
きょう最後の一組が去って、またしばらくここには誰もいなくなる。小鳥の鳴く声を聞き、牛がのんびりと草を食む様子を眺める静かな朝が戻ってくる。そう思いながら、ここを訪れてくれた懐かしい顔や、新しい顔を思い浮かべつ、短命な夏で終わってもいいから、長い秋の来ることを今から心待ちにしているのだが・・・。
風がコナシの葉を揺らしている。正午の気温は24度。日中は暑さを感じても、朝夕は長袖の上衣がないと寒いくらいだ。寝る時には毛布と布団を掛け、年中あまり寝具は変わらないが、今年の夏はさすがに用のない炬燵だけは片付けてある。
いつの間にか、ここでの暮らした日数(ひかず)を数えなくなってしまった。昨夏のように、芝平の谷のことや家のこともそれほど気にならず、今やここはようやく引っ越した先の新しい住まいに慣れたような気分でいる。
いや、正直に言えば、我が家のことについては多少の後ろめたい気持ちがないわけではない。里の人たちのことを考えることもある。それでも、こうして自然の中で漫然と時を過ごしていると、里よりか山の暮らしの方が合っていると思う。
同時に、15年もあの片道1時間を超す山道を、よくもまあ飽きずに通ってきたものだと、自分のしたことを他人のように感じている。ただ、そのことが雨の日の中央線や山手線で通勤したころのような苦痛があったわけではないし、無理を続けたという気はサラサラない。
牛は勝手だし、放牧地に侵入してくる鹿の"狼藉"は後を絶たず、しかも増えるばかりで、そんなことに翻弄されていることが多い。それでも、ひたすら草を食むのが牛の仕事であるように、人間も少しづつ牛に似てきたのか、似たような日々を過ごしながらも里心がつくことはない。
頭数確認は下の水場でできていて、訪問者の対応もあり、二日ぶりに小入笠の頭に登った。やはり、あの急な勾配の草の原を歩いていると自然と高揚感が湧いてきて、夏山を楽しむ登山者の気分が甦ってきた。歩き、登り、草原や林の中を横断し、風に吹かれながら大きな空の下に立つ。そんな時、ここでの暮らしが納得できる。
背中に少し無言の強制・責任のようなものを感じながら、それが推進力となって毎日が進んでいく。食べる物にも以前のような積極性はなくあまり気にかけていないが、きょうは富士見に下って何か力になりそうな食材でも買って来ようと思っている。
COVID-19の感染拡大を案じながら、本日はこの辺で。