入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’20年「春」 (12)

2020年03月23日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


「また春は来たけれど、あの人はとうとう帰ってこなかった」。もう30年以上も前に読んだもので正確ではないかも知れないが、確かこんな文章で始まっていた。1984年の2月、「冒険家」と呼ばれたあの人は厳冬期、北米大陸最高峰「デナリ(旧山名マッキンリー)」の冬季初の単独登頂を果たし、その後に消息を絶ってしまった。人々の間にかなりの衝撃が走った。確か捜索隊が編成された際には都内で募金活動が行われた記憶があるが、それほど世間に知られた冒険家と言えば、国民栄誉賞も送られたあの植村直己しかいない。鉤括弧の部分はそれからほぼ一年後に、彼の夫人が綴った手記の書き起こしの部分である。
 文章は美しく哀切であった。一部でしかないがその最期のくだり、「『冒険家は生きて帰る事が本当の冒険家だ』といつも偉そうに言っていたくせに・・・ちょっとだらしないんじゃないの?と言ってやりたい気持ちです」。ここは何度も読み返したから今もはっきりと覚えている。悲しみを抑え気丈な言葉で、しかし愛情をこめて締めくくられていた。別なところで、ある作家だったと思うが、この追想文を「今年の最高傑作だ」と激賞していた。春が来ると、不思議とこの夫人の手記の書き出し部分を思い出す。正確に言えば、あれから36年が過ぎたというのに、今春も・・・。
 その間には、知らずにいたが、彼の遺体発見の情報が流れたこともあったらしい。「bamboo pole」を付けた東洋人らしい風貌だということで、現地でも騒ぎになったようだ。しかし、最後に彼が確認されたのは下山間もない標高6千メートル前後だったということだから、いくらそれが冒険家の演出であったとしても、あの長い竹の棒を腰に付けたまま吹きすさぶ厳冬のデナリ山頂に登ったとは、とても考えられない。竹の棒はもっと下方にあるカヒルトナ氷河のクレバス帯を通過する際に使ったもので、それは写真で見た記憶がある。あの姿は登山家ではなく、冒険家としての挑戦だったのだろうか。
 エベレストにも多くの登山家の遺体が放置されているという。写真で見たことがある。毎年、あれだけの登山者が登る世界の最高峰だから、あのままにしておくわけにはいかないと考えるのも分かる。それでも、できれば最後の地からそう遠くない場所に,懇ろに埋葬してやって欲しいと思うが、あれだけの高所とあっては技術的に難しいだろう。因みに登山者が支払った1名あたりの入山料は、100万円を超えるはずだが。

 庭のボケの蕾がようやく少しづつ白い花を咲かせ、春風に揺れている。先日は、彼岸の翌日だったが、思い付いて夜も遅くに先祖の墓と、友人の墓を訪れた。きょうの尻切れトンボの呟きは意図せず、その延長になったのかも知れない。Oも、植村と同じ山で眠っている。

 本日もお粗末な独り言。
 



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