入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

       ’16年「春」 (17)

2016年03月18日 | 牧場その日その時


 新緑のころは、何年か続けて八ヶ岳の阿弥陀岳に行った。正規の南陵ルートでなく、立場川の源流にわれわれだけの幕営地を設け、日陰にはまだ残雪の詰まった沢やルンゼを登った。必ずしもいつも登頂を目指したというわけではなかったから、気楽な山行だったような気がする。東京でさんざん桜を見て、再び山で同じ花を愛でるというくらいの、祭り気分だったかも知れない。
 目的の山桜の花もあちこちで目に付いたが、何よりも早春の生まれ変わったような暖かな日の光がまぶしかった。目に沁みる落葉松の新緑の森を抜け、広々とした枯草の生い茂る草原を横切り、さらに山懐(ふところ)深く立場川を遡行していく。あたかも広大な八ヶ岳の裾野に融合し、埋没していくような快さがあった。
 しかしその後、別荘開発が進むにつれて、あの辺りの雰囲気も行く都度に変わっていった。優美な山裾を、えぐるようにして進む開発に、次第にわれわれの足も遠ざかった。
 同じころ、稲子湯から雪解けのぬかるんだ登山道を確か3人で、まだ芽吹いたばかりの危うげな新緑の森の中を進み、稲子の南壁の下でキャンプしたことがあった。あの時は、何処へ行こうとしたのか、今ではもう思い出すことができない。初日短い壁にひとしきら遊び、上からわれわれが食事の支度を大声で促すと、それを聞き取れないNKさんが当惑して独り言(ご)つ声が、上昇気流に乗ってこっちにははっきりと聞こえてきた。その可笑しかったことを、眼前に見えていた爆裂した硫黄岳の山容とともに思い出す。
 あのころは、一緒に山に来る女性も何人かいたが、いつしか一人、二人と去っていき、ついにはだれもいなくなった。山行が登攀に偏るようになって、仲間も減り、ついには板橋のNKさんのアパートで会の解散をした。山の歌にあるような恋愛譚はついぞなかったが、NKさんがKI氏に仄かな思慕のようなものを抱いていたのは気付いていた。しかし、知らぬふりをして通した。
 山を去った後の彼女らの消息は聞かない。妻となり、母となりもう長い年月が過ぎたことだろう。それでもたまには春の夕暮れの雑踏の中で、あるいはどこかの住宅地で、桜の花を目にしながら夢幻のように過ぎたあのころのことを、ふと思い出すことがあってほしいと思っている。いつも大騒ぎしていたアイツの顔など、忘れてしまっていてもいいから。クク。
 
 
 
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       ’16年「春」 (16)

2016年03月17日 | 牧場その日その時



  桜の開花予想が報じられた。寒の戻りが今後幾度かあったとしても、3月の20日ごろには東京、信州は4月始め、そして入笠は5月前後か。

 みんな山では何を食べているのだろう。インスタントラーメン、うどんなどの麺類、カレーや雑炊などのご飯もの・・・、こう書いていてもあまり食欲が湧いてこない。サラミ、チーズ、チョコレート、アンパンなどの行動食も、薬でも飲むように食べたものだ。
 単独行で名を馳せ、北鎌尾根に逝った加藤文太郎は、新田次郎の「孤高の人」によれば、干した小魚をよく食べていたとある。彼が活躍したのは大戦前、亡くなったとき(1938年)はすでに中国大陸において”事変”という名の戦争が始まっていた。そういう時代のことだから、口にするものと言ったら粗末な食べ物しかなかったはずだが、そういうことは彼にとっては大した問題ではなかっただろうし、多くの日本人が餓(かつ)えていたときでもある。
 山で旨い物を食べようとしたり、楽をしようと考えるようになって、堕落した、というか、退場すべき時が近付いてきたことを識った。いくらでも食べ物の豊富にある時代に、山でくらいは少々味気ない物を食したからといってどうということではない。また、山登り、登攀というご苦労な行為において、楽などしようと思うのは姑息で、品がない。 ところが、少しでも荷を軽くして、利用できる交通機関は最大限利用して、山でもできるだけ快適さを求めるようになった。すき焼きや焼き肉が一度は献立に上るようになって、温泉に入るのが、いつの間にか半ば目的に変わってしまった。雪の上にテントを張って寝たなどというのは・・・、ウムー、3月の上高地で、それも、もう3年も前のことになる。
 牧場へキャンプに来る人の様子も変わった。小さな家が1軒引っ越してきたかと思うような豪華な装備を広げる人たちもいる。山にいて、都会の暮らしと同じことをしようと考える人が増えた。牧場管理人も、古い頭を切り替えねばならない時がどうやら来たようだ。さもなくんば、ここでも「退場!」、か。今日、来年度の仕事の契約をする。

