前の小児向けでしょう。大人には退屈過ぎます。
人間、死ぬ時は死ぬ。私はそう割り切っている。
中国は武漢で発生したとされる新型肺炎コロナウィルスだが、少々騒ぎ過ぎ、怖がり過ぎだと思う。
はっきり言うが、ウィルス感染は、日常生活を営む以上、完全に防ぐことは出来ない。少なくても、市販されているマスクではウィルスは防げない。後述するけど、無駄ではないが、そのていどのものだ。
またジェット旅客機などで、世界中に人が多数移動する今日、潜伏期間が二週間もある病気の蔓延を防ぐことなんて不可能に近い。せいぜい病気の蔓延を減らすか、市民のヒステリーを抑える程度のものでしかない。
以前から書いているように、私は免疫力が若干低下しているため、感染症には極めて弱い。ただの風邪でさえ要注意である。もう30年近く、この弱った身体で生きている。
ウィルスを始めとして病原体の感染には、普通の人より気を付けているつもりだ。では、私が日常的にやっている対策といえば、実は簡単なことしかやっていない。
外出先から戻ったらうがいと手洗い。咳が出るときはマスク着用。あとは日常的に清潔にすることだけだ。これだけである。これで十分だと思っている。
我々は日頃意識はしてないが、実のところ頻繁に感染している。呼吸感染はもちろん、皮膚感染などは家の中でも起きている。だが身体に備わっている免疫システムが、外部からの感染に対して抵抗するので、ほとんどの感染症は発症しない。
これはインフルエンザから今回の新型コロナウィルスもそうだが、おそらく大半の人は感染しても発病しない。人体に備わった免疫システムは、外部感染の大半を防いでしまうからだ。
逆に発症するのは、その免疫システムがなんらかの原因で弱っている人だ。それは肉体的な過労であったり、精神的なストレスかもしれない。あるいは食あたりなどで身体が弱っていると、必然感染症には弱くなる。元々免疫力の低い高齢者や小児も弱いのは当然である。その意味で、ある程度は警戒するべきことでもある。
世界中で騒がれている新型肺炎を恐れるのは当然だが、恐れすぎる必要はない。私自身は、自らの免疫力の弱さを自覚しているから、普段の対策(うがい、マスク、手洗い)に加えて、睡眠時間を増やして身体を十分休めることで対応している。
これで防げず、感染して発症するのならば、それが必然の運命なんだと思う。誰の人生でも必ず訪れる日がやってきただけだ。騒ぐ必要はない。人のせいにする必要もない。
どんな生き方をしても自由だけれど、100%安全な生き方なんてありません。私はそう達観しています。
居酒屋でのんびりと飲んでいた時のことだ。
隣の席の若いサラリーマンと思しき人たちの会話が耳に入った。
「信じられないよぅ、うちの嫁、クックパッドを見ながら料理しているんだぜ。どうりで不味いはずだよ」その後も、嫁さんの飯の不味さを肴に吼える、吼える。よほど不満が貯まっているらしい。別に口出しするきはないし、鬱陶しいので係る気もない。
嫁さんの料理が不味いと思うならば、まず話し合って、自分で手本を見せろと思う。もっとも、この手の不満を言う人って、だいたい料理が出来ない輩が多い。あるいはマザコンで実家の母の料理と比べているか、さもなくば日頃の外食で高いが美味しい料理と比較でもしているのだろうと思う。
もっと言えば、褒めて伸ばすことが出来ない人なのだとも思う。多分、上司としてもあまり出来の良いタイプではないと想像してしまう。まだ二十代後半程度なので、未熟といえば未熟なだけかもしれない。まァ、いずれにせよ、私の知っちゃこったない。
ちなみに彼が不味いと決めつけたクックパッドだけど、私もたまに使う便利なサイトだと思う。あれを不味いと決めつけるのは、あそこに掲載される料理には、一癖工夫を凝らしたものが多いからではないか。
これは男女を問わず、料理を作るのが下手な人に言えるのだけど、レシピはよく読んでも、肝心の食材をみてない人は多いと思う。私は最近、カロリーを減らしたいから、鶏肉を使った料理をする。
ところが、この鶏肉という奴は案外と厄介なところがある。まず鮮度が落ちるのが早いので、なるべく早くに料理する必要がある。冬場はともかく、夏場だと痛むのも早い。料理する前に、水洗いしてふき取ることぐらいはしたほうがイイ。いや、その前に匂いを嗅いでおけと思う。
多少、痛んでも日本酒に付けたりして、臭みを取ることは出来る。また、鶏肉はあんがいと火が通りにくいので、よく見て焼かないといけない。美味しい焼き鳥屋の鶏肉なんて、見事なくらい同じ厚みで並んでいる。だからこそ均質に焼けるのだろう。
また、ちょっと信じがたいけど、調理の最中、まったく味見しないのもどうかと思う。それなのに、皿に並べるレイアウトだけは細心の注意を払っているので、見栄えは見事である。でも口に入れると、生焼け部分があったり、味付けが濃すぎたりする。だから料理下手だと言われてしまうのだけど、本人はそれを認めない。その癖、自分ではほとんど食べないって、なにかと思う。
クックパッドに掲載されているレシピは、なるべくシンプルに書かれているので、調理の際の常識的なことは省かれている。だから料理の経験に乏しいと、美味しくない料理になることがある。
正直言って、料理が上手くなるには、誰かに教わるかして経験を積むしかないと思う。
ただね、冒頭のサラリーマンの奥さんだけど、クックパッドを見て作っているだけでもマシだと思う。世の中には、レシピを読まずに、自分の感性だけで料理しちゃう人って実在するから。
あたしゃ、ウーロン茶の香り漂うカレーなんて食べたくない。カレーを不味く作れるなんて、ある意味才能なのかもしれませんけどね。
希代の柔道家、それがコンデ・コマこと前田光世だ。
嘉納治五郎が柔術を柔道として改め、その普及に努めていた明治の頃、青森から上京した青年が前田であった。講道館に入門し、徐々に実力をつけ、アメリカ遠征に加わったことが転機となった。
アメリカ、ヨーロッパ、中南米と世界を渡り、各地で試合をし続け延べ2000試合をこなしたという。柔道着を着たジャケット・マッチでは無敗であり、他流試合ではプロレスラー、ボクサーと様々な格闘家と戦ったとされる。
そんな世界を股にかけた柔道家を取り上げ、改めて世に知らしめたのが表題の作品だった。週刊ヤング・サンデー誌に連載されていたが、当時日本の格闘技の世界では、ブラジルから来たグレイシー柔術が圧涛Iな強さで席巻していた。そのグレイシー柔術の原点が、前田光世がブラジルで開いた柔道場から産まれたものだとは、私も知らなかった。
ブラジルには戦前に日本人が多数渡っていたので、そこで日本人が柔道教室を開き、そこからグレーシー柔術が産まれたのではないかと適当に勘繰っていた。ただ、1990年代に現れ、世界中の総合格闘技の大会を制覇したグレイシー柔術は、柔道とはかなり異なる武術に思えたので、変り過ぎではと苦笑していた程度の知識しかなかった。
なので、私は表題の漫画を読んで、前田光世を知り、その格闘技術が相撲、古流柔術、そして講道館柔道をベースとし、世界を股にかけた戦いの中で、対ボクサー、対レスラーなどの経験を得て変化したのだと知った。
率直に言って柔道の姿を、グレイシー柔術から見出すのは難しい。しかし、前田が基礎を伝え、その後木村政彦が柔道の厳しさを伝えて、さらに練り上げられたグレイシー柔術には、確かに柔道の遺伝子、武道の精神が息づいているのだと思う。
ただ表題の漫画は、少し盛り過ぎだとも思うが、大変に面白いので私としては許容範囲ではある。
もっとも私が前田を希代の柔道家だと評するのは、格闘者としてのものではない。一概に彼のせいだとは云わないが、前田は柔道の伝道者としては、あまり優秀とは言いかねる。
アメリカでもヨーロッパでも、そして南米でもあまり柔道場の普及には成功していない。多分、教えるのは、そう上手い人ではなかったのだろうと想像している。
でも、これだけは言える。たとえグレイシー柔術が世界に名を轟かせなくても、前田光世の名前はブラジルの地に堅く刻まれていると。彼はブラジルに移ってからは、柔道よりも日本人のブラジル開拓事業への協力に傾唐オていた。
最初は格闘者としての名声を頼った日本人開拓団の手伝い程度であったが、ブラジルのジャングルに苦悶する同胞の姿が、前田の魂に火を付けた。その後は、日本の外務省の嘱託として、日本人開拓団のブラジルでの事業に積極的に関わり、遂にはブラジル国籍まで取得し、かの地で人生を終えている。
伝えられる彼の今際の言が私の胸を打つ。
「日本に帰りたい、青森の水が飲みたい」
実のところ、ブラジル開拓事業は上手くいってなかった。それを恥じた前田は、度重なる帰国要請にも首を振り、病に唐黷驍ワで開拓事業に奔走していた。それでも郷里を想う気持ちは強く残っていたのだろう。
今日、ブラジルにおける日本人の存在は、開拓団の成功とも相まって非常に評判が高いと聞く。だが、その成功の影には、前田のような数多くの失敗者がいたのだろう。だが、その失敗を糧に、かの地で日本人は成功を収めた。そのことは、忘れずにおきたいものだとものです。
冒頭からなんだが、快食快便って大事だと思う。
魚の塩焼きは美味しいが、内臓まで食べられる魚は稀だ。私は鮎の塩焼きが好きなのだが、白状すると内臓はそれほど好きではない。少し苦みが過ぎると思うからで、鮎の淡白でいながら濃厚な味わいを邪魔する気がする。でも、頭から尻尾まで丸ごと食べちゃいますけどね。
一方、内臓も美味いと断言できるのが秋刀魚である。秋刀魚の内臓が美味いのは、ちょっと特殊な事情がある。秋刀魚は動物性プランクトンを食べるのだが、食べてから排便するまでが、わずか30分なのだ。
いったいどんな消化力しているのかと思う。ちなみに胃は小さく、その上短い腸で消化しきってしまうらしい。まさに快食快便のお手本である。ただ死んだ後は痛むのも早く、冷凍にしても解凍すると、すぐに内臓は旨味を失う。
そう、つまり新鮮な秋刀魚の内臓こそ美味しいのだ。
もっとも私が秋刀魚の内臓の美味しさを覚えたのは、十代後半だったと思う。家でも秋刀魚の塩焼きは秋の定番料理だったが、私は内臓を除いて食べていた。
ところが高校生になり、酒とタバコを覚えて、居酒屋に出入りするようになると、そこで秋刀魚の内臓の美味しさを知った。悪ガキ仲間から、酒と一緒に内臓を食べてみろと言われて、恐る恐る口にしたら、確かに美味しかった。
苦いは苦いのだが、その苦味に味わいがあった。それを酎ハイで流し込むと、これまた美味い。私にとって秋刀魚の内臓は大人の味であった。え?高校生は大人じゃないって。まァそのあたりは流しましょう。
日本人にとって秋刀魚は、あまりにありふれた魚であったため、その生態は未だ未解明な部分が多い。産卵時期や場所でさえ確定していない。以前は日本人しか食べなかったが、日本で秋刀魚を食べた外国人、とりわけ台湾やシナの人たちがその美味さを知って、大型漁船で大量に漁獲するようなってしまった。
おかげで日本の食卓には、以前よりも秋刀魚が並ぶことが減ってしまった。少し悔しいと思わないでもないが、必然の流れだとも思っている。そもそも秋刀魚は日本だけの独占物ではないのですから。
21世紀、地球の人口は90億人に近くなり、必然的に水、食料、化石燃料を争う時代は目の前です。日本列島近海は寒流と暖流の合流する魚の漁場として絶好の位置にあります。
これまで日本の漁船が世界各地の海で魚を獲りまくっていました。しかし、今後は外国の漁船が日本近海で魚を獲りまくる時代が来るでしょう。世の中には、条約を守らず、資源を守る意識もない国々が数多あります。
どうやって日本の食生活を守るのか、それが今後の重要な課題になると思いますよ。