 巣鴨さん、また山のこと、山岳会のことあれこれ話しませう。Nさん、このごろ沙汰ないですが変わりはないですか。そろそろ来年度の営業案内も作らねばならないが、とりあえずは27年度を参考にしてください。
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       ’16年「春」 (15)

2016年03月15日 | 牧場その日その時

     

  山の抒情派が必ずと言ってよいくらい手にする本が、串田孫一の「山のパンセ」だろう。今なら格別抵抗感はないが、若いころは見向きもしなかった。今なら彼の書くことに共鳴するところもあるし、なかなか骨っぽいところのある人だと、彼の書くものや、人柄に対して、これまでとは違った感想や印象を持つようになった。
 彼自身が書いているが、食べる物にはあまりこだわりのない人のようだった。例えば「島々谷の夜」では、登り出す前に、地元の雑貨屋でパンを買って、道中それと水ぐらいで腹を膨らませている。他でも書いているが、腹が減ったら何でも食べるし、それで構わないらしい。
 また下山後、温泉にもあまり積極的に入ろうとはしない。温泉が嫌いというわけではないようだが、湯につかり、さっぱりとしてから、また汗で汚れた衣服を身に着けるのがいやのようだ。着替えくらい持っていけば、それで簡単に解決すると思うが、どうも抒情派の大家はそうゆうことはしなかったようだ。そこが、大家たるゆえんかも分からない。ともかく、食など些末なことにはこだわらないし、温泉のような付随的なものには頓着しない、ひたすら山の中に在ることを愛したようだ。
 そこへいくと、抒情も理解できずに野生のままで終わる者は、食にこだわり、温泉をこよなく愛す。まあ、こう書いたとて、牛を追いながら明け暮らす身を、人が美食家などと誤解する心配はないだろう。もちろんザザムシもイナゴも食べる。ここで言う旨い物とは、こんな程度のもので、高い食材にも、高価な料理にも全く関心がない。ヨーロッパ的よりも、アジア的な辛い料理が好きだ。ともかく旨ければそれでよい。
 だから塩分がどうたらとか、プリン体がどうしたとか、そんなことには目をつぶる。毎日、血圧降下剤を飲み、乳酸値を下げる薬の世話になっていても、この欲求にだけは勝てそうにない。(つづく)

 山の思い出が始まらず、寄り道に迷っている。今日はこれから「同級会の練習」と称して、気の合った男女6人くらいで、長谷の奥にある入野谷に1泊する。食べる物はもちろん、辛かったり、しょっぱかったりの山家料理。

 

 
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       ’16年「春」 (14)

2016年03月14日 | 牧場その日その時

     5月山桜が咲き出すころ、中央アルプスの残雪が映える

 昔、「山気違い」という言葉があった。それを「山キチ」と短縮して言うこともあったが、概してそういう人たちは、仕事や家庭をほったらかしにして、山にはまってしまった人の印象、面影が強い。もちろん仕事や家庭と山を見事に両立させていた人もいたが、そういう人たちのことまで「山キチ」と言ったかどうかは、覚えていない。
 初期の日本の登山界は学生がリードした。釜トンネルが開通する前でも徳本峠を越えて、年間5千人もの人たちが上高地を訪れたという記録を読めば、そのほとんどが学生だったとある。彼らは経済的にも裕福な階層の子弟が多く、なによりも山に行く時間に恵まれていた。このころの記録には、そうした若者が、山案内人を平気で呼び捨てにする様子が書かれている。後に、「ブルジョワ登山」などと評した人もいる。
 社会人が山の世界に台頭してきたのは、谷川岳が注目されるようになった昭和の初期のころと期を一にしているように思うが、さて、どうだろうか。そのころから、社会人山岳会が雨後の筍のように誕生してくるようになった。 昭和の初期こそ、谷川も学生に先を越されたが、そのうち「日本登行会」などに属す社会人も登場するようになる。昭和8年ごろから、かの「徒歩渓流会」が活躍するようになると、以後、谷川の開拓史からは、大学山岳部の名はすっかり消えてしまう。そしてその傾向は、戦後もかなりしばらくは続いた。
 どうも「山気違い」とか「山キチ」と呼ばれた人たちは、街ではなく、山の中で気を吐いていたわけだが、あまり金をかけずにありあまる若い活力を発散させるには、山はぴったりの場所だったのだろう。「3人寄れば山岳会」などと言われるようにまでなった。(つづく)
 
 今日、松本まで、「エウ"ェレスト神々の山嶺」を観にいった。その感想はまた書くとして、いくら何でも7千メートルの高所で、自己確保もせずに垂直に近い壁を登ることは、ありえない。あまりにも非現実的。そういう場面が目に付いた。
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       ’16年「春」 (13)

2016年03月13日 | 牧場その日その時



  昨日、遠い山の日々の記憶が消えてしまったと書いた。だが、正しくは多分、人に語れるような山の思い出なぞない、と書くべきだっただろう。当時から、いつも山に向かう都度、自分は本当に山が好きなのかどうかと、そんなことすらも疑っていたくらいだ。
 早朝眠いのを我慢して起き、簡単な朝食を済ませて出発の準備をする。不安と緊張を隠して空元気を出すが、内心「さて無事に戻れるだろうか」などと自問しながらテントを出発することもあった。
 例えば、前穂東面の右岩稜は、その上にさらにAフェイスと呼ばれる壁のあることも知らず、それほど困難ではなかったがいろいろあって、途中の岩棚で雨の中一夜を明かした。その時考えていたことを山から帰って実行したが、それが良かったかどうかは別にして、人生の転機となった。そういう山行もあった。
 翌朝、A沢だったかを、奥又白池に下る草原を歩いていたときのことは、鮮明に覚えている。今度は登攀なぞせず、その岩峰の下の気持ちのいい草原に来て、周囲の山や峰を眺めながら日がな一日を安気に過ごしてみたいと思ったものだ。
 岩登りなどに一時夢中になったのは、山が好きだったからだとは今だに言えない。せめて山については、ささやかな目標ぐらいは果たしたいと、そうでなければ山から受け入れてもらえないばかりか、自分自身としても立てないと、そう思っていたような気がする。他に自分を受け入れ燃え立たせてくれるものがなかったからだが、かならずしも山でなくてもよかったかも知れない。それも出会いだろう。山はそういう者にも時にはいい態度を見せたり、また容赦のない仕打ちをする。
 本当に山が好きだと言えるようになったのは、実は入笠牧場の管理人になってからのことだ。(つづく)

 巣鴨さん、種平小屋で1泊、法華道の赤坂口から入笠牧場、そこでたくさん遊び、諏訪神社口に下るコースはお勧めです。山室川に沿って3キロばかりを出発地まで歩くのものも、オツなものです。5月初旬なら山桜、6月前後は小梨とクリンソウです。

 
